津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(183)寛永三年・日帳(十二月廿七日)

2020-03-23 06:44:31 | 細川家譜

               (寛永三年十ニ月)廿七日

         |       
         |    廿七日 甚左衛門
         | 
惣奉行請書    |      覚

         |  (朱書)
         |  「松井  生田   森    深沢」
松井小吉等知行物 |一、少吉・又介・長介・百介此四人之衆、当地ニ親類縁者無之ニ付、知行物成御蔵ニ納置、面々用
成ヲ御蔵ニ納メ加 |  所在之時ハ、誰ニ而も奉人加判を以可相渡旨、奉得其意候事、
判ヲ以テ引出ス  |
江戸ニテ銀子ノ引 |一、江戸ニ而用所在之時ハ、御銀子被成御引替、重而可遂御算用旨、奉得其意候事、
替        |
         |    (党)
若党小者以下ノ給 |一、若堂・小者已下給分いかほと遣候迄、念を入可申旨、奉得其意候事
分念ヲ入ル    |
         |    以上
         |       寛三                      (浅山)
         |         十二月廿七日                清右衛門
         |                                (田中氏次)
         |           (郎脱)                   與左衛門
         |         湯浅五兵衛殿
         |
         |   (沢村吉重) (盛方院、吉田浄元)                                                                                                      (親英)
書状等請取    |一、大学所へせいほういん内と有之、京ゟ下ルかミ包壱つ、幷仁保太兵衛ゟノ書状一つ、慥うけ

         |  取申候、以上
         |                           沢村大学内
         |                             曽山十左衛門尉(花押)
         
         |一、御船頭田辺長介罷下候事、
         |   (衛友)    (長泰)
         |一、谷出羽様・平野遠江様ゟ御返事、
         |  (東福門院)                           (烏丸光広)
高仁親王     |一、中宮様御誕生■■御祝儀、去十九日ニあかり、権大納言殿ゟノ御文、幷御進物ノ目録・寺嶋平兵
         |  衛言上ノ状、又知首座ゟノ状、何も三宅勘三郎を以上ヶ申候事
         |  (京都)                                                      (星出)   (河部)
蔵奉行蔵子ノ借物 |一、ミやこ・中津郡ゟ御蔵奉行衆幷蔵子共ゟかり物・預り物無之との書付弐つ共ニ、市左衛門・加兵  
預物調      |  衛ニ渡候事
         |

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■藤崎城と藤崎八崎

2020-03-22 07:53:50 | 熊本史談会

 馬追いが勇壮な例大祭で知られる「藤崎八旙宮」は、「承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。」と社記はしるす古い歴史御持つ神社である。「鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。」ともある。

社記にあるように、以前は熊本城内の藤崎台にあった。
南北朝末期、九州の地は唯一南朝方が優位を保った地であったが、今川貞世(了俊)が九州探題に就任すると状況は一変することになる。度々戦いが繰り返され、北朝方(武家方)の優位が見られるようになる。
熊本に於いても、幾たびも戦がくりかえされる中で、「隈本城に対峙する北朝方の藤崎城」の存在が、「軍忠状」に記された内容から浮かび上がってくる。特定する史料は見当たらないものの、藤崎城はまさに藤崎宮があった藤崎台の地に在ったろう事は、間違いないことであろう。

 昨日の史談会では会員のM氏の貴重な研究成果の発表があり、藤崎という地名の由来や、「雑華錦語集」がしるす「藤崎八崎」についての発表と共に、諸会員のいろんな質問・発言などがあって、誠に有意義な会合となった。
M氏は地元にお住まいになって居り、まさに地元の人ならではの知識が豊かであり、説得力がある。藤崎宮注進に「八崎=藤崎・牧崎・河原崎・榎崎・弥勒崎・御崎・鐘射崎・筆崎」が存在し、夫々は阿蘇山の火砕流で形成された京町台地につづく藤崎台において浸食崩壊により崎(岬)を為していた。
藤崎の地名についてM氏は藤崎宮の社記にそっておられる。一方「藤崎=ふちさき→渕先」とする考えが存在しており、私は後者であろうと考えている。

一方私は「熊本平野の貝塚分布」の図をお示ししたが、いわゆる「縄文海進」は熊本市内のかなり深い部分まで入り込んでいたことが理解できる。熊本城の石垣に用いられた石材は水運をもってこの場所から運び上げられたという。つまり井芹川がこの台地の間直にあった。
往古のこれ等の風景を想像すると、誠に心豊かにさせてくれる。

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■秘史・阿部一族(4‐了)

2020-03-22 06:45:09 | 論考

殉死

即日、最初の殉死者が出た。太田小十郎政信である。享年十八歳。十一歳から忠利の児小姓として仕えた。この死は当時、多くがそうであったように、主人への「義」と「情愛」と考えられる。

一月後にまた小姓内藤長十郎元続(十七歳)が追腹をしたが、忠利が逝去直前に長十郎の申し出に、うなずいたともいわれる。(『綿考輯録』)

四月二十六日、名代堀平左衛門から光尚の追腹禁止が伝えられるが、即日、野田喜兵衛他七名の殉死者を出す。翌日に右田因幡、二十九日に寺本八左衛門が追随した。五月二日に宗像兄弟、六月十九日に田中意徳となるが、阿部弥一右衛門と他の三名の殉死日は不明である。六月十七日に藩から十九名全員に跡式相続の措置がなされているから、それ以前となる。

森鷗外の『阿部一族』では、忠利から追腹禁止を言いつけられた弥一右衛門は、十八人の殉死者がいるにも関わらず、生き続けなければならなかった。
「阿部はお許しのないのを幸に生きとる。お許しはのうても追腹は切れぬことはなか。阿部の腹の皮は人とは違うとる。ひょうたんに油でも塗ってきればよかばい」この「けしからんうわさ」に「そんなら切って見せましょう」となったのだが、これでは「犬死」である。史実は先述の通り、「殉死」となっている。
では、弥一右衛門はいつ追腹をしたのだろうか。
私は忠利が脳卒中の症状が出てから正月二十三日に弥一右衛門の屋敷を訪ねた時に、決心したと考える。そうであれば四月二十六日から、遅くとも寺本と同じ二十九日ではなかろうか。
「殉死」扱いされた弥一右衛門の知行千百石は、嫡子権兵衛九百石(前三百石)と五男左平太二百石(前十人扶持)と相続される。二男市太夫二百石、三男弥五兵衛二百石、四男五太夫二百石は既に知行取りであった。
この段階では、権兵衛の藩への不満はないが、後日の知行変更に納得がいかず狼藉を働くことになるというのが鷗外の『阿部一族』(以降「鷗外書」)である。

