津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の先見性

2023-10-22 15:24:13 | 歴史

 □□本町という呼び方は、周辺の同じ町の名を冠した□□丁目という町域の元々の町であるから本町と名付けられる。我が家にほど近いところにも健軍本町・神水本町・保田窪本町などがあり、その地域の核をなしている。
保田窪地域の保田窪本町は、今はメイン道路から外れているため、その町のたたずまいは一般に人の目に触れることはない。窪地を有する丘の連なりがあって、その頂部分が平地に開かれて後の健軍飛行場となった。
ここは寛永11年(1634)細川忠利が、阿部弥一右衛門(小説阿部一族の主人公)に命じ、新地鉄炮組を託麻ヶ原の開発のために置いたのが始まりで、今でも古い門構えのお宅が軒を連ね昔の面影が残っている。
同時に忠利は、現在台湾のTSMCの進出で沸きに沸いている菊陽町に、こちらも同様に、御掃除方の上林甚助に命じ新地鉄炮組を入れて開発にあたらせた。
鉄砲小路と名付けられた一直線の道路は3.6㌔に及び、当時の屋敷割による生け垣などが整備された綺麗な佇まいを残している。
裏手には加藤忠廣が手掛けたものの改易によって中断された堀川水路(瀬田~飛田間)が、忠利によって継続整備され水利も整い開発は順調に進んだ。
今でも誇り高いその子孫の方々が住み、きれいな町並みを残し、今でも国民の祭日には家々に日本国旗が飾られて壮観さを見せる。

又、寛永13年には花立や黒石などにも新地鉄炮衆により開発が勧められ、八カ所地筒という言葉がある様に、その他兎谷、麻生田、楡木、平山などにも整備された。

そして、天草島原の乱が勃発するにあたっては、これらの地筒鉄炮衆も出陣を余儀なくされたが、まさに、この戦いを予見するような忠利の新地鉄炮衆創立の先見性には大いに驚かされる。

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■闇の中に立ち尽くす

2023-10-22 06:47:58 | 徒然

 今朝4時過ぎ、左足に強烈なこむら返りが来た。ベッドから出ようとするが毛布が足に絡まって少々時間が経過したから、足は伸びきってしまって立つこともできない。
ベッドに座りつま先を床面につけて前かがみとなって体重をかける。
元に戻るまで数秒の事だが余りの痛さに時間が長く感じられる。2時間半以上経過したが、まだ筋肉のこりがとれない。
しばらくベッドに座り込んでいたら、右足もなんだかおかしい。親指や小指が反り返って床につかない。
このままだと右足もこむら返りが来るかもしれないと思い、今度は闇の中に立ち上がって数分間つま先立ちを繰り返す。
室内温度23.5度、あまり寒さは感じなかったが、ようやく親指・小指とも床について一安心、冷えた身体を温めようとベッドに飛び込んだ。
考えて見ると、ある靴を履いて外出した時に起こるような気がしてきた。
朔日は史談会で外出したが、歩くことは往復2キロにも満たないと思うが、この有様である。
ラバーソールの軽い靴だが、どうやら足底が地面に対して機能していないようだ。
今日は一日素足で過ごして足底の機能回復に勤めよう。そしてスリッパに変えてわら草履をはいてみようかとさえ真剣に思っている。
強烈な痛さはもう願い下げだし、闇の中に立ちつくす滑稽さはもう味わいたくない。

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■半藤一利先生に教えてあげたかった事

2023-10-21 06:53:06 | 徒然

                                                                     

                                                             

 本棚を整理していたら天水町(現玉名市)の紹介冊子「桃源郷・小天 『草枕の里』を彩った人々」が顔を出した。
わざわざ注文して購入したものだから、挨拶状やら、新聞の切り抜きのコピーやらが添えてある。(これが有難い史料である)
購入したのは平成2年の12月だった。処で改めて読み進めるうちに、主題の温泉の歴史が取り上げらていないことに気付いた。 
寺本八左衛門の「古今肥後見聞雑記」に、小天・野出についての記事があるのだ。「本は読むべし」である。

