吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2020:1:27日発行 第59号
本能寺からお玉が池へ ~その④~ 医師・西岡 曉
さいわい
前風にとどめん 氷の藻に うち出る浪や 春の福 (伝・明智光秀作)
さいわい
「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。皆々様の許にも大いなる「福」が訪れますようお祈り申し上げます。
いよいよ東京オリンピック・パラリンピック、そして(明智所縁の者にとっては何と言っても)大河ドラマ「麒麟がくる」の年が明けました。「本能寺の変」から438年、「お玉ヶ池種痘所」開所から335年の年です。そこで本誌上では、(昨年同様)この「本能寺からお玉ヶ池へ」という不思議なお話にお付き合い頂ければ福です。
(三宅艮斎が歿した二年後に世を去って)艮斎と同じく東京・駒込追分(現・文京区向丘2丁目)の願行寺に葬られた俳人・細木香似(1822~1870)が最後に詠んだ句には、奇しくも「芭蕉」が詠われます。(ここでの「芭蕉」は、俳聖・芭蕉さんのことではなく、バナナの親戚(?)の植物ですが…)
あ やれ
己れにも厭きての上か 破芭蕉
前回ご紹介した艮斎の曽孫・三浦義彰の「三宅艮斎略伝」には、著者が願行寺を訪れる場面が描かれ、森鷗外の評伝「細木香以」を引用しています。
その文には、もう少し続きがありました。余談になりますが、艮斎が江戸での生活を共に始めた林洞海の孫娘・赤松登志子は森鷗外の最初の妻です。(が、何故か一年半で離縁されました。)
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今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上をうているだけが、昔の姿を存しているのである。
わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺の飛白(かすり)の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。
本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
忽ち穉子(おさなご)の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容(かおかたち)の美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。
「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい讀(よみ)であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
「そうです。御存じでしょうか。」「ええ、存じています。あの衝当(つきあたり)にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻(しきり)に笑って跳り上がった。
私がこの長い一文を引用した所以は、願行寺がその頃と現在とあまり大した変貌を示していないから願行寺の記述を鷗外の麗文に借りる為と、子を抱いて鷗外に応接した美しい住持が妻とのことを書きたかった為であった。
願行寺の周囲でその頃と今と異なるは一高の寮が農学部に名前のみ変わったことと3、4軒の店なるものが住宅や下宿屋の如き家に変わったこと位であろうと思う。
私は勝手知った願行寺のに赴いて案内を乞うた。出て来たのは、年の頃50程の頬の豊かな品のよい婦人であった。私は艮斎と遊亀の戒名を尋ねた。
歿年がかであったから戒名は直ちに知れた。艮斎のは慶応4年7月3日の項に観龍院殿総譽子厚英信居士とある。
遊亀のは明治32年10月1日の項に紫雲院殿厚学遊月貞信大姉とあった。私はかの婦人に谷中への改葬はいつ頃であったろうかと尋ねて見た。
「私が願行寺に来た時はもう御墓は御座いませんでした。」と云う答であった。
願行寺の今の住職は若い人の筈であるから私はこの言葉でこの婦人が先の住職の未亡人であることを朧気に悟った。次いで話は寺の由来に移った。
寺は良辯僧正の開基だそうである。願行上人の頃は鎌倉にあり、慶長以前は華厳真宗であったと云う。それが慶長15年に家康公が浄土に改宗せしめたと云う。
今門前にある不動尊はその頃の御本尊の名残とも云い江戸時代の大山阿夫利神社尊崇の盛であった頃再興されたものと伝えられている。さて寺は鎌倉から江戸の貝塚付近に移り、更に天和2年には今の駒込に移ったものであるとか。
「由緒のある寺で御座いましたが…………」と云う言葉に私は過ぐる年祖父の法要でこの寺の本堂に座っている時、仏様の下を鼠が走り回っていた光景を思い浮かべた。
そして現在の住職はまだ若いのだと云うことのみで未だその人を見たことがなかったので、「住職は? 」と尋ねた。