狼藉

「狼藉」は忠利三回忌の仏前で起きた。
寛永二十年(一六四三)二月十七日、妙解寺にて、権兵衛は焼香後に脇差を抜いて髻(もとどり)を押し切って、妙解院殿(忠利)の位牌の前に供えたのである。
これは、上述の知行が三百石まで下げられたことに対する抗議の意としている。しかし、熊本大学の吉村豊雄氏はこの記録は後年書き加えられたもので、底本となる『綿考輯録』には記載がないとしている。
では何故に権兵衛は髻を切ったのか。
先君への義を果たすことの意もあるだろうが、光尚体制への決別を意図すると考えられる。又、この時、「目安」(訴状)を添えている。(「細川家日帳」~『森鷗外「阿部一族」―その背景―』) その「目安」に書かれていたことは不明だが、おそらく「切支丹」としての自身の覚悟を書いたものかもしれない。
この事は父弥一右衛門の殉死から二年近く、兄弟で十分に話し合った結果である。
実は権兵衛らは、藩の大目付の林外記(げき)から転宗するように迫られていた。
藩側も先君との繋がりがあり、表沙汰にすることはできない。今更、幕府に知られたら一大事である。
外記は陰湿な目つきで権兵衛に言い放った。
「知行もそのままじゃ。切支丹を棄てんね。よか役をやるばってん」
事実、権兵衛は代官役は外され、使用人召放ちの願い出も却下されており(寛永十八年八月十六日『日帳』)、身辺整理をしていたことも考えられる。(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』

覚悟

キリシタンに寛容であった忠利と違い、光尚新体制では、林外記を頭に穿鑿が徹底された。
忠利没後、半年も経たたない寛永十八年(一六四一)八月一日、権兵衛への見せしめのようにキリシタン金川惣左衛門一族が穿鑿され、九月十五日には八人が誅伐された。(『新熊本市史』)

この「金川事件」により、権兵衛も覚悟したのだ。
つまり、キリシタンを棄てないと同時に己一人で阿部家の責任を取る覚悟だった。
権兵衛は病床に伏しているキリシタン柱石だった松野半斎親盛(大友宗麟の三男)を訪ねて、キリシタンとして死ぬことを告げる。半斎は目を閉じたまま、深く頷いた。
屋敷に戻った権兵衛は父がそうであったように弟らと今生最後の一献を交わした。
「おぬしたちは宇佐に戻りなっせい。おいの家族のこつも頼んだぞ」
そして、覚悟した権兵衛は忠利霊前で髻を切る「狼藉」を働いたのである。
「鷗外書」には権兵衛の刑が市中引き回しの上、縛首とされたことに、兄弟らが、せめて武士としての切腹をと抗議したことにより、謀ありとされ、一族討伐となったとある。
しかし、キリシタンとって自死は重罪である。確かに権兵衛の行動は他愛行動ではあるが、この時代は許されなかった。結果、権兵衛の望むところであった。
つまり、真の「殉教」なのである。父弥一右衛門の死はあくまで泉下の忠利への義を体現したものだった。
しかし、権兵衛の首ひとつでは終わらなかった。林外記の策により、女子供も含む一族全員を捕縛し、権兵衛屋敷に閉じ込めたのだ。
「妻子までもがそれぞれの屋敷を出て権兵衛屋敷に移ったのは、そうせざるを得ないような邪悪な情勢が切迫していたからではあるまいか。つまり、阿部一族全体が権兵衛屋敷に引き籠ったのは、藩側によってそのように仕向けられたということもできるのではあるまいか。」(『森鷗外「阿部一族」―その背景―』吉村豊雄著)
私も同意見であり、藩により一所に集められたと考えられ、それはキリシタンを根絶やしにすることが前提であった。つまり「獄屋」化したのである。
一族の運命は明白であるが、「鷗外書」は権兵衛は狼藉直後に縛首となっている。しかし、史実は一族誅伐後である。つまり権兵衛と一族はそれぞれ人質になっていたのだ。
この狼藉から四日間に阿部一族が転ぶこと(転宗)を強制される。
外記は執拗に迫る。
「どうじゃ、権兵衛。一言、転んだと言いなっせ。」権兵衛は首を横に振った。

散りぬべき時

権兵衛屋敷周辺は見張り番が立ち、物々しい雰囲気に包まれていた。
二男市太夫は一族全員に向かって言った。「みなでパライソへ行こうぞ」
女子供たちはすすり泣いていたが、祭壇のガラシャのマリア像に向かいオラショを唱えると、不思議に落ち着いて暖かく包まれるような感覚を感じた。
外記は苛立っていた。阿部屋敷からも何の返事がない。
そして四日後の期限を迎えた。
寛永二十年(一六四三)二月二十一日早朝だった。
外記は吐き捨てるように言った。
「あやつ(権兵衛)一人で終わらせんばい。切支丹を終わらすっとばい」
「せからしか。皆討て、おなごも赤子もじゃ」
「家中には切支丹ばいらんばい」
外記は、阿部一族誅伐隊を既に編成していた。
隊長は竹内数馬であるが阿部家の「身内」とされる。この時、数馬は死を覚悟したという。(『真説・阿部一族』)
馬上の数馬は桜吹雪の中をゆっくりと歩いた。
阿部屋敷正門に着くと唇を噛んだ。采配が空を切った。

静かである。
「数馬が玄関から屋敷に入ろうとすると、兄の八兵衛が阻止するが、数馬は押し入った。その直後に鉄砲により討死した。享年二十一歳だった。」(『真説・阿部一族』)
私は阿部一族は、非武装化され、獄屋化にされた権兵衛屋敷に監禁され、権兵衛の首を担保に転宗を迫ったと考える。外記は数馬も「身内」すなわちキリシタンであることを知っており、成敗されたのではないか。

最後を覚悟した市太夫はマリア像のある祭壇の部屋に入った。母、妻や子供達が肩を寄せ合っていた。抱かれていた子供達は震えながら泣いていた。その手にはコンタツ(ロザリオ)がしっかりと握られていた。
市太夫は十字を切って「さんたまりあ様、ぜすきりしと様」と叫んで祭壇に火を放った。やがて、阿部一族は「ことごとく討ち果たされ、家断絶いたし候」(『綿考輯録』)

私は「獄屋」の一族は、その場で全員斬首されたと考える。

ここに忠利が母への祈りを捧げ続けた「秀林院」は永遠に「停廃」したのである。
権兵衛は白川左岸の「井出ン口」刑場へ連行された。対岸の浄土宗西岸寺の住職が手を合わせていた。
縛首になった首は、一族の首と共にしばらく河原に晒されていた。捨板には「謀反の謀あり」と書かれていた。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(細川ガラシャ辞世の句)

エピローグ

慶安二年(一六五〇)十二月二十六日、藩主光尚が三十一歳の若さで逝去。
翌年の七月朔日、大目付林外記が佐藤伝三郎から打ち果たされた。(『日帳』)
理由は不明としているが、その後のお咎めなしとなっている。
忠利寵臣の家老米田是季(これすえ)の命令だったのか。

是季の手にはガラシャのマリア像が横たわっていた。(了)

 

