津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■誰もやったことのない、やばい私のアルバイト

2023-02-05 06:58:39 | 徒然

 昨日、昭和時代のいろいろなシーンを取り上げていたTVを見るではなく見ていたら、子供たちがコーラー瓶をお店に持ち込んで一本10円もらうというシーンがあった。
当時は街中で飲んだ人が瓶をその場に捨てて、これを見付て換金するということはあったように思うが、これは私の世代よりまだ若い子たちだろう。
昭和という時代は、こうしてTVで懐かしむ時代となってしまった。

 私は、誰も経験したことがないと思うアルバイトを小学生の時に経験した。本当にヤバいアルバイトだったが実入りも大きかった。
私が当時住んでいた所は熊本市の「出水」という町だったが、当時は近所の人たちで江津湖で「鯰」「鮒」「鯉」を捕まえて、これを生で食べ(刺身など)、首などに大きな瘤が出来たという人を見かけた。
そんな小父さんが、「ひる(蛭)」を一匹10円で買うから捕まえてくれというリクエストがあった。
そこで4人ほどで、近所の田圃や裏手の小川などに入って、足にひるを食らいつかせて捕まえるという荒業をやった。
4人共足は血だらけである。何匹捕まえたかははっきり覚えていないが、4人で水前寺動物園に出かけたことを思うと、相当なお金をもらったのだろう。
バケツに入れて小父さんの家に持って行ったところ、大いに喜ばれた。
連れが「どうするの」と聞くと、瘤の血を吸わせるのだとの事だった。
今にして思うと、これは「頸部腫瘤」だと思われ、生魚を食べたことによるものではないと思うのだが・・・

TVを見ながらそんな話を奥方に話すと、大いにびっくりしていたが、二度とリクエストはなかった。
人に言うと作り話だろうと言われそうな、私の子供時代の想い出である。

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■本能寺からお玉ヶ池へ ~その④~

2023-02-04 08:14:49 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい2020:1:27日発行 第59号
     本能寺からお玉が池へ ~その④~      医師・西岡  曉

                      さいわい
  前風にとどめん 氷の藻に うち出る浪や 春の福 (伝・明智光秀作)

                                       さいわい
「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。皆々様の許にも大いなる「福」が訪れますようお祈り申し上げます。
いよいよ東京オリンピック・パラリンピック、そして(明智所縁の者にとっては何と言っても)大河ドラマ「麒麟がくる」の年が明けました。「本能寺の変」から438年、「お玉ヶ池種痘所」開所から335年の年です。そこで本誌上では、(昨年同様)この「本能寺からお玉ヶ池へ」という不思議なお話にお付き合い頂ければ福です。

(三宅艮斎が歿した二年後に世を去って)艮斎と同じく東京・駒込追分(現・文京区向丘2丁目)の願行寺に葬られた俳人・細木香似1822~1870)が最後に詠んだ句には、奇しくも「芭蕉」が詠われます。(ここでの「芭蕉」は、俳聖・芭蕉さんのことではなく、バナナの親戚(?)の植物ですが…)

       あ           やれ
   己れにも厭きての上か 破芭蕉

 前回ご紹介した艮斎の曽孫・三浦義彰の「三宅艮斎略伝」には、著者が願行寺を訪れる場面が描かれ、森鷗外の評伝「細木香以」を引用しています。
その文には、もう少し続きがありました。余談になりますが、艮斎が江戸での生活を共に始めた林洞海の孫娘・赤松登志子は森鷗外の最初の妻です。(が、何故か一年半で離縁されました。)

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 今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上をうているだけが、昔の姿を存しているのである。
わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺の飛白(かすり)の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。
本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽ち穉子(おさなご)の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容(かおかたち)の美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。
「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい讀(よみ)であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
「そうです。御存じでしょうか。」「ええ、存じています。あの衝当(つきあたり)にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻(しきり)に笑って跳り上がった。

 私がこの長い一文を引用した所以は、願行寺がその頃と現在とあまり大した変貌を示していないから願行寺の記述を鷗外の麗文に借りる為と、子を抱いて鷗外に応接した美しい住持が妻とのことを書きたかった為であった。
願行寺の周囲でその頃と今と異なるは一高の寮が農学部に名前のみ変わったことと3、4軒の店なるものが住宅や下宿屋の如き家に変わったこと位であろうと思う。
 私は勝手知った願行寺のに赴いて案内を乞うた。出て来たのは、年の頃50程の頬の豊かな品のよい婦人であった。私は艮斎と遊亀の戒名を尋ねた。
歿年がかであったから戒名は直ちに知れた。艮斎のは慶
応4年7月3日の項に観龍院殿総譽子厚英信居士とある。
遊亀のは明治32年10月1日の項に紫雲院殿厚学
遊月貞信大姉とあった。私はかの婦人に谷中への改葬はいつ頃であったろうかと尋ねて見た。