「只今の住職は先年大正大学を出まして只今○○に出征しております。」
「はあ、それは御苦労様のことで……」
私の手はもうこの会話の頃には襲って来る藪蚊で真赤にふくれていた。私は願行寺の門を出で、西教寺の角を曲がった時に忽ち、はたと思い当った。先の何事か聞落としたと云う事柄は正にこれであった。鷗外が香以の墓を探している時、子を抱いて立っていたのは正にこの婦人であろう。そうして抱かれていた子は今出征中の若い住職に違いないであろうと。
鷗外は香以伝に、この婦人のことを新教の牧師の如くと評し、更に「壽阿彌の手紙」の中の氏掃苔の記事の項に再びこの婦人を叙して、美しいらしい言語の明晰な女子と云っている。
その頃から既に二十年の余は経過している。寺のあたりはあまり変らないにしても人々は何と変貌したことか。私は不思議な感慨に身をゆだねて、本郷の通りを歩いた。
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「三宅艮斎略伝」は、ここで終わっています。文中にあるように、(三百年近い泰平の世が終わる年=)1868年に歿した三宅艮斎は願行寺に葬られましたが、(40年余り後に谷中霊園の)天王寺墓地に改葬されました。
ジョン万次郎(1827~1898)が撮影した三宅艮斎の写真が今に残っていて、(東京駅近くのKITTE内の)インターメディアテクに展示されています。
次に登場する坪井信道とは異なり、三宅艮斎の顕彰碑を建てた方は(残念ながら、今のところは)おられません。
[5] 信道
「本能寺の変」から18年後の「関ヶ原の戦い」で西軍にして敗れた織田信長の孫・秀信(1580~1605)ですが、その息子の一人が美濃国脛永村(現・岐阜県揖斐川町)に逃れ、長じて坪井正信という農民になりました。
正信の長男は坪井光信、光信の五男に信之という人がいます。信之は若くして亡くなりましたが、その四男が坪井信道(1795~1848)です。
信道は、僅か9歳で両親を亡くして一家離散の憂き目に遭いながらも、諸国での苦学の末蘭方医になった人です。信道を医の道に導いたのは、兄・浄界でした。
浄界は、末弟の信道に「織田信長後裔である坪井家の再興とその為に医家として身を立てること」を勧めたのです。
信道の医学は、九州各地で学んだ漢方に始まりましたが、20歳になると「広島蘭学の祖」中井厚沢に入門し、蘭方医の道を歩み出します。
その4年後、信道は江戸に上り(厚沢と同じく大槻玄沢の弟子で) 今でも使われている「膵」や「腺」という「漢字」を発明した宇田川玄真(1770~1835)の蘭学塾・風雲堂に入門しました。
1827年(文政10年)、信道は深川三好町(現・江東区三好3丁目)に「安懐堂」という蘭学塾を開きます。あの緒方洪庵(1810~1863)も入門した安懐堂は、(日本風にアレンジしない)本場オランダ式の臨床講義が好評で、入門者がどんどん増えたため、深川冬木町(現・江東区冬木)にも二つ目の塾を開き、「日習堂」と名付けました。
その後信道は、伊東玄朴(1801~1871)、戸塚静海(1799~1876)と並んで「江戸三大蘭方医」と呼ばれるほどの名医になりますが、1848年(嘉永元年)、肺癌(胃癌の肺転移かも?)のため人生の幕を下ろしました。享年54。坪井信道の墓所は染井霊園(@豊島区駒込5丁目)にあり、顕彰碑と略伝看板が出身地・揖斐川町(の公民館の敷地)に建っています。
安懐堂&日習堂は、信道の死後も発展しましたが、運悪く1855年(安政2年)の大地震と翌年の水害で壊滅的打撃を被り、そのまま廃校の止む無きに至りました。
「安政大地震」と言えば、去年のお正月に「深大寺道をゆく」旅で「深大寺用水」との関わりをお話しましたね。
信道歿して10年、(二代目信道=)坪井信友と(信道の娘婿=)信良は、ともに発起人の一人として「お玉ヶ池種痘所」を開設します。([4]でも述べたように、その話は次回に譲ります。)そして5年後、種痘所は幕府の「医学所」となり、 後に医学所の三代目頭取になった松本良順(=三宅艮斎の盟友の順天堂開祖・佐藤泰然の次男)は、信道のことを「生き菩薩」と讃えたものです。
手塚治虫の名作漫画「陽だまりの樹」に、緒方洪庵が「恩師坪井先生のご子息を入塾させたのだが」「なまけぐせが強く、意見しても無駄なので、破門したことがある」と語る場面(全集版第5巻34ページ)がありますが、その「坪井先生のご子息」とは、信友のことです。
父・信道の目にも「なまけぐせ」が映ったのか、坪井家の跡継ぎにはなれなかった信友(二代目「信道」の名は継がせて貰えました。)ですが、(種痘所設立の3年ほど前から)吉田松陰、桂小五郎ら長州の志士たちと親交を結んだ憂国の人だったようです。その坪井信友は、お玉ヶ池種痘所設立の7年後の「禁門の変」で長州が敗れたため二年間入牢し(たことで体調を崩し)、桂らが拓いた明治の世を見ることなく、1867年(慶応3年)肺結核でこの世を去りました。享年36。