                        参考文献

森鷗外著『阿部一族』
栖本又七郎『阿部茶事談』
藤本千鶴子著『歴史上の「阿部一族」事件』
『綿考輯録』第六巻 第二十六巻
ルイス・フロイス『日本史』
イエズス会『一五八二年の日本報告書』
細川家『日帳』~『福岡県史』近世史料編 細川小倉藩(一)(二)(三) 西日本文化協会 平成二年細川家『日帳』
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス 一九八九年
吉村豊雄著『森鷗外「阿部一族」―その背景―』
『小倉藩人畜改帳』
『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』松田毅一監訳 同朋社出版一九八七年
矢島嗣久著『豊後の武将、宗像鎮続、大友吉統の重臣』
イエズス会『一六一五、十六年度・日本年報』
『大内時代の宇佐郡衆と妙見岳城督』北九州市立自然史 二〇〇四年
『新熊本市史』
松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』~イエズス会士コーロス徴収文書
朴哲著『グレゴリオ・デ・セスペデス』
『大分県史近世篇II』
後藤典子著『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』永青文庫研究創刊号
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳 岩波文庫 一九三八年
山本博文著『江戸城の宮廷政治』
『中世思想原典集成』~日本の倫理上の諸問題について 川村信三訳
武野要子著『藩貿易史の研究』
木島甚久著『小倉のきりしたん遺跡』
大橋幸秦著『検証島原天草一揆』吉川弘文館
東京大学史料編纂所『大日本近世史料』
『葉隠』
『新熊本市史』
『真説・阿部一族』

 

 

 

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■細川小倉藩(182)寛永三年・日帳(十二月廿六日)

2020-03-22 06:44:20 | 細川小倉藩

               (寛永三年十ニ月)廿六日

         |       
         |    廿六日  
         |

山盗三郡引廻シは |一、大場角右衛門尉、田川ニ而山盗仕ニ付、規矩・京都・中津三郡を引候而、田川へ遣候而、はた者ニ
たものニ懸ク   |                 ( 衍 )                             (か脱)
忰三人誅伐    |  かけ可申旨、被 仰出候、せかれせかれ共ハ三人共ニ誅伐可仕旨ニ付、各右衛門せれ長兵衛をひ
         |  かせ遣候、御郡ハ角右衛門斗を引申候事、
         |  (沼田延之)
茶臼 墨ノ硯   |一、勘解由殿ゟ、下関ニ而、冣前御茶うすを被 仰付、上申候ニ、墨ノ硯を指次申様ニと申候間、其
大森土佐硯    |  段吟味仕候而、可申付旨候間、則金子喜左衛門ニ申渡候、太守土佐ハ、右ノうす仕人数ニ而無之
         |   (ママ)墨か
         |  故、黒之硯上ヶ申候事、
三斎鏡餅ヲ二所へ |一、従 三斎様、御鏡御二所へ御すへ被成御使者志方小兵衛被参候事、御小袖一つ、御使者二被遣
上グ       |  候事、
田川郡蔵納幷給人 |一、田川郡ゟ御蔵納、御給人方共ニ皆済目録弐つ、海田半兵衛被持帰候事、則小頭孫兵衛ニ持せ、彦
方皆済目録    |  ・甚、新兵衛・伝介両所遣候事、
下毛郡蔵納皆済目 |一、下毛郡御蔵納ゟ御皆済目録、新兵衛・伝介両人ニ、使ノもの被由申候事、
録        |
蔵奉行吉用坪井請 |一、吉用忠右衛門・坪井五郎太夫請こミ申麦・米、只今被 仰付御蔵奉行溝口理兵衛・田辺六左衛門
込ノ麦米ノ請渡  |  請込申ニ付、為御横目、手嶋小右衛門・栗野仁右衛門・波多理右衛門、右三人をつけ申候事、
         |  (規矩郡)                                      (三淵之直)
猪喰ノ黒犬預リ  |一、徳光村ノ御百姓長右衛門くろ犬、小崎與次兵衛被引寄候を、長岡左膳殿へ可被相渡由申渡候、
鷹ノ餌犬ニセズ  |  但、此犬ハ御鷹之餌犬ニ出し不申、能可仕置旨、左膳殿奉ニて被 仰出ニ付、左様しめ可被置
         |  由、與次兵衛方へ申渡候処ニ、左膳殿御預り有度由被仰付、右之分ニ候事、
蔵奉行坪井女房隠 |一、坪井五郎太夫女房、銀子を百五十目ちいさききんちやくニ入、今迄はかくし置候へ共、上ヶ申由
匿ノ銀子ヲ差出ス |  ニて、甚丞・伝介方迄、状をそへ被差上候事、
         |一、右ノ女房衆ゟ、又銀子四十二匁ノ■由書付有之銀一包、御番ノものニ持せ、もはや是ゟ外ニハ無
         |  之由ニて、坪井少五郎状をそへ、さし上候事、
         |一、山川惣右衛門与田嶋■藤左衛門、江戸を今月十日ノ申ノ下刻ニたち候て、大坂を同十九日ニ出、
         |           (播磨明石郡)  
         |  日和悪敷御さ候て、明石ノ川ニ四日居申候由候、■此御船頭ハ中津留二左衛門、小早之御船ニ乗
         |                         (光隆)
         |  下候由申候而、両人共ニ登城被仕候事、此便宜ニ小浜民ア少様ゟノ御返事持下、
荷舟加子二百人  |一、御荷舟加子弐百人、舟瀬理兵衛置立申候、然は、今度御加子弐百五十人御扶持を被放候ニ付而、
加子二百五十人扶 |  右之弐百人に前廉ゟノ御加子ヲ五十人相加、都合弐百五十人被放候、然ニ理兵衛申候ハ、御荷
持ヲ放タル    |  舟加子弐百人御切米五石宛にて、御早舟ノ御加子同前ニ御奉公可仕由申候間、御かゝへ可被成
荷舟加子切米五石 |  通、理兵衛申候間、一段御為ニ可然候条、白井兵介・鏡善右衛門両人へ、右之通申渡、前廉ゟノ
ニテノ奉公ヲ願ウ |  加子をも御切米五石宛ニ而罷居候様ニ可仕通、右両人ニ申候、然ニ、両人申候ハ、五石取ノ加子
早舟ノ加子    |  ニ而、 御召舟其外御早舟ヲ乗申候儀申付候事不相成候由申候条、右之段々得 御諚候ヘハ、五
         |  石取ノ御加子を可成所迄置候て申付見可申由、被成 御意候間、其段兵介・善右衛門へ申渡候、
悪キ加子ヲ選ル  |  然ニ両人申候ハ、 御意にて御座候ハヽ、奉得
其意候間、然は、弐百人ノ内、悪敷加子をゑり候
         |  て置可申由申候つる、其段理兵衛ニ申渡候ヘハ、左様ニ御座候ハヽ、加子御ゑらミ候へと申ニ付、
         |  而、兵介・善右衛門ニ申渡シ、■■■有合申加子四十七人御舟ニ乗せ、此内にて能分弐十六人ゑ
         |  り出し申候、然ニ、理兵衛申候ハ、御ゑり候て御置候ハヽ不罷成候、其子細は、右之弐百人ハ
         |  来年壱年罷ゐ、明後年二月二日ニ、御いとまを取申ものにて御座候間、如此ニ能加子をも御ゑり
         |  のけ候ハヽ、かわりの加子を抱申儀不罷成候由、理兵衛申候、兵介・善右衛門申候ハ、能加子と
鼻ソゲ 櫓ヲヨク |  申候やうニ有間敷候、ゑり出し申分ハ何も悪敷候、其内ニはなそけ壱人御座候、是ハろをよくお
押セドモ見苦シ  |  し申候へ共、余見苦敷候間、悪敷内ニ仕候と申候、野田小左衛門申候ハ、はなの少つふれ候もの
鼻ノ少シ潰レシ加 |  をゑりのけ申候、是ハきんミ悪敷由申候、此儀せんさく仕候ヘハ、はなのそけ申儀必定ノ由、理
子ヲ除  本加子 |  兵衛申候、本加子ノ内ニも、悪敷加子御座候ニ、我等かゝへ申候弐百人ノ内斗御ゑり候儀、かつ
         |  てん不参候由、理兵衛申候、又兵介・善右衛門申候ハ、先年ヨリ悪敷加子ハ、ゑらミ候てはなし
年老悪キヲ除ク  |  候へと、 御諚ニ付而、年々ゑらミ候て、年のより悪敷分ハはなし候と申候、此方ゟ申付候ハ、
         |  本加子も、又荷舟加子も悪敷分ハ、兵介・善右衛門見合、御扶持を放申候へと申渡候、又五石通
         |  りニ、本加子をも仕なし申候様ニと、兵介・善右衛門ニ申渡候也、
         |