 「私が願行寺に来た時はもう御墓は御座いませんでした。」と云う答であった。
願行寺の今の住職は若い人の筈であるから私はこの言葉でこの婦人が先の住職の未亡人であることを朧気に悟った。次いで話は寺の由来に移った。
寺は良辯僧正の開基だそうである。願行上人の頃は鎌倉
にあり、慶長以前は華厳真宗であったと云う。それが慶長15年に家康公が浄土に改宗せしめたと云う。

今門前にある不動尊はその頃の御本尊の名残とも云い江戸時代の大山阿夫利神社尊崇の盛であった頃再興されたものと伝えられている。さて寺は鎌倉から江戸の貝塚付近に移り、更に天和2年には今の駒込に移ったものであるとか。
 「由緒のある寺で御座いましたが…………」と云う言葉に私は過ぐる年祖父の法要でこの寺の本堂に座っている時、仏様の下を鼠が走り回っていた光景を思い浮かべた。
そして現在の住職はまだ若いのだと云うことのみで未だその人を見たことがなかったので、「住職は? 」と尋ねた。
「只今の住職は先年大正大学を出まして只今○○に出征しております。」
「はあ、それは御苦労様のことで……」
 私の手はもうこの会話の頃には襲って来る藪蚊で真赤にふくれていた。私は願行寺の門を出で、西教寺の角を曲がった時に忽ち、はたと思い当った。先の何事か聞落としたと云う事柄は正にこれであった。鷗外が香以の墓を探している時、子を抱いて立っていたのは正にこの婦人であろう。そうして抱かれていた子は今出征中の若い住職に違いないであろうと。
 鷗外は香以伝に、この婦人のことを新教の牧師の如くと評し、更に「壽阿彌の手紙」の中の氏掃苔の記事の項に再びこの婦人を叙して、美しいらしい言語の明晰な女子と云っている。
その頃から既に二十
年の余は経過している。寺のあたりはあまり変らないにしても人々は何と変貌したことか。私は不思議な感慨に身をゆだねて、本郷の通りを歩いた。

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 「三宅艮斎略伝」は、ここで終わっています。文中にあるように、(三百年近い泰平の世が終わる年=)1868年に歿した三宅艮斎は願行寺に葬られましたが、(40年余り後に谷中霊園の)天王寺墓地に改葬されました。
ジョン万次郎(1827~1898)が撮影した三宅艮斎の写真が今に残っていて、(東京駅近くのKITTE内の)インターメディアテクに展示されています。
次に登場する坪井信道とは異なり、三宅艮斎の顕彰碑を
建てた方は(残念ながら、今のところは)おられません。

[5] 信道

「本能寺の変」から18年後の「関ヶ原の戦い」で西軍にして敗れた織田信長の孫・秀信(1580~1605)ですが、その息子の一人が美濃国脛永村(現・岐阜県揖斐川町)に逃れ、長じて坪井正信という農民になりました。
正信の長男は坪井光信、光信の五男に信之という人がいます。信之は若くして亡くなりましたが、その四男が坪井信道(1795~1848)です。
信道は、僅か9歳で両親を亡くして一家離散の憂き目に遭いながらも、諸国での苦学の末蘭方医になった人です。信道を医の道に導いたのは、兄・浄界でした。
浄界は、末弟の信道に「織田信長後裔であ
る坪井家の再興とその為に医家として身を立てること」を勧めたのです。
信道の医学は、九州各地で学
んだ漢方に始まりましたが、20歳になると「広島蘭学の祖」中井厚沢に入門し、蘭方医の道を歩み出します。
その4年後、信道は江戸に上り(厚沢と同じく大槻玄沢の弟子で) 今でも使われている「膵」や「
腺」という「漢字」を発明した宇田川玄真(1770~1835)の蘭学塾・風雲堂に入門しました。
1827年(文政10年)、信道は深川三好町(現・江東区三好3丁目)に「安懐堂」という蘭学塾を開きます。あの緒方洪庵(1810~1863)も入門した安懐堂は、(日本風にアレンジしない)本場オランダ式の臨床講義が好評で、入門者がどんどん増えたため、深川冬木町(現・江東区冬木)にも二つ目の塾を開き、「日習」と名付けました。
その後信道は、伊東玄朴(1801~1871)、戸塚静海(1799~1876)と並んで「江戸三大蘭方医」と呼ばれるほどの名医になりますが、1848年(嘉永元年)、肺癌(胃癌の肺転移かも?)のため人生の幕を下ろしました。享年54。坪井信道の墓所は染井霊園(@豊島区駒込5丁目)にあり、顕彰碑と略伝看板が出身地・揖斐川町(の公民館の敷地)に建っています。