一、明和元年甲申年夏の比飽田郡白濱村邊玉名之内小天村との間に海邊に湯涌出ス同年秋に至て小家出来るよし

今の小天温泉の始まりとも目される記述である。夏目漱石の「草枕」で一躍有名になったが、こんな歴史的事実を漱石先生や半藤先生に教えて差上げたかった。
漱石先生の孫娘、半藤一利夫人は夫君と共に小天をおとずれ、那古井館に宿泊されたらしいが、温泉宿が一軒しかなかったことに驚かれたらしい。
尤もな話である。漱石先生が滞在した「前田温泉」は100mほど離れた山手となるが、夫人ものぞきにはお出でに成ったろう。
今頃は山は色ついた蜜柑で賑やかに彩られていることだろう。車の免許を返納してしまったから、小天へ足を延ばすこともないのかなと思いつつ・・・・

 

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■光尚の地震の間

2023-10-20 07:05:29 | 史料

                  
      

 寛永九年暮の忠利の肥後入国の時、熊本は頻繁に地震が起きていたらしい。
小田原では春日局の息で老中の稲葉正勝の居城・小田原城が崩壊した。その報が熊本にも届き、忠利は城内に建物が建て込んで、地震の間を立てる余地がないとぼやいている。
城内での生活は忠利にとっては不安であったらしく、十年の二月になると城を出て花畑邸に一時避難している。(その折の文書を手に入れて所持している)
その後、時間を経ず忠利は花畑邸を居館と定め城外に出た。

熊本縣史料・近世編第三 部分御舊記・法度部五十六 (p456)に次のような史料が残されているが、忠利が使用したと思われる地震の間についての記述がある。

    (寛永二拾年)
         猶々符を切候所又新敷付候所ハ其元より差図ニ書付差返候間
         可得其意候已上
      花畑地震間就作業奥へ之廊下口ニ我等符を付置候廊下仕直候ニ付
      而右之符切申度候通作事奉行共申之由ニて絵図を差越見届尤候其
      符其方両人見届切可申候就其只今符二ツ遣候間内壱ツハ今まて符
      付置候廊下之奥之つまりニ付置可申候今壱ツ之符ハ自然急なる儀ニ
      切候ハゝ不叶儀も候か又ハ符ニさびなと付候時之為ニ遣候此符不入
      候ハゝ其方両人手前ニ預置我等帰国之上可差上候謹言

                              肥
           十月廿日              光尚 御判
                         西郡要人佐殿
                         浅山修理亮殿 

 地震の間と「奥」をつなぐ廊下の入り口に「符」を付けるように指示をしている。
「奥」への出入りを禁止するためである。忠利の死去から二年後の事であり、光尚の意を反映した改修が行われたものであろう。

熊本大学永青文庫研究センターの後藤研究員の地震の間に関する研究論文が登場するに及んで、先行研究していた私は力が抜けてしまい、最近は興味も薄れてきたが、十月廿日の日付にこの資料がヒットしたので触れてみた。

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■財津一郎氏逝く

2023-10-19 15:19:09 | 徒然

 俳優又コメディアン・財津一郎氏が14日亡くなられて居たことが報じられた。
数年前、歌手の財津和夫氏のファミリーヒストリーをNHKが制作するにあたって、少々お手伝いをしたことがある。
出来上がった画面を見たら、和夫氏が財津一郎氏と同根の一族だという事を知って、大変驚くとともに喜んでおられたことを思い出す。
共に肥後藩士の御家柄であるが、財津一族は大蔵氏流日田氏だといわれるが、日田から細川家に多くの財津姓の方々が召抱えられた。
多くは阿蘇地方の在地武士で新知開拓をしながら、これを知行に繰り込むという権利を得ていた。
一郎氏の御実家は小倉時代から300石、和夫氏の方は200石共に馬廻りのお宅であった。
一郎氏のお宅は京町台(現京町本丁8番地)、和夫氏のお宅は内坪井に在ったようだ。一郎氏は濟々黌のご出身、なにかのTV番組で熊本に帰えられ懐かしく話をされていたのを思い出す。
一世を風靡したコメディアンは晩年にいたり重厚な演技の俳優となられた。その死は「ヒジョーにさみしい。」
ご冥福をお祈り申し上げる。