                 ■野田小左衛門という人  
                   上記発言は、小左衛門自身が目を煩い片方は見えなかったとされるし、又足も悪く
                   馬に乗れずに、此のことについて童どもが囃し立てたという。
                   いわゆる身障者であり、このことを以てのものかと推察する。

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■即答「庄林隼人宛加藤清正書状」

2020-03-21 07:08:44 | 史料

■庄林隼人宛清正書状」については、昨日四苦八苦で九割方ほどで一休みしてしまった。
判らない文字については、文意を考えながら後は一文字ずつ、「くずし字解読辞典」でつぶしていかなければならない。
そう思っていた矢先、加藤清正研究の第一人者・F様から早速全文を解読していただきお送りいただいた。
只々感謝を申し上げる。

立花宗茂の臣・小野和泉とともに手柄をたて秀吉からの感状が清正の手元に届けられた。
そのことに対して「其の方一人、数万人の中から御感に預かった。自分も大喜びしている。」
「備前兼光の一腰を与え、帰朝後には加増をも申し付ける」と、面目をほどこした清正の素直な喜びに満ちた書簡である。
加藤家三傑の一人として今日までも称えられる人物である。加藤家改易後は細川家に仕えた。




                今度立左之先手         立左=立花左近・宗茂
                小野和泉両人勇      
               戦手柄之儀者今迄ニ      
               御沙汰置処明朝
               名古屋表より御感          名古屋=名護屋
                   状別紙の報到来候
               悦不過候分而其方
               一人数万人ノ中より預
               御感於我等大悦
               ニ候随而差来備前
               兼光之刀一腰遣之
               候何も帰朝之上可為
               加増候已上
                 三月十五日 清正(花押)

                庄林隼人との

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(21)

2020-03-21 06:23:18 | 史料

                                           

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■秘史・阿部一族(3)

2020-03-21 06:22:12 | 史料

殉教

肥後入封の三年後にさらなる悲劇が忠利を襲う。寛永十二年(一六三五)十二月二十三日(西暦一六三六年一月三十日)、熊本の祇園山(現・花岡山)の禅定院にて、十七人の「キリシタン」が処刑された。
忠利の身内である小笠原玄也とその妻みや、九人の子供と四人の奉公人だった。
そして志賀休也とこさいしょうである。
玄也はガラシャ夫人自刃の時、介錯した小笠原少斎の息子であり、みやは加賀山隼人の長女である。ちなみにみやの妹もリユというキリシタンだった。リユの夫は細川家家臣の後藤又一郎で、黒田二十四騎の一人後藤基次(又兵衛)の二男である。この又一郎の家に居候していたのが、忠利殉死者の一人寺本八左衛門直生次(五十三歳、一千石)である。かつて大坂の陣で又兵衛とともに戦った。のちに忠興に仕えた。
忠利は小倉時代から玄也家族に再三再四、棄教を迫ったが信仰を棄てさせることはできなかった。先述の『イエズス会コーロス徴収文書』(一六一七年)の代表者に署名した「小笠原寿庵」は玄也であろうか。洗礼名はジョアン、ヨハネである。山鹿でひっそりと暮らしていた小笠原一家だったが、報奨金目的の訴人による長崎奉行への訴えだったので、忠利は守ることができなかった。
「何とて熊本へは訴人に出申さず候なりと尋ね申すべし候」(十月二十一日忠利書状)
(何故じゃ。ここは肥後だぞ。その訴人は何故に長崎へ訴えたのか。即刻、調べえい」)
悵然とした忠利の姿が浮かぶ。

寛永十三年(一六三六)、江戸幕府へのキリシタン隠匿の暴露を恐れた忠利は家臣らに転宗を迫る。結果、上級家臣を中心に二十七名から宗門改めの証文(転び証文)を取った。殆ど七月十三日の日付である。これは母ガラシャの命日の四日前であり、忠利の意図を感じる.
また、その他に侍や浪人など二十八名が転宗している。
何と忠利の周りに五十五名ものキリシタンがいたのだ。(『肥後切支丹史』上巻)
かつて宇佐郡の郡奉行だった宗像清兵衛はキリシタンとしての記録はないが、忠利は露見を恐れ、転宗を迫ったのではなかろうか。しかし、それを拒否した清兵衛に七月八日、切腹を命ずるがキリシタン嫌疑ではなく、「御咎之筋有是」とした。事件化を避けたのである。
これは江戸幕府も小笠原玄也一件の露呈から忠利身辺を注視しており、苦肉の策だった。
また、十一月十八日に忠利は鷹野から直接、阿部弥一右衛門宅を訪れている。
忠利にとって小笠原玄也の一件や家中キリシタンの転宗など心労の多かった年だったが、この訪問時に弥一右衛門に加増三百石、銀子五十枚下賜を与えている。(『森鷗外「阿部一族」―その背景― 吉村豊雄』 )

忠利は隠密キリシタン弥一右衛門に、マンショ小西神父の保護と信仰の堅持を命じた。
翌年、寛永十四年(一六三七)七月、母ガラシャ(秀林院)へのミサを断念するように(と見せかけて)、飽田郡立田山の麓に祖父母と母を祀る禅宗泰勝院を建立する。そして仏式で母の三十八回忌法事を行った。
しかし、肥後に秀林院は間違いなく存在した。そして断絶となる理由も。
「元和年中に豊前に秀林院を建て置かれ候を、当御国に御引きなされ候と聞こえ候とも、その年月・寺地の所柄併びに停廃の事もわかり申さず候」(『綿考輯録』)
(元和年間に豊前に建てられた秀林院を当国(肥後)へ移したと聞いておりますが、その年月や場所、ならびに断絶のことも分かりません)