安懐堂&日習堂は、信道の死後も発展しましたが、運悪く1855年(安政2年)の大地震と翌年の水害で壊滅的打撃を被り、そのまま廃校の止む無きに至りました。

安政大地震」と言えば、去年のお正月に「深大寺道をゆく」旅で「深大寺用水」との関わりをお話しましたね。
信道歿して10年、(二代目信道=)坪井信友と(信道の娘婿=)信良は、ともに発起人の一人として「お玉ヶ池種痘所」を開設します。([4]でも述べたように、その話は次回に譲ります。)そして5年後、種痘所は幕府の「医学所」となり、 後に医学所の三代目頭取になった松本良順(=三宅艮斎の盟友の順天堂開祖・佐藤泰然の次男)は、信道のことを「生き菩薩」と讃えたものです。
手塚治虫の名作漫画「陽だまりの樹」に、緒方洪庵が「恩師坪井先生のご子息を入塾させたのだが」「なまけぐせが強く、意見しても無駄なので、破門したことがある」と語る場面(全集版第5巻34ページ)がありますが、その「坪井先生のご子息」とは、信友のことです。
父・信道の目にも「なまけぐせ」
が映ったのか、坪井家の跡継ぎにはなれなかった信友(二代目「信道」の名は継がせて貰えました。)ですが、(種痘所設立の3年ほど前から)吉田松陰、桂小五郎ら長州の志士たちと親交を結んだ憂国の人だったようです。その坪井信友は、お玉ヶ池種痘所設立の7年後の「禁門の変」で長州が敗れたため二年間入牢し(たことで体調を崩し)、桂らが拓いた明治の世を見ることなく、1867年(慶応3年)肺結核でこの世を去りました。享年36。

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■俳句が好きなあなたへ、漱石が好きなあなたへ

2023-02-04 07:06:42 | 書籍・読書

       以下、 出版社・弦書房HPより引用

俳句は国境を越えて One-Poem One-World

    著者: 西川 盛雄
240頁
978-4-86329-260-4
定価 2100円 (+税)
2022年11月30日発行   
紹介

俳句は、いまや〈世界文学〉と言ってよい。著者は国際俳句交流協会会員で、俳句と〈英語ハイク〉の双方を詠み、比較研究してきた英語学の専門家でもある。俳句が、世界の国々との文化交流・対話の〈橋渡し〉となり、共感と共生のヒューマニズムを呼び起こすことを願ってまとめられた本書の意義は大きい。夏目漱石が熊本時代に詠んだ俳句を厳選して句題ごとに分類、さらに英語詩(3行詩)へ訳した試みは画期的である。また、世界各地の愛好家が詠んだ〈英語ハイク〉を独自の観点で紹介した章は、俳句の世界を一気に広げてくれる。

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■本能寺からお玉が池へ ~その③~

2023-02-03 06:51:35 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:10:23日発行 第58号
     本能寺からお玉が池へ ~その③~      医師・西岡  曉

  さらさらと 白雲渡る 芭蕉かな (正岡子規)

 月日は巡り、秋風に白雲が流れる季節になりました。子規のこの句の季語は「芭蕉」です。
そこで本家(?)芭蕉さんの秋の句を一つ・・・・・・・・

  秋深き 隣は何をする人ぞ

 芭蕉さんの「奥の細道」は、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」と始まりますが、芭蕉さんご自身こそが「百代の過客(=永遠の旅人)」でした。
ご存知の方も多いと思いますが、芭蕉さんの人生最後の句は、

  旅に出て 夢は枯野をかけめぐる

です。
 この句は、芭蕉さんの最期の日の4日前に(なので病床で)詠まれたものですが、「秋深き・・・・」の方は、芭蕉さんが坐位で詠んだ最後の句だそうです。
話は変わりますが、我が家の家伝によれば、(「本能寺の変」に続く)明智家の滅亡に際して、(敗戦の地・山崎=)山城国西岡(「にしのおか」とよむそうです。ガラシャの婚家・長岡家の「長岡」は、「西岡」の古い呼び方です。)から伊賀国湯舟郷(現・三重県伊賀市東湯船)に落ち延びた我が家の先祖は、(残党狩りの目を誤魔化すため)敗戦の地に因んで「明智」から「西岡」に苗字を変えました。湯舟で一年半、伊賀国某所で十数年ほどの隠棲の後、城下町・上野に出て(我が家の先祖の姉と甥らしい)明智辰母子と同様(とは言っても、時期は随分後ですが、)藤堂家の保護を求め、以後三百余年の長きに亘って藤堂藩(伊賀では「津藩」とは言いません。津は伊賀ではなく、伊勢の町ですから・・・・)の皆様からは、幾ら感謝してもし切れぬほどの筆舌に尽くし難いご厚誼を(町人の身分になっていた我が家にも)賜って来ました。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、(伊賀)上野は芭蕉さんの生まれ故郷として有名な町です。伊賀の人々は皆、今でも松尾芭蕉(1644~1694)のことを親しみを込めて「芭蕉さん」と呼んでいます。
実は私も(伊賀)上野の生まれなので、「芭蕉さん」と呼ばせてもらっています。
さていよいよこの秋からは、「本能寺からお玉が池へ」(=1582年の「本能寺の変」から1858年の「お玉が池種痘所」へ)の300年近い流れ(の一端?)をお話をします。