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■小倉戦争と熊本藩(6)鹿子木彌左衛門の「見聞録」(三)

2023-10-19 06:50:55 | 史料

一 各場所馳付候三番組名前左之通
    御番頭   西山大衛殿
  組中を勵シ指揮致シ自身発炮を有之候處物見助勤片山傳四郎付添居候鉄炮諸事不仕喘キ居候様子を見
  受所持之小銃直二被相渡相進候様被申聞同人数発打方相働申候
    大衛殿弟西山傳之進   大衛殿育尾池定隆   同人家来西牟田三十郎  同人家来御貸人岡田作太
        井上健之助
    組脇佐々布左内     組脇田邊又助
  右両人相組中■■致之内自身二も炮発有之候
    又助養子田邊格太郎   安之進嫡子牧野駒記   安之進実弟牧野亀雄       同人育同 勇馬
                        森田彌兵衛   彌之助養子同一郎助  右同人育鈴木甚蔵     加賀尾市太
               市太嫡子加賀尾平助    佐野權之助   權之助弟佐野萬之助    本庄傳兵衛
    傳兵衛養子同 熊三郎     米良勘助    勘助弟同 左七郎    志水一學
    一學弟同 古次郎     中嶌次兵衛   
    中村九左衛門      同人家来六人石田藤吉    同半之允        同清之助
       同■蔵          同角太郎    同常次郎                  鹿子木弥左衛門
    片山傳四郎       傳四郎弟片山小源太  弾之允嫡子入江生一     弾之允弟入江駿八
    久野萬之助       萬之助育久野乙三郎     鬼塚源八     源八弟鬼塚安彦
    源之進嫡子岡又左衛門    平太郎弟池邉彌吾八             志方嘉十郎    嘉十郎養子志方長平
    嘉十郎育叔父同 半之助      渡邊岡之允  渡邊岡之允支配浪人松本庄之助
    右同人譜代之家来本田徳左衛門 右同断川端亀之助   右同断石本直右衛門         太田九十郎
    友岡彌太郎     彌太郎育叔父友岡熊四郎   山代丈之助    關孫之允
    立石久左衛門    久左衛門弟立石熊彦      草刈善助     善助弟草刈久満喜
    佐四郎二男緒方清彦   佐四郎三男緒方恒喜      同 亀雄     高橋作左衛門
    作右衛門嫡子同作之允  斎藤郡左衛門    郡左衛門養子加津馬
    加賀山権之允    同 安之允     同人支配藤木友喜     原田丹蔵
    原田丹蔵      原田熊之助     丹蔵育同新左衛門      井上儀左衛門
               儀左衛門弟傳喜     井川彌次兵衛    彌次兵衛弟熊次郎
  右之面々各小銃を以数十発打放苦戦及己玉薬茂打切之程二相働申候

               権之允弟加賀山権次
  右者弓箭を携相詰居申候
    牧野安之進     続庄兵衛      庄兵衛嫡子続時雄     庄兵衛二男同宜彦
    弾之允弟入江馳四郎
  右之面々槍を持小銃之跡二押詰居申候

   
      

       

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■ゆめ油断ばしし給うな

2023-10-18 11:43:31 | 花押

 朝の散歩に出て、公園内の木立の中を歩いていたら、腕を蚊にくわれてしまった。
蚊の飛行高度は6m程と言われる。今度の引っ越しで、3階そして5階へと住まいの高度を上げたが、3階住まいの頃から家の中で蚊に食われることなく過ごしてきたから、免疫力がなく痒い事きわまりない。
漱石の熊本弁の句を思い出した。漱石先生もどこやらで蚊の襲撃にあわれたのだろう。