切支丹一揆

寛永十四年(一六三七)十月二十五日に天草・島原の乱が勃発する。
農民一揆から始まったのだが、大規模なキリシタン一揆へと様相を変えた。
幕府は板倉重昌を上使として派遣する。道中、十一月二十六日に小倉に宿泊することになるが、奇妙な事件が起こる。宿所は峰高寺であるが、到着前に失火により焼失したという。(宿泊後の説あり) この峰高寺はかつてガラシャ夫人の菩提寺秀林院があった地である。また、重昌は翌年元旦に眉間に銃弾を受け、戦死した。撃手は鉄砲の名手三会村金作(駒木根友房)で、元小西行長の家臣であった。
不思議な因縁である。(『小倉のきりしたん遺跡』木島甚久著)

翌年二月、原城本丸の一番乗りを果たそうとする細川軍は激しい攻撃をかける。阿部弥一右衛門の息子権兵衛や五平太兄弟の姿もあった。(『綿考輯録』)
本丸に乗り込んだ忠利は一軒の家に火矢を撃ち込むように家臣に命じた。焼け落ちる寸前に乗り込んだ歩小姓陣佐左衛門は、一つの首を提げて出てきた。これが首魁天草四郎時貞の首だった。

籠城する一揆軍から男の命と引き換えに女と子供の助命を願った矢文が幕府軍に放たれたが、総大将松平信綱は「大勢之人数ほろぼし候上は、中々虫にても助そうろう事成間敷候」(大勢の者が犠牲になっているので、虫でも助けることはできない)とした。(『検証島原天草一揆』大橋幸泰著)

忠利は多くのキリシタンたちが自害する様子を目の当たりにしている。
「中々奇特なる下々の死、言語を絶し候」(「三月朔日忠興宛忠利披露状」『新熊本市史』)とあり、忠利はその死を称賛しているが、あまりの凄惨さに絶句している。
しかし、忠利は胸を突き上げられるような痛みを感じていた。それは罪悪感だった。
(母上、赦してくだされ)
信仰のために散っていったキリシタンへ鎮魂の祈りを捧げるキリシタン忠利の姿があった。大胆にもマンショ小西を侍姿に扮させ随行させていたのだ。四郎の首にミサを授けた。
乱のもたらしたものは幕府のキリシタン根絶だった。
寛永十六年(一六三九)、幕府はキリシタン根源であるポルトガル人の追放と来航禁止を諸大名に伝えた。
特にキリシタン王国だった九州の大名には大きな負担を強いられた。
寛永十七年(一六四〇)、忠利は将軍家光からキリシタン根絶の厳命を受けており、
有馬豊氏らに宗門改めについて情報交換をしていた。(『大日本近世史料 細川家史料二十五』東京大学史料編纂所)

別れ

寛永十八年(一六四一)の年明けから、忠利は身体に異変を感じた。指や足に痺れがあり、脳卒中といわれている。しかし、正月二十三日、弥一右衛門を訪ねている。(『森鷗外「阿部一族」』―その背景―)
花畠の忠利居住から、山崎の弥一右衛門の屋敷は目と鼻の先ほどである。
茶室でどのような話がなされたのであろうか。忠利の呂律がまわらない状態で語ったことは今までの弥一右衛門の労苦への労いの言葉だった。
弥一右衛門は顔を上げることができなかった。ただただ落涙で畳を濡らしていた。
「一人當千と成る事は、兼ねてより一命を捨て、主人と一味同心して居る故也」
(主人の為に命を捨てる時に一人当千と成るのは、かねてより一命を捨て、主人と一味同心しているからである。)(『葉隠』聞書第一之九)
この時、弥一右衛門は泉下となる忠利にお供することを心に誓った。
蝋燭に照らされたマリア像は慈愛にあふれた眼差しで二人を見ていた。
これが、二人の今生の別れとなった。そして母ガラシャへの最後の祈りだった。

三月十日付嫡子光尚宛ての自筆の書状には、「右のてくびより手なへ申すばかりに候、しに申すべき様にはこれなく候、心安かるべく候、以上」
(右の手首から腕にかけて手が萎えているだけだ。死ぬようなものではあるまい。安心せよ。以上)とあり、これが絶筆となった。(『江戸城の宮廷政治』)
十四日、忠利の容態が急変して危篤状態となった。
「越中煩ひ、この中我々にかくして候て、よきよきとばかり申すに付き」(忠興光尚宛書状)
「忠利の病気を私たちに隠しており、良い良いとばかり言っていたのに」と父忠興には病状の事は言ってなかった。危篤と聞いて八代から駆けつけた時には目も開けず、誰であるかもわからなかった状態だった。
そして、三日後の十七日、忠利は静かに息を引きとった。享年五十六歳であった。奇しくも十七日は母ガラシャの命日である。
忠利は母ガラシャの元へ旅立ったのだ。
意識不明の三日間、忠利はパライソの母や加賀山隼人、小笠原玄也家族ら多くの殉教者と再会を果たしていた。美しい聖歌とマリアの光に包まれていた。

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■つらい立場、山下さん

2020-03-20 11:54:26 | 些事奏論

 東京オリンピックの開催がかなりの確率で危うくなっている。
IOCやJOC、日本政府、東京オリンピック委員会、東京都など「規模縮小せず開催」と叫んでいるが、コロナ禍の中そんな声がむなしく聞こえる。
「アスリートファースト」からしても、練習もできない現状などからすると、延期論が飛び出してきても不思議ではない。
JOCの山下会長は、選手たちからの延期論について「一部のアスリート」からの発言だとしている。
自分自身がモスクワ大会に出席できなかった経験からしても、何とか東京オリンピックを開催したいという想いは計り知れないものがあろう。
それでも現実はかなり厳しい。山下さんの胸中察するに余りある。

 3・40年まえ、私は偶然ある小さな飲み屋で山下さんにお目にかかったことが有る。
後から入ってこられて一つ先の席に座られたが、あまりの大きさに驚いていたら山下さんだった。大変気さくな方で少し言葉を交わした。

 現在は発言も注目されるところだが、立場上積極的な発言はあり得ない。
「中止」「延期」をだれが一番最初に発するのか興味深いが、これはIOCにげたを預けるしかなかろう。
いずれにしても、そんな中各方向で検討が加えられていないはずがない。発表もそう遅くない時期に何らかの発表があるだろう。
それにしても、パンデミックが現実のものとなった今日、「開催」を言い続ける関係者の言葉がむなしいことではある。
昨日熊本でもまた一人、外国から帰国された方が感染者として発表された。
それぞれの方が重篤になられないよう祈るばかりである。

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■庄林隼人宛加藤清正書状

2020-03-20 10:21:33 | オークション

                              ◆巻物『 加藤清正 消息 』古文書 安土桃山時代 武将 肥後熊本藩初代藩主 中国唐物唐本 書簡

                                  
 
 現在ヤフオクに出品されている庄林隼人宛の加藤清正の書状である。花押の書き方からして清正本人のものとはとても思えないが、何とも内容が興味深い。
とても急々には判読しがたい文面だが、小野和泉と庄林隼人の働きに対する喜びの文書のようだ。
小野和泉庄林隼人共に勇猛の士として知られている。小野和泉は立花道雪・宗茂に仕え、宗茂の改易にあたって立花家の家士を引き連れて加藤家に仕官した。熊本城近くの京町台には彼らが住んだという「柳川丁」の名前が残る。