 [4] 艮斎(ごんさい)
 「本能寺の変}から55年後の「島原の乱」で討死した明智光秀の孫・三宅藤兵衛(1581~1637)ですが、藤兵衛は4人の息子と一人の娘を遺しました。
その内長男は藤右衛門重元といい、父・藤兵衛の従兄(叔母・ガラシャの三男です。)・細川忠利(1586~1641)が藩主になっていた熊本藩に仕官します。
三宅重元の長男は百助重次、次男は伊兵衛重之といいます。藤兵衛が討死した島原の乱で住民全員が殺されていなくなった島原に、幕府は他藩からの移住を募りましたが、それを受けて重之の娘婿・休庵は、島原の乱発端の地・有馬村(現・長崎県南島原市南有馬町)に移住し、医業に就きました。
休庵は筑後国三池郡大牟田村の出身なので島原には何の縁もありませんが、妻の曽祖父・藤兵衛の仇(?)の土地・島原を敢えて選んだのには一体どのような思いがあったのでしょうか?
医者になった休庵でしたが、更には休庵の長男(=藤兵衛の玄孫)・元哉、元哉の長男・玄碩、玄碩の長男・英庵・・・・と続いて、三宅家は島原で代々医業を生業とすることになります。
 休庵の曽孫・英庵には4人の息子があり、長男・有碩を始め全員が医者になりました。1717年(文化14年)生まれの四男・艮斎もその一人です。
艮斎は8歳になると嶋原を出て、熊本の伯父(父・英庵の弟)の家で学問を始め、15歳で長崎に出ると、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)の高弟だった楢林栄建(1801~1875)の欄学塾に入門しました。栄建は、同じくシーボルトの門人で(医師としては)日本で初めて牛痘をした楢林宗建の兄です。
楢林塾は、かつてシーボルトがしばしば訪れ、診療もした処です。ところが、艮斎が長崎に来る前々年に幕府を揺るがした「シーボルト事件」が起こり、その翌年の暮れにシーボルトは国外追放の身となったので、艮斎自身は長崎ではシーボルトに逢ってはいませんが、(開国後の)後年積みが許され再び日本を訪れたシーボルトと江戸で出逢うことになります。
 楢林塾で艮斎は和田泰然(=後の順天堂開祖・佐藤泰然:1804~1872)に出逢いました。これが艮斎の運命を大きく変えることになります。
長崎を出た年に父を亡くした艮斎は、郷里島原には帰らず、泰然に付いて江戸に上ることになり、1838年(天保9年)22歳になっていた艮斎は、江戸での生活を「医者町」ともいわれた両国薬研堀(現・中央区東日本橋2丁目)の泰然の家の隣家=(楢林塾の同門で)共に江戸に上って泰然と欄学塾・和田塾を始めた林洞海1913  1813~1895)の家で始めます。
このシリーズは深大寺にも吉祥寺にも関わりがないと思いきや、ここで「吉祥寺」が登場することになりました。
林洞海の墓があるのが吉祥寺(@文京区本駒込3丁目)だからです。

 薬研堀という処は、(当時既に「幻の池」だった)「お玉ヶ池」の東の畔にあたります。薬研堀の泰然宅の跡には、今では「順天堂発祥の地」碑が建っています。
記念碑と言えば、お玉ヶ池跡には「お玉ヶ池種痘所跡」碑ともう一つ「お玉ヶ池種痘所記念」碑が「東京大学医学部」名で建っています。(その由来については、来年改めてお話します)
 1841年、24歳の艮斎は泰然の患家の娘・石山遊亀(ゆき)を嫁に貰い、泰然の勧めで(「天保の改革」で)不景気だった江戸を離れ、下総国銚子に移って開業します。
泰然はこの時の引っ越しを、入門したばかりの山口尚中(後の順天堂第二代堂主・佐藤尚中:1827~1885)に手伝わせています。(自身の将来像を描くことも難しかったであろう)少年尚中には、30余年のにまさか時分の娘を艮斎の息子に嫁がせることになるとは、想像もできなかったに違いありません。
銚子の地で艮斎は、濱口梧陵(ヤマサ醤油7代目:1820~1885)と(泰然を初とすれば、二人目の)運命的な出逢いをすることになります。
濱口梧陵は(「稲むらの火」で有名ですが)、艮斎ばかりではなくお玉ヶ池種痘所にとっても運命の人です。
 一方、1839年の「蛮社の獄」で高野長英(1804~1850:シーボルトの鳴滝塾で塾頭だった蘭方医。再来年、改めて登場します。)を匿ったため江戸に居られなくなった泰然は、1843年(天保14年)、下総国佐倉で「佐藤泰然」と改名して「順天堂」(勿論、現在の「順天堂大学」です。順天堂は、今の「私立医学部御三家」と言われる慶應、慈恵、日医、よりずっと老舗だったのでした、)を開きます。
その翌年艮斎は、泰然の推薦で佐倉藩医になり(江戸詰めとなるため)江戸に戻ることになります。「蘭方禁止令」の出ていた当時の佐倉藩主(にして幕府老中)・堀田正睦(1810~1864)は「蘭癖大名」と呼ばれる人だったので、(泰然や艮斎ら)蘭方医を雇ったのです。艮斎が江戸に構えた新居は、医者町・薬研堀ではなく(両国橋を渡った隅田川対岸の)本所緑町でした。
 1848年(嘉永元年)、艮斎に長男・復一(=後の三宅秀)が誕生します。そして10年が過ぎた1858年(安政5年)、艮斎は発起人の一人として「お玉ヶ池種痘所」を解説します。(そのお話は、本シリーズのメインテーマですので、明年稿を改めることにします。)
 1868年(慶應4年)7月、(戊辰戦争の中の)上野戦争の最中に、艮斎は(先祖の明智光秀には及ばないかもしれませんが、動乱の時代を生きた)波乱の人生に終止符を打ちます。享年52。死因は食道癌でした。
艮斎の没後70余年の後、艮斎の曽孫(で当時東大医学部の学生だった)・三浦義彰(1915~2010)が(串田孫一らの)同人誌「冬夏(とうげ)」に発表した「三宅艮斎伝」は、次の文で締めくくられています。
話の舞台になっている願行寺(@文京区向丘2丁目)は、光秀が葬られることを望んだといわれる知恩院の末寺にあたります。