       秋の蚊と 夢油断し し給ふな

標準語では「~~」を熊本弁では「~~」とするが、江戸っ子の漱石先生も郷に入れば郷に従えで熊本弁も大いに使われたのであろう。
私は共に元は「~~をば」ではなかったかと勝手に思っているが、標準語では「ば」がとれ、熊本弁では逆に「を」が取れてこうなったのでは?と考えるが如何だろうか。

熊本人のひごろつかう言葉ならば、「油断ば しなすな(しなさんな)」という風に遣うから、漱石先生のこの句にはちょっと違和感を感じてしまう。
漱石先生の丁寧な表現かもしれず、乱暴だと云われる熊本弁のほうがおかしいのだろうか。

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■宜紀夫人

2023-10-18 06:35:32 | 歴史

 細川家六代・宜紀公には正室はないという事になっている。
綱利の二男・吉利が亡くなると、綱利は弟・新田藩主利重の二男利武(宜紀)を養嗣子となした。

その時すでに、二男二女がおり、綱利が隠居して襲封した時には加えて、一男一女をなしていた。
その後、五男十女をなし、合計21人の子を為している。こんな按配だから、正室なる人はいないという事になる。
最近資料を整理する中に、細川家と松井家のご当主と正室の方の戒名を記した史料が顔を出した。
これを何気に見ていたら、映心院殿光雲義明大姉という書き込みが有り「宜紀公之妾」とあり、没年が記されてあった。
「えっ」と思いよくよく調べてみると、7代・宗孝公の生母(鳥居氏女喜和)であることが判った。
宗孝公は10番目のお子で四男だが、上の9人のお子は全て夭折している。

宗孝公夫人は紀州徳川家のご出身である。夫君の生母を先代宜紀公室として取り繕ったのではなかろうか。
ちなみに弟・重賢公は宗孝公とは二つ違いだが異腹であり、こちらの生母は岩瀬氏女利加である。
綱利時代の借金35万両を引き継いで、宜紀公は借金の返済もままならぬ中「怪しからぬお家柄」と三井家からこき落された。
今日にも広く伝えられる細川家の痛恨事である。

子沢山も借金の原因の一つだろう。宗孝公にはお子はなく、重賢公は3人(二男一女)である。
重賢公の宝暦の改革で細川家の財政は持ち直した。

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■江戸の人も読み間違えの俳句かな

2023-10-17 08:04:39 | 徒然

 嵐山光三郎著「悪党芭蕉」に面白い話を見つけた。
字を読み間違えたまま、版木を彫ったというのである。これは私が見ても迂闊この上ない事だと思う。
読みが違うから五・七・五が成り立っていない。字足らずとか字余りとか言う話ではない。
                            このきど  じょう
「猿蓑」を編纂している最中に、其角から送られてきた句に「此木戸や鎖のさされて冬の月」という句だが、「此木戸」を「柴戸」としてしまったというのだ。「此木・・柴」筆をとってつづけ字で書いてみると、大いに間違えやすい字ではある。
「此の木戸や・・」はすんなり収まるが、「柴戸や・・」では大いに違和感がある。
俳諧の大家が居並ぶなか、こんなことが起りえるのか・・、光三郎先生「話を盛ったな」とさえ思ったことだった。
私も随分以前天草島原の乱の古文書で、大いに悩んだことがあったのを思い出した。
江戸時代の人もこのような間違いを起こしている。だからお許しくださいと言い訳するわけではないが・・・