二人が清正の許、共通の場で働いたというのはいつのことであろうか。
非常に興味深い記録であり、一文字/\を解読しているが相当の時間を費やしそうな気がしている。
明後日は史談会の会合が有るので、会員の有志にお配りしてお手伝いいただこうかと思ったりしている。

これをご覧の諸氏に置かれても、お力をいただければ幸いである。

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■志方半兵衛言上之覚・13(原文17分)

2020-03-20 09:51:37 | 史料

17           落申其者申候ハ城之内に男女一万六七千御座候
            はたらき申男七千ほと御座候 兵粮ハ正月中迠
            之分不御座候 薪もかつ/\ニ御座候 具足を着馬ニ乗申
            もの六七人御座候へ共今程はうとの四郎ハ親甚兵衛
            一人具足をき馬ニ乗さし物を■■も仕置
            度々ニさしかへ城中下知申付候 屏を■弐重ニかけ
            内ニ堀をほり其中ニ居申ニ付外ゟのてつほう
            あたり不申由申候 惣屏之手人わりを仕持口の
            外わきへ之働不仕持口さ■ニ申付うきむしや
            よき者百人斗こしらへよわき所へすけ申筈ニ仕与
            おき申由申候 四郎ハ本丸之内ニ寺を立其寺ニ居
            すゝめを奈し申由申候
          一、肥後様御内存ハ頼母与伯耆与を御先手ニなされ
            二ノ目を 肥後様被成佐渡御ゆきかゝりニ城へ可被成
            御乗との御定之由取沙汰御座候 是ハ去十九日之
            よかゝり申者共申候ハ同勢つゝき候て乗可申
            儀ニて御座候と申上ニ付而之儀と申候 御家老中
            其外諸御勢も御大事之儀と申候事

                                          ■判読に鋭意努力中です

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■細川小倉藩(181)寛永三年・日帳(十二月廿五日)

2020-03-20 07:43:13 | 細川小倉藩

               (寛永三年十ニ月)廿五日

         |       
         |    廿五日  
         |                          (三淵之直)

三斎へ鏡餅進上  |一、三斎様へ御鏡被進之候御使者、伊藤儀太夫可被遣候、左膳殿を以 仰出候事、
猪喰犬      |一、規矩郡徳光村之しゝくい犬之儀も、左膳殿を以立 御耳候事、
臼ノ石制作    |一、臼野石、当地御領分ニ有之ハ、可被 仰付旨、中津御奉行衆迄可申遣旨、冣前被 仰出候、被
         |  思召候、左様ニ而ハ無之哉と被成 御諚候間、中津御奉行衆へ申入候処ニ、奉得其意可申上旨、
作事奉行へ命ズ  |                  (林)      (河田)
         |  返事御座候と申越由、申上候処ニ、弥五右衛門・八右衛門ニ、うすの石を切せ可申旨、被成 御
         |  諚候事、
         |      (元高)    (野田幸長)
中津一万石ノ米旱 |一、中津ゟ志水次兵衛、小左衛門へ、壱万石之御米当年ハ日損ニ付、 三斎様御賄も不足有之ニ
損ニツキ延貸セズ |  付、御延貸ニ被成候儀被為成間敷由、次兵衛申越候事、
銅山詰鉄炮足軽へ |一、銅山御鉄炮衆ニ可申旨、被 仰出候事、則 御前へ佐藤安右衛門・春木金太夫も被 召出候
ノ命ヲ金山奉行へ |  事
申渡ス      |                                            
忠利正月七日船乗 |一、明正月ニ被成 御召そめ之御舟ノ儀、土佐新太郎を以得 御諚候処ニ、七日ニ 御召そめ被成由
初ノ予定     |  ニ被 仰出、其旨白井兵助・鏡善右衛門ニ申渡候事、
蔵奉行吉用忠右衛 |一、吉用忠右衛門白状ニ付、御蔵之入物ニ有之銀子五百目、矢野少右衛門・奥村少兵衛取出シ候而、
門白状ス     |  上ヶ被申候事、
蔵奉行詮索ニ深野 |一、御蔵奉行手前穿鑿ニ、深野新助も加り候而、承可申上旨被 仰出候事、
新助ヲ加ウ    |
         |   側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
明石源左衛門困窮 |一、明石源左衛門身上之儀ニ付、手前不成との書物上ヶ候処ニ、弥いか様と存候処を書付、上ヶ可
ノ様子書上    |  申旨、被 仰出候、当年ハ源左衛門壱人ニ不限儀ニ候間、 殿様ゟ思召にてかわれ候儀無之との
         |   御意候、其旨申渡候事、
唐人三人明寰ヘノ |一、唐人三人明寰ニ貸付銀子有之との目安を上ヶ申候事、
貸付銀ノ目安   |一、渡辺三十郎中津ゟ被罷帰候、中津逗留中
         |〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |

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■秘史・阿部一族(2)

2020-03-19 12:53:56 | 論考

 小倉

 元和七年(一六二一)に小倉に入った忠利は、母ガラシャの菩提寺を建立し、キリシタン家臣や潜伏しているコンフラリアの代表者の協力を得て着々と母の御霊の救済を図っていった。
二年後の元和九年(一六二三)四月九日には、忠利は宇佐郡郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を万力などの購入や技術の習得をするために平戸に行くように命じた。その平戸の窓口担当者が忠左衛門の弟太郎右衛門だった。寛永三年(一六二六)に小倉藩に仕えて葡萄酒を造ることになる。(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子著)
私は忠蔵の受けた真の特命は平戸に潜伏していた中浦ジュリアン神父の保護だったと思う。足の不自由な神父を船で小倉へ搬送したのではないか。

『日本切支丹宗門史』一六二四年の条が二つの重要な記録を伝えている。
「ジュリアノ・デ・中浦神父は、当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由であり、度々、場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」
「長岡越中殿の子細川越中殿(忠利)は、その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシヤの思い出を忘れないでいることを示した。」

 また、同年同日の元和九年四月九日に忠利は葡萄酒の調達を家臣に依頼する。
神父とミサ用葡萄酒というわけだ。
「長崎買物に参候ものに平蔵相談申、葡萄酒を調候へと、あまきが能候、其段平蔵能存候事 四月九日」(『藩貿易史の研究』武野要子著)

(長崎に買物に行く者に平蔵に相談をして葡萄酒を仕入れるように。甘いのがよろしい。そのことは平蔵がよく知っている。)
「平蔵」は長崎の代官を務めている豪商末次平蔵である。祖父は平戸でフランシスコ・ザビエルの宿主だった木村家だった。父興善が博多商人末次家の養子になり、次男として生まれたのが、平蔵(政直)だった。父子ともにキリシタンであった。(平蔵は棄教) 当時は商品として葡萄酒は流通しておらず、忠利への特別の計らいだった。「あまき」は残糖分が高く、アルコール度数が高いことであり、長期保存に耐えうるということである。