 凡そ人の伝記を撰せんと志す者は先ず掃苔より初めるのを常とする、而るに私はこの度の伝記を思い立ってから今迄艮斎の墓に詣でていない。丁度今日は艮斎の孫にあたる私の母の忌日なので、私は俄に思い立って梅雨晴れの一日を谷中の墓地に参った。五重塔の下には私の母の奥津城がある。その前の横丁を西に折れると、佐藤泰然の養子である佐藤尚中の墓がある。艮斎の墓はその斜左奥にある。願行寺から谷中に改葬された当時の墓には確か艮斎及び亀遊(遊亀は艮斎の死後落飾して亀遊と名乗った)の俗名が並べて、黒い石に彫ってあったように記憶するが、今あるのは、祖父の没後建て換えられた三宅氏之墓と云う墓石のみである。私は艮斎の法名を観龍院とのみ存じていてその外の戒名を知らなかった。それで気の向く儘に、ぽつぽつと湯気の多い暑さの中を歩いて、更に本郷台に登って、願行寺に詣った。

 森鴎外の「細木香似」には次のような一文がある。

 本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲がる角が西教寺という寺である。西教寺の門前を過ぎて右の桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が路次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、通行人の目に触れていた。

                                                          三宅艮斎写真をクリックすると大きくなります。)
 

 

 

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■H家の西南の役記録

2023-02-03 06:09:51 | 史料

 我が家の家祖は「磯部」氏である。毛利家家臣だったが周防・下松に居宅を構え浪人の身分であった。
下松は船着きの良いところだったらしく、「三斎公江戸御上下之折」には度々お宿を提供したりしていたらしい。
そして、二人の兄弟が豊前へ召されて家臣となった。
肝心の「磯部」家は男子がなく絶家、弟の方は幾人かの男子があったものの、何故か長男はH家、次男の我が家も母方の姓を継いだ。
ある時偶然にH家の諸記録が図書館に収められているのを発見、上記の事が判明した。
過日図書館に出かけた折、改めてその内容を確認していたら、西南の役から一両年の日記風の記録が残されていた。
これはコピーできないから、カメラ撮影をしなければならない。
西南の役に関する何かしらの記録がないかと探していたところで、今日あたりは出かけて撮影してこようかと考えて居る。
果たしてどのようなことが書かれているのか、興味が尽きない。

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■本能寺からお玉が池へ ~その②~

2023-02-02 09:40:18 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:7:16日発行 第57号
     本能寺からお玉が池へ ~その②~      医師・西岡  曉

 「夏がくれば思い出す・・・・・・・・」と歌われる尾瀬の水芭蕉は、実際には春に咲くようです。
それが「夏の思い出」になったのは、「水芭蕉」が夏の季語だからです。夏の季語と言えば、芭蕉さんの最高傑作と言われる俳句は夏の句で(季語は鵜舟)です。

     おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな (松尾芭蕉)

 さて「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れを辿るとしましょう。お断りしておきますが、このシリーズでは(テーマから離れるので)、「本能寺の変」そのものは採り上げません。悪しからず・・・・
この夏お届けするのは、織田信長と明智光秀の孫(一人ずつ)のお話です。「おもしろうてやがて悲しき」人生を駆け抜けたお二人です。