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■細川・黒田の不仲

2023-10-17 07:02:07 | 徒然

 先の「ブラタモリ」では、北九州の話が二度にわたり採り上げられた。
北九州の五つの地区の大合併が、豊前・筑前の境を越えて行われたというのは、歴史的背景からすると奇跡的ともいえる。タモリ氏が奇しくも「細川と黒田は仲が悪いからね~」と発言されたとおりである。
そもそもの発端は、慶長五年の黒田家、細川家の移封が原因している。
黒田家が豊前から筑前に移り、その跡に細川家が豊前に入った。その折、黒田長政は残しおくべき先納分の米数11万を持ち去った。
つい先ごろの西の関ケ原と言われる「石垣原の戦い」では、松井・有吉が守る城を大友勢に攻められ、黒田如水の助勢によりこれを下した。
そのような恩義があるが、忠興の怒りは収まらない。黒田の船便の上下をとめようと小倉沖に大船を出したりした。
片桐勝元・山内一豊が斡旋に入り六月に至り9万石が返還された。残り2万石は片桐・山内氏への斡旋料となったとされる。
筑前52万石(見栄による粉飾によると云われる)、豊前30万石と格下に想われた細川家も、加藤家没落後にともない大国肥後に移封、54万石の太守となった。この軋轢は長い間続いたが、細川宗孝の代元文元年までに至った。
ブラタモリでは、北九州における筑前・豊前の旧藩時代の後遺症が微妙に残されていることを伺わせていた。

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■小倉戦争と熊本藩(5)鹿子木彌左衛門の「見聞録」(二)

2023-10-16 06:43:21 | 花押

一 四ッ比右手受場大谷越間道ゟ敵兵押来候て相見小銃之音相聞候間圖明寺馬場ゟ同所應援として堤之塘
       邊江三番組之手分罷出候面々左之通
    傳四郎弟片山小源次   志方嘉十郎   嘉十郎養子志方長平   同人養育之叔父同 半之助
    渡邊園之允       園之允 家来四人      太田九十郎    友岡弥太郎
    弥十郎叔父友岡熊四郎   山代丈之助
  右之面々各小銃を以堤端ゟ発炮致申候 大谷間道口ニ者右手御物頭五番組之面々敵兵打拂賊六人打取
  御物頭松村十之進手負候由九ッ前ニ至り炮聲を打止應援ニも致不申相扣申候

一 大谷口合戦之節本陳懸之時分ゟ■利之場所江押出小銃数発打方致之面々左之通
    本陳附物見三池丹左衛門   丹左衛門嫡子三池鉄太  本陳物見斎藤権之助
  本陳懸之前■圖ニて出張発炮致候面々左之通
    本陳物見吉津次一郎   次一郎嫡子同 丈一郎  次一郎二男同辰熊  同人弟同 敬三郎
    同人家来田畑孫七    同人家来緒方為蔵     同人家来緒方七平

一 同所江貮番手御物頭七晩組を茂應援として馳付小銃数発打方且後二扣居候小倉勢を茂吉津次一郎安本
  四郎右衛門等と励テ一連相加り発炮致由

一 鳥越坂合戦之儀者山上二相備居候大筒手永嶺雲七受場五ッ比ゟ炮戦相始り大炮之音烈敷小銃相交就中
  永嶺雲七門弟を勵申候 絶間無之打出シ防禦充分二相届御物頭吉住半右衛門・木造左門・横井半右衛
  門副頭山野平八郎役筒支配高橋喜一郎・黒川太兵衛各組中を勵し指揮行届居申候 ■右手御物頭金守彦
  十郎・渡邊善右衛門・匂坂平右衛門各組共馳付金守彦十郎は組子を引連山中江入込賊之撒兵を追込散
  し同所二相加り数刻之炮戰手をく砕粉骨之労を■居之内山野平八郎組子を下知し相働居候処賊炮二中
  り坂上二て討死致候砌三番組中大谷應援并と圖明寺手分共一同二同所二馳付鯨波を揚ヶ各小銃を携へ
  御物頭大筒手之間二相交り連発致し候付惣勢■以力を得頻二相働キ間近く寄来候賊数十人打倒し山手
  谷間ゟ賊兵打■らし引立候處当領二鯨波を駆■ヶ返シ合二付山上ゟ銘々打立候時分三番組重士高橋作
  右衛門乍チ賊玉二中り討死を遂ケ申候 又助養子田邊格太郎者永嶺手小銃を助ヶ数十発打放相働賊兵
  間近く五六間之處二て相討致戦死候段浅香庄右衛門見届居申候 其外永嶺門弟野村帍太郎■未相働討死
  致塩山半右衛門門弟濱治七郎助も討死致を三番組佐四郎三男緒方恒喜左之脇を打貫之手負引取申候
  吉住半右衛門組関清助手負申候 木造左門組安田猪八者深手を負上引取相果申候 御物頭大里隼之助組
  共鳥越阪之下間道相固メ居之由二て後刻同所山上江押出シ炮発相働セ申候   