しかし、禁教令下ではキリシタン穿鑿も厳しくなっていった。
「外国人は、長崎に入港する前に、幻獣な取調べを受けなければならないのであった。その乗組員や品物は、ミサ聖祭用の葡萄酒、ロザリオやメダイが有りはせぬかとの懸念から、臨検されなければならなかった。違背する時は、死刑と達せられていた。」(『日本切支丹宗門史』一六二五年の条)

長崎から仕入れていたミサ用の葡萄酒も入手が困難になっていき、上田太郎右衛門(忠左衛門の実弟)の努力によって寛永四年(一六二七)から国産葡萄酒を造ることになった。当初は仲津郡辺りで造っていたが、キリシタンのイメージがあるために警戒して城内で葡萄栽培を始めた。しかし、国産葡萄酒では、直ぐに酸敗するために、長崎からの「あまき」葡萄酒と混ぜることにより保存が可能になった。これをミサに使用することはローマからの承認を得ていた。(『中世思想原典集成』「日本の倫理上の諸問題について」川村信三訳)
寛永二年(一六二五)、郡奉行上田忠左衛門と山本村の惣庄屋山本少左衛門との間で紛争が起きた。
これは、少左衛門が管轄区域が隣接している山村の惣庄屋与右衛門との確執から始まったのではなかろうか。
つまり、少左衛門は山村のキリシタンに関する何らかの証拠を掴んでいて、発覚を恐れた忠左衛門は口封じのために押し込んだのだ。
翌年、忠利の命により、忠左衛門も籠から出されたが、少左衛門は火あぶりとなった。

 肥後国

寛永九年(一六三二)十月四日、忠利は将軍徳川家光から肥後国への国替えを命じられた。五十四万石の大大名である。

同年九月十一日、山村弥一右衛門は忠利から小倉城に呼ばれた。
「弥一右衛門、どうしてもおぬしの力がいるのじゃ」
肥後国で母ガラシャのミサを執行するためにも弥一右衛門が必要だっ.た。
幸い、忠興時代に立ち返った家中の者のようにキリシタンとは知れていない。ここに国替え前に、五十石の農民身分から、後に千百石の家臣に召し上げた大きな理由がある。当時は農民は連れて行くことができなかったので、武士身分にしたのである。また、阿部姓を名乗ることも命じた。
「おぬしに預かってほしいものがある。」
忠利は小さな桐箱を弥一右衛門に渡した。その中には七寸ほどのマリア像が横たわっていた。それは秀林院に置いていたものである。
「母からの形見じゃ」
慶長五年(一六〇〇)七月十七日、大阪玉造の細川邸にて生害した細川ガラシャが侍女の霜へ「内記様(忠利)への御かたみを遣わされ候」(『霜女覚書』正保五年)としたものだった。
「わしは今でも母の温もりを覚えておるのじゃ」
母ガラシャが大阪から長崎にいる霊的指導者グレゴリオ・デ・セスペデス神父(後の小倉教会上長)へ送った書簡の一部を紹介しよう。
「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニマ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し、
創造主デウスに委ねることを最良の道年、マリアは密かに洗礼を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆ど健康です。」
(天正十五年十一月七日・一五八七年の『イエズス会日本年報』)

この年の第二子興秋は五歳であり、第三子忠利は二歳であるが、「三歳なる第二子」は忠利と考えて間違いないだろう。確かに、その後の記録には「この若い領主は、既に長年、デ・セスペデス神父を城中におき、而も政治的の事故がなかったら、彼は、洗礼を受けたであらう。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)とある。しかし、忠利が受けたのは「密かに」授かった幼児洗礼である。間もなく江戸に証人(人質)に出され、中津に入ってからも「政治的の事故」、すなわち「禁教令」がなかったら、忠利は洗礼を受けたであろうとある。しかし、忠利は母ガラシャから、病気のことや洗礼のことも聞き及んでおり、あくまで「密かな」ことだった。それは禁教令下の忠利の行動が如実に表している。
宇佐郡山村に戻った弥一右衛門は父与右衛門に忠利と肥後に随行することを話す。庄屋跡取りや信仰に関する話し合いをした。

「弥一、何も心配なか。殿様に存分に尽くしんしゃい」
中浦ジュリアン神父とトマス良寛も肥後に移ることにした。忠利一行の後に続くことにした。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は小倉を立った。
「越中殿(忠利)は、当時、全家族と共に、筑後を経て、肥後に行かねばならなかった。ビエイラ神父は、この行列に出会った。」(『日本切支丹宗門史』一六三二年の条)
忠利一行は途中でセバスチャン・ビエイラ神父(一六三四年殉教)と遭遇している。
一行は秋月街道から陸路肥後を目指した。ビエイラ神父はこの後、大阪近海の船上で捕縛されたところから、小倉から船に乗ったのであろう。
万全の準備だった。しかし、転封直後(数日後)に想定外の事件が起きた。
小倉城下で中浦ジュリアン神父と同宿トマス良寛(天草出身)が捕縛されたのだ。おそらく忠利転封の機をみて報奨金目的の者が入封したばかりの小笠原家に訴えたのだろう。トマス良寛は小倉で火炙りの刑となり、中浦ジュリアンは翌年、長崎で穴吊りの刑で殉教する。

では、肥後ではガラシャのミサは神父不在のために行われなかったのか。
細川藩が肥後に移封して領外貿易の取引に利用した商人に長崎の天野屋藤左衛門がいる。天野屋は忠利依頼の葡萄酒の調達だけでなく、貿易以外の情報である幕府の長崎におけるキリシタンの穿鑿の状況を藩に報告している。(『藩貿易史の研究』武野要子著)
藩の動向と司祭らの情報を入手していたのだ。むしろ長崎は肥後の方が豊前よりも近い。
私は一人の日本人司祭に注目する。マンショ小西である。キリシタン大名小西行長の孫である。母小西マリアと対馬藩主宗義智の子であるが、関ヶ原の戦いで西軍の行長が処刑され、離縁された母と共に長崎へ移ったとされる。
有馬のセミナリオ(イエズス会司祭・修道士育成の初等教育学校)で学んだ後に、慶長十九年(一六一四)のキリシタン追放令により、マカオに渡る。
その時、十四歳のマンショを励ましたのが、一緒にいたペトロ岐部と天正遣欧少年使節の原マルティノだった。
やがて、ポルトガルのコインブラ大学で学び、寛永四年(一六二七)にローマで司祭叙階した。キリシタン迫害の頂点に達していた日本への帰国を強く希望し、寛永九年(一六三二)に十八年ぶりに帰国を果たした。三十二歳の年である。
忠利は天野屋から、そのことを知る。

「日本人のパードレが長崎におらっしゃるとのことです」
「さようか、天野屋。抜かりのないように頼むぞ」
マンショ小西は正保元年(一六四四)に高山右近の旧領音羽(現・茨木市)にて捕縛され、殉教した。帰国からの十二年間の行動は不明だが、祖父行長の旧領であった肥後熊本に旧家臣らもおり、暫くは潜伏していたと考えられる。
領内のキリシタンを訪ねて告解やミサを授けた。高瀬、山鹿、宇土、豊後街道筋まで足を運んでいたことだろう。忠利死後にマンショは豊後街道を経て肥後領鶴崎(現・大分市)から海路で近畿地方へ向かったのではなかろうか。