    [2] 藤兵衛
(ガラシャの夫)細川忠興を藩祖とする熊本藩の家老・米田家の記録によれば、光秀の長女・岸(と夫・明知秀満と)の子・藤兵衛(1581~1637)は、明智家滅亡に際して坂本城から乳母が連れ出して落ち延び、藤兵衛が7歳の時叔母ガラシャの下に届けられ、その後はガラシャが育てることになったようです。
 前回、ガラシャがキリシタンの息子と娘を遺したことを述べましたが、ガラシャが遺したキリシタンは、実はもう一人いて、それがこの藤兵衛でした。
ガラシャが遺したキリシタンの中で洗礼名が伝わっているのは、次女・多羅の「タリ―二ョ」だけで、藤兵衛の洗礼名も伝わっていません。
 藤兵衛が19歳になると、義理の叔父・忠興が元服させて熊本藩士三宅重利とします。しかしそれもつかの間、藤兵衛には母代りだったガラシャに「散りぬべき時」が来てしまいます。育ての母とも言うべきガラシャは、遺書に「三宅藤兵衛事を頼候也」と書き遺しましたが、ガラシャ亡き後藤兵衛は細川家を去り、父・秀満の家老だった安田国継(1556~1597)が仕えていた縁で、肥前唐津藩祖・寺沢広高(1563~1633)に仕官しました。寺沢広高は、洗礼名アゴスティニョというキリシタンでしたが、ガラシャとは逆に、日本26聖人の殉教を受けて棄教します。ですから藤兵衛を召し抱えるにあたって広高は、藤兵衛にも棄教を迫ったことでしょう。
 一方忠興は、自身がキリシタンになる事は勿論ありませんでしたが、亡き妻への想いからか、関ケ原の戦いの後小倉藩を興す(後に熊本に移封されるまで、細川藩は小倉藩でした。)にあたって大改築した小倉城の天守にキリスト教会(と同じ型)の鐘を釣って鳴らしました。

                   (クリックすると拡大します)

 ところで、藤兵衛を寺沢家に(本人の没後ながら事実上)誘った安田国継は、本能寺の変で大活躍した人です。
本能寺攻撃の先鋒を務め、誰よりも早く信長を槍で突き、森成利(乱丸の名で知られる信長の近習)を討ち取った武功を誇ります。明智家滅亡後国継は、「天野源右衛門」と名を変えて乱丸の兄・森長可(ながよし、長可の長は信長から戴いた字)に出仕し、その後信長の四男・羽柴秀勝を始め4人の主君を渡り歩いた後、寺沢広高に仕えましたが、その3年後(?)に自害しました。その日が、本能寺の変から15年後の同じ日だったため、国継の死は「信長の祟り」だと噂されたそうです。

 1621年(元和7年)三宅藤兵衛は、二代藩主寺沢堅高(広高の次男)によって唐津藩の飛地だった天草の富岡城(@熊本県苓北町)の番代(=城代家老)に任じられています。
そして1637年(嘉永14年)10月、天草対岸の島原・有馬村で「島原の乱」が勃発します。その数日後、天草でも一揆勢が起ち、藤兵衛率いる唐津軍に挑みます。「主に結ばれて死ぬ(「ヨハネ黙示録」より)ことを望むキリシタン一揆勢の猛攻を受けて唐津勢は殲滅され、討死した藤兵衛は、一揆勢によって晒し首にされました。享年55
 キリシタンは、藤兵衛が母のように慕ったガラシャが熱心に信心し、生命を捧げた教えです。そのキリシタンの一揆と闘い、「背教者」として命を落とすことになった藤兵衛の心中を想う時、(ガラシャ一周忌ミサでの忠興主従同様?)「涙を抑えることができず泣きぬれ」るほかありません。