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■ 熊本史談会10月例会御案内

2023-10-15 17:54:12 | 熊本史談会

今回は郷土の偉人「木下韡村先生」について、木下韡村の会会員でもあります当会会員・工藤四朗氏
から、下記の演題で講演を頂くことになりました。
多くの皆様に深く韡村先生について知って頂きたく、ご参会いただきます様ご案内を申し上げます。

                   記

期日:令和5年10月21日(土)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」

演題:木下韡村の人間像と近代にもたらした影響

講師:本会会員 木下韡村の会会員 工藤 四朗氏          

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします。

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■秋の夜長は「芭蕉さん」

2023-10-15 06:51:57 | 徒然

 昨日はTVをよく見た。大学駅伝予選とブラタモリと、BSプレミアム「英雄たちの選択」で「奥の細道への道ー松尾芭蕉五・七・五の革命」である。
これは作家・嵐山光三郎氏が出演されているという事を知って「芭蕉さんなら光三郎さん」だろうと思って拝見した。熊本出身の俳人・長谷川櫂氏もご出演だった。
あと一度「TVer」で見てみたいとも思っている。良い番組だった。

                                                       
 ブラタモリを見た後、光三郎先生の著作である単行本の「芭蕉の誘惑」、文庫本の「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」「芭蕉という修羅」を本棚から取り出し、「芭蕉の誘惑」を読み始めた。
「芭蕉の誘惑」は2000年4月の初版で紀行文学大賞を取られた作品だ。発行所が旅行会社JTBという次第である。
「芭蕉の名前を知ったのは中学三年の国語の授業で・・・」という書き出しで始まり、夏休みには日光・黒羽・白河等一週間かけて廻ったとあり、大学三年の時には「奥の細道」を三週間かけて踏破したという強者である。
そんな光三郎先生のTVでの話を思い出しながら、頁をめくった。文庫本の三冊も取り出して机に置いておいたが、コーヒーを一口喉を潤わせたとき、文庫本の「芭蕉紀行」を取り上げて頁を開いた。
最初の頁を開いたとたん、「えっ」と声を上げてしまった。さっき読み始めた「芭蕉の誘惑」と書き出しが一緒ではないか。
「同じ書き出しはまずいんじゃないかい」と思いながら読み進むが、まったく一緒の文章が続く。
私はここで漸く気が付いた。改めて最後の頁を開いてみると「この作品は平成十二年JTBより刊行された『芭蕉の誘惑』を解題、加筆修正したものである」とあった。
なんという失態、それぞれの本の購入時期が違うとはいえ、何度か読んでいるのに気が付かなかった。迂闊この上ない。
誠に不本意なトホホな秋の夜長であった。さて同じ内容の本が二冊あっても仕方ないと思うが「加筆修正した」とあるから、二冊並べながらどこを加筆したのかをウォッチングしようかとさえ思ったが、これは余りにも時間を摂りすぎるだろう。
四冊並べて本棚に収めることにした。

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■小倉戦争と熊本藩(5)鹿子木彌左衛門の「見聞録」(一)