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■ヤフオクから、幕末激動期の書簡を読んでみる

2020-03-19 10:18:27 | オークション

             a719肉筆書状 酒井雅楽頭 幕閣老中 手紙 和本 古書古文書

                               

                                                                             一筆令啓候
                     公方様益御機嫌能
                     被成御座候間御心易候
                     然者今度松平大和守
                     御政事総裁職江
                     仰付旨
                     御直被 仰含■候条可
                     被存其趣候 恐々謹言

                      十月十二日

                        有馬遠江守 道純   老中
                        牧野備前守 忠恭   
                        井上河内守 正直   
                        板倉周防守 勝静   
                        水野和泉守 忠精   
                        酒井雅樂頭 忠績   大老 

                      稲葉長門守殿

 松平春嶽が政事職総裁を辞任後、空席になっていたものを、松平大和守をもって後任とすることを、京都所司代・稲葉長門守にたいして報告する書簡である。
松平大和守(直克)は、文久3年(1863年)10月11日に就任したとされるから、この書簡はその翌日に発せられたものである。

仰々しい大老・老中の連署が時代のあわただしさを伺わせる。貴重な書簡である。

 

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■ヤフオクを読んでみる

2020-03-19 07:05:12 | オークション

                                                武蔵忍藩主 阿部豊後守正允 書状 《古文書・武家文書・花押・史料・資料》

                                       

                       御状令披見候
                       公方様 大納言様益
                       御機嫌能被成御座
                       恐悦旨尤候将又今度
                       公方様 大納言様拝領物
                       有之重畳難有由得其意候
                       在所至着候而為御礼以
                       使者干鯛一折進上之候
                       以進披露候処一段之仕合候
                       恐々謹言
                            阿部豊後守
                       七月二日    正充(花押)
                         稲葉能登守殿

 この書状、幸いにも阿部豊後守の名前が「正充」(享保元年(1716)生~安永9年(1780)11月24日歿)であることが判る。
阿部豊後守の在世時代に豊後臼杵藩・稲葉家では三代ほどにわたり、当主が若くして次々に亡くなっている。豊後守の西丸老中~老中の時期からすると、この稲葉能登守というのは、第10代藩主・弘通(宝暦2年(1752)7月19日生~文政元年(1818)10月28日歿)であろう。

この時期の公方(将軍)は徳川家治、大納言とは世嗣の徳川家基か、家基は文政元年(1818)10月28日に18歳で亡くなっている。そうだとすると豊後守は西丸老中時代のものと考えられる。
そんな時代背景の中、御暇を頂戴した能登守が帰国後、「干鯛一折」を贈ったことに対し、豊後守が将軍に披露したことを伝える書状である。豊後守が西丸老中に就任した1769年(明和6年)8月18日から、死去する安永9年(1780)11月24日までの10年余の間の書状ということになる。

 

 

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■細川小倉藩(180)寛永三年・日帳(十二月廿四日)

2020-03-19 06:28:01 | 細川家譜

               (寛永三年十ニ月)廿四日

         |         (米田是友)       
         |    廿四日  甚左衛門
         |

         |        皆済              忠利夫人   皆済目録
宇佐郡蔵納忠利蔵 |一、宇佐郡御蔵納〇目録、一昨日差上候、又御上様御蔵納〇今日差上候事、
納皆済目録    |
江戸供ノ願書   |一、岩崎権平、来年江戸御供仕度とのさし出、うけ取候事、
         |一、真鍋少左衛門、はりまゟ今日被罷下候、はりまニ而、御入道様ゟ御小袖弐つ被下由事、
国東蔵納皆済目録 |一、瀬崎左助国東ゟ被罷帰候、御蔵納分ハ、一両日已前ニ、皆済目録差上被申由、御郡奉行被申候
         |  通、幷御借米方ハ、急度万事、左介聞届られ候儀ハ不罷成ニ付、被帰之由、とかく一両日中ニ相
         |  改、跡ゟ御郡奉行衆持参可有由之事、
         |                    あわ様ゟ(蜂須賀忠英
蜂須賀家ヘノ使者 |一、北村次右衛門阿波へ御使ニ被罷候処ニ、ほうあん殿ゟ御道服壱つ、御小袖壱つ、御樽壱つ、御肴
         |                    〃〃〃〃〃〃
         |                    蜂須賀家政)蓬庵
帰着       |  干鯛一折、白米五斗、薪十束被下候由、ほうあん様ゟ銀子弐枚、御樽三つ被下候由、又両日さき
         |   (ママ)
給与ノ品     |  殿とう仕間ニも、御くわし被下候由、被申候事、
築城上毛郡蔵納借 |一、築城・上毛御蔵納・御借米方共ニ、皆済之目録遅上り申ニ付、歩ノ衆松村四郎兵衛さし遣候処
米方皆済目録   |    (塩木)(沢)
         |  ニ、又丞・少兵衛両人ゟ返事ニ、一両日中ニ目録上ヶ可申由也、
         |                                           (不破)
金銚子提打つぶし |一、金ノちやうし・ひさけを打つぶし、なべニ可仕旨、それニ付、右ノ御奉行佐分利彦右衛門ニ、ふ
         |                                        
鍋ニセシム    |  わ太郎吉御横目ニ而、はしめ仕候かさりやも横目ニ成、後ノかさりやニなへをさせ可申由、右御
         |                        (国遠)
職人奉行     |  奉行両人ニ申渡候事、但、なべノ大小なりハ、道倫ニたつねられ候へと、申渡候事、
         |          〃
         |
銀子請取状案   |      請取申銀子之事、 
         |          (大黒)
拾貫目常是包   |    合拾貫目は■■常是包也、                         大黒常是
中津ヘノ用    |   右ハ、中津へ被遣御用ニ、当分かり申候、頓而、上方ゟ下次第、返弁可申所如件、
         |        寛永三年十二月廿四日                 浅山清右衛門
         |          熊谷九郎兵衛殿                  田中與左衛門
         |          続 権 六 殿                   (氏次)
         |  右ノことく、うけ取切手かき候て、右両人ニ遣申候也、
         |
銀子請取渡ノ覚書 |  一、請取申銀子之事、
         |     合拾貫目は常是包也
         |    右ハ、中津へ被遣ニ付、私御使ニ被仰候て付候間、右之銀子請取、罷越申候、中津ニて相渡、
         |                     〃〃
         |    うけ取切手を取、可罷帰候、以上
消去       |     寛三                                         (黒印)
         |      十二月廿四日          猿木何右衛門(花押)〇
         |                      〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  右銀ハ、かろき由ニて被持帰候、左候て、九郎兵衛・権六被請取ニ付、如此けし被申候事、
蔵納借米方皆済目 |一、御蔵納・御借米方皆済目録、遅上り申ニ付、渡辺加太夫差出候処ニ、目録取被来候、御かし方ハ
録        |  (松本)(豊岡)         (加藤)  (栗野)
         |  彦進・甚丞、御蔵納方ハ新兵衛・伝介方へ被相渡候へと申渡、遣候事、
         | 

 

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