 [3] ペトロ
 1578年(天正6年)、明智光秀の長女・岸の舅・荒木村重が信長に反旗を翻した時、村重の娘婿(=岸の義弟)塩川長満(1538~1586)は、村重を裏切って織田軍の先鋒として(村重の)有岡城(@兵庫県伊丹市)を攻めます。
その折、信長の嫡男・織田信忠が長満の山下城(@兵庫県川西市)に立ち寄ったことから、長満の娘・寿々(生年不詳~1633)が信忠に嫁ぐことになり、1580年、岐阜城で信忠の子を産んだとされています。これが信忠の嫡男(=信長の孫)三法師です(異説もあります)。奇しくも三宅藤兵衛の両親が結婚した年に生まれたのです。
 その年、荒木勢は織田勢に敗れ、敗残兵が高野山に逃げ込みます。残党狩りの織田勢30余名全員が返り討ちに遭うと、信長は翌年夏、畿内で捕えた千人以上の高野聖を報復として安土で処刑しました。
 その翌年塩川長満は、信長から中国攻めに出る明智光秀の与力を命ぜられますが、本能寺の変に際しては明智に与せず、秀吉のもとに走り、山崎の戦いでは高山右近らの摂津衆として先鋒を務めました。
本能寺の変で信忠は明智勢の伊勢貞興に(二条城で)討たれましたが、その嫡男三法師は、信忠の意志で(二条城から落ち延びた前田玄以に連れられて)岐阜城から清州城へと逃げました。一方、光秀の妻の父・妻木宏忠の孫・妻木頼忠は、妻木城(@岐阜県土岐市)で攻め手の乱丸の兄・森長可に降伏しました。この兄弟の末弟・忠政には後日(も後日、2年先)チラッと登場していただきます。
 信長も光秀も逝って半月余り・・・・・1582年7月26日(天正10年6月27日)、信長の後継者を決める会議が清州城(愛知県清須市)で開かれました。その日、秀吉の肩に担がれて登場した三法師(若冠3歳?)が、信長の後継者に祀り上げられたことになっています(が、この話はフイクションのようです)。
三法師は、大叔父・織田信孝の後見のもと安土城に入ると決められますが、信孝は岐阜城から手放しませんでした。
 さてその清須会議の6年後、三法師は僅か9歳で元服して織田秀信(1580~1605)となった後、13歳で岐阜城主になり、家臣・和田孫太夫の娘を娶り、後には女子一名を儲けました。
秀信は16歳(1595年)の時、思うところあってキリシタンになりました。ガラシャの子供たちとは異なり、洗礼名が伝わっています。
秀信はペトロ、弟・秀則も同時に洗礼を受け、同じく十二使徒の一人・パウロの名を戴きます。秀信の母・寿々姫も(墓のあるお寺の過去帳に載っていないため)キリシタンだったのではないか、と言われています。
秀信は、岐阜城下にキリスト教会、司祭館、病院を建立します。
ペトロ秀信には、この頃が26年の短い人生の中で最も心安らぐ日々だったのかも知れません。
それにしても、長い禁教時代を経て、岐阜に限らず([2]で述べた小倉を始め)日本各地の町で教会の鐘が鳴り響いたことが、すっかり無かったことにされたのが残念でなりません。
 1600年7月、関ケ原の戦いを目前にして(ガラシャが「散りぬべき時」を迎えた頃)秀信は、家康の会津征伐に加わる構えを見せながらも、石田三成(1560~1600)の誘いで西軍に与します。その頃清州城は、福島正則が城主になっていて、東軍(の先鋒)を集結させていました。
8月22日、東軍が木曽川を渡って戦端が開かれます。木曽川北岸の米野の戦いで敗れた秀信は、岐阜城に籠城したものの落城必死となり、(兄弟揃って)自刃することにしました。しかし、東軍先鋒で前々城主の池田輝政の説得で、翌日、降伏開城したのです。
この戦いで秀信の義父・和田孫太夫は討死にし、岐阜城下の(教会を始め)キリシタン施設も焼失しました。
更に悲劇は続きます。大坂城で(西軍)人質になっていた秀信の妻は、関ケ原での西軍の敗戦を受けて、逃げ延びることを諦め、家臣の手で討たれることを選んだのです。ガラシャとは逆の立場にあった人ですが、同じころ同じような最期を遂げたのでした。
 東軍の中では、「秀信に切腹を」との声も強かったようですが、家臣に秀信家臣の縁者が多かった福島正則の嘆願で助命された秀信兄弟は、岐阜城下で剃髪し、高野山に追放されました。
剃髪して表向き棄教した秀信兄弟でしたが、心中は潜伏キリシタン?ただ高野山にとってみれば、秀信兄弟はキリシタンである上に仏敵・信長の孫なので、入山を許す訳には行きません。
やむなく秀信兄弟は、高野山山麓の向副村(むかいそいむら、現・和歌山県橋本市向副)の善福寺に留まり、高野山の許しを待ちました。
その地で秀信は、地元の豪族西山家の娘・梅との間に長男・秀朝を儲けます。続いて別の豪族生地(おんじ)家の娘・町野を継室に迎えて、次男・恒直を儲けました。
更に別の娘との間に儲けた男子を、家臣・坪井佐治兵衛が連れ出して匿い、美濃国池田郡脛永(はぎなが)村(現・岐阜県揖斐川町脛永)に隠棲させました。
彼等信長直系の子孫は、明智家とは違った意味で、「織田」姓を名乗る事を憚られ、秀朝系は「西山」、恒直系は「織田(おりた)」、美濃脛永村に移った家系は「坪井」姓を名乗り、それぞれ小和の世まで(現在も続いて居られるかは未確認)存続されています。
 後年ようやく高野山へ入山を許された秀信ですが、祖父信長を恨む人たちに苛められた挙句、高野山からはもん・追放させらてしまいました。
公式にはこの日(1605年5月8日)が秀信の命日とされていますが、向副村の伝承では、その三ヶ月近く後の7月27日に自ら命を絶ったとされています。
近江の聖衆来迎寺(‘大津市比叡辻、この寺の山門は坂本城城門と伝わります。)にもある秀信の位牌には「慶應十年七月二十七日」と書かれています。享年26(父・忠信と同じ齢)
世が世ならば、織田王朝(?)の三代目として栄華を極めたであろう男の余りにも寂しい最後でした。