2023-10-14 06:42:31 | 花押

 「小倉戦争と熊本藩」が、少々時間が経過しすぎた。
私が小倉戦争を御紹介したい主意は、諸氏の曽祖父位に当たられるご先祖様のご苦労をお伝えしたいという想いからである。
一番そのことが知れるのは、鹿子木彌左衛門の報告書「豊前小倉領冨野表戦争見聞書」であろう。
宮村典太の盤桓随筆の「巻6」に16ページに及ぶ書写記録があるので、読み下しをしながらご紹介する。
先人の戦場に於けるこのような記録が残されたことに感謝したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     豊前小倉領冨野表戦争見聞書
                   左御番頭三番組
一 壱番手  御備頭溝口蔵人殿       西山大衛殿
                   右御番頭五番組
                      沢村八之進殿
   本陳廣壽山 安達村
                   
                   左御番頭七番組
一 貮番手  惣御奉行 長岡監物殿     須佐美源左衛門殿
                   右御番頭八番組
                      牧 多門助殿
   本陳来光禅寺 蒲生村

一 慶應二年七月廿七日拂暁砲聲相聞候二ツキ壱番て溝口蔵人殿本陳廣壽山ゟ早鐘之相圖二應し諸手受場
  江御人数繰出候間三番組者兼而相究居候受場上冨野村江交番仕相固メ居候二付直接同所江被押出居西
  北之村際原中江手分ケ相固居候處長賊馬寄新町ゟ焼立候故小倉勢引立二引続押来赤坂村ニ懸候ニ付圖
  明寺境内東野宣太郎大筒手受場炮發戦争強く有之賊数十人打倒候よし同所應援として三番組子分圖明
  寺江罷出同所引揚候時分二番手中村四郎右衛門大筒繰出申候尤三番組同所出張之面々左之通
    組脇
    田邊又助     又助養子田邊格太郎    本庄傳兵衛    傳兵衛養子本庄熊三郎
    中嶌次兵衛    傳四郎弟片山小源次    米良勘助     勘助弟米良左七郎
    志水一学     一学実弟志水古次郎    立石久左衛門   久左衛門養子 同熊三次
    関 源之允             粟野左助     草刈善助     善助弟 草刈久満喜
    佐四郎弟緒方清■     斎藤郡左衛門   郡左衛門養子加津馬      加賀山権之允
    権之允弟加賀山権次   加賀山安之允      同人支配藤木友喜        原田丹蔵
    丹蔵弟原田熊之助  儀左衛門弟井上傳記     井川弥次兵衛    弥次兵衛弟井川熊次郎
    次市郎嫡子吉津丈太郎 次一郎弟同敬三郎      同人家来緒方七郎

  右之面々各小銃を以大炮之間を打相働申候

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■隠居は淋し

2023-10-13 06:44:31 | 人物

 元和六年の年が変わろうとする頃、忠興は病には勝てず、ついに忠利に家督を譲った。
すっかり痩せてしまい、愛娘・万姫(烏丸光賢簾中)に宛てた手紙では、父幽齋によく似てきて吃驚したと述懐している。
忠利と居を入れ替わるために三斎は志水宗加の屋敷に入り、忠利夫妻が小倉城に入ると三齊が中津城に移った。
仲津に入ってみると、それまでのいろんな家臣の出入りがまったくなくなり、三斎は隠居とはこういう事かと唖然とする。
今迄、しょっちゅう顔を合わせていた家臣も顔さえ出さない。しびれを切らして三斎は忠利に対しその旨を伝える。
触れが出されたと見え、家臣の中津詣でが始まった。これがしばらく続くと、今度はこれに対応することが億劫になって来た。
ついに値を上げた三斎は、元和七年十月十三日書状、自らの無分別だと後悔している。
 「我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさと志たる儀を申、後悔ニ候」

 小倉‐中津間は50㌔以上ある。参勤交代の一日の行程が約10里(40㌔)と言われるから、それこそ七つ立ちをして、休みなく歩いても中津に着くのは夜中だろう。
出かける方も大変だが、わざわざやって来た家臣に遭わないわけにはいかないから御隠居様も大変で、ついに音を上げてしまわれた。
隠居とはかにかくに淋しいものらしい。

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