 

 

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■愚か者め・・

2023-02-02 07:00:44 | 徒然

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 「愚か者」は英語で何というか・・・・・・・・いろいろ表現する様で確定的な言葉は存在しないようですね。
親しみやすい言葉に「ボーンヘッド」がありますが、野球で思わぬ失敗プレイが出るとこう表現されます。
「ボーン(bone)=骨」と、「ヘッド(head)=頭」が組み合わさってできた言葉で、直訳すれば「骨ばかりの頭→脳みそがない」という、まるで落語の世界の副産物のようです。
私は和製英語だとばかり思っていたのですが・・・・・
M先生もこの後は言葉遣いには大いに気をつけられる事でしょう。
昔から「口は災いの元」というではないですか、あだ名に「bonehead」とでもつけられたら大事ですよ?
ところでこのTシャツ今からでも売れると思うけど・・・

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■治定ということば

2023-02-01 14:50:47 | 徒然

 古文書を読んでいると「治定」という言葉がよく出てくる。
あるサイトを読むと、この言葉の読みは四つありどれも間違いではないという。つまり『答えは4つ:「ジジョウ」・「チジョウ」と「チテイ」・「ジテイ」』なのだそうである。つまり二系統の言葉であることが伺える。
問題は「定」をどう読むかによって意味合いが変わってくるのだそうで、次のように解説されている。
  (1)決定する事。落ち着く事。或いは、決まり切っている事。また、その様子。⇒「ジジョウ」・「チジョウ」…『ジョウ』派、
  (2)国などを治め安定させる事。世の中が治まり安定する事。⇒「チテイ」・「ジテイ」…『テイ』派

 最近猪瀬直樹氏と磯田道史氏の対談方式による「明治維新で変わらなかった日本の核心」を読んでいたら、面白い磯田氏のある解説が興味をそそった。
それは「御爪点にて御知定」という言葉である。この場合には「ごじじょう」とルビがふってある。(PHP新書・p121)

天皇に重要な決済を仰ぐとき、例えば征夷大将軍を決める時などには関白が天皇と同じ座面で対座し、候補者の名前が記された紙面を関白が扇子でトントンと叩くと、頷かれない場合は次の候補の名を又扇子で叩く。
そうすると天皇が親指を立て、爪でグリグリとして爪痕を残されるという。これが決定の裁可であり「御爪点」というのだそうだ。
こうして征夷大将軍が決定「御治定」となる。言葉など発せられないのだろう。
そしてこの遣り方は、現代においても受け継がれていると磯田教授は解説して居られる。現天皇の「御爪点」など拝見してみたいものだ。

細川家に於ける史料などにも出てくるこの言葉、格は違えども「お上」の決済を伺わせる言葉である。

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■城下町図掲載のリクエスト

2023-02-01 06:57:46 | 地図散歩

 熊本市史・地図篇には数種類の細川藩政期の城下町図が掲載されている。
その内、「安政比」とされるものについては過去にご紹介してきた。
意外に反響が有り、父祖の地に旅をして先祖が済んでいた街並みを確認したいというお話をいただき、苦勞が吹き飛んだことを思い出す。
ところが最近、ある人がほかにもある地図も紹介しないと片手落ちだろうと言われる。
「安政比」にはないが、他の地図には掲載されているお宅があるというのだ。その方の場合も同様である。
これには困ってしまった。

 地図を使うにあたっての著作権の問題や、スキャンの精度が悪くて文字がつぶれて確認しずらいという現状の解決をしなければならない。
些か腰が引けていることを見透かされてしまったが、一つの提案を受けた。
大概の人が、自分の家の名前を打ち込んで、誘導されて城下町図へたどり着いて、そして我が先祖の家を見つけている。
「地図が無くてもいいから、地図の❍❍頁には誰々の家がある」と名前だけでも紹介してくれるとありがたいと言われる。
地図が手元に無ければ仕様がないでしょうと申しあげたら、そのくらいは個人に任せればいいですよとのご返事・・・
「自分の先祖が済んだ家の場所が判れば、後は皆さんお一人お一人がご自分で近所の図書館でなりしらべますよ」と。

 なるほどそういう手もある・・・・・・・やってみるか?
「熊本市史・地図篇」が置かれている図書館は、県外では九州圏や東京周辺の大きな図書館にしか置いてなかろうから、閲覧はなかなか難しい。
さてどうしよう・・・・・・リクエストがあれば地図のコピーをお送りするか?
いずれにしろ、「熊本城下町図‐お宅の名前・索引編」を作ってみようかと思い出した。
「熊本市史・地図篇」を眺めながら、大嘆息の私である。

 

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