津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■まってろ定彦さん

2023-10-12 14:30:40 | 史料

  熊本地震直後、沢山の史料が多くションに出品された。何とか流出を止めようと落札したものが十数件に及んだが、その中に朽木定彦の刑部家への複雑な養子問題に関する書状を数点手に入れた。
定彦は宇土支藩の細川興文の五男・興章が朽木家に養嗣子として入ったが、病気のために家督せぬまま実家に帰ったが、定彦は朽木家に残ったことにより、宇土支藩でしかるべき養子先を見つける中で起きた事柄である。
         ■定彦さん、順養子なるか
         ■定彦さん、順養子なるか・2
         ■その後の定彦殿
         ■定彦さんのこと、謎解き  
         ■定彦氏のこと
         ■定彦さんにこだわって
         ■定彦殿のこと・1「朽木内匠書状」
         ■定彦殿のこと・2「文化十四年七月十日付・米田監物書状」
         ■朽木家の血脈
         ■八代朽木家取扱之扣写(一)
         ■朽木家のこと「閑話休題」
         ■朽木内匠・定彦関係略系図
         ■八代朽木家取扱之扣写(ニ)
         ■八代朽木家取扱之扣写(三)
         ■先祖附にみる定彦殿
         ■八代朽木家取扱之扣写(四)御尋ニ付口上覚(一)
         ■懐具合と相談の上・・・

 当時は私の古文書読解力が無かったと見え、確かな読み下しが出来ずにいたので、最近この文書を取り出して再チャレンジしたが、何のことはない私の読解力はそのまま進歩していなかった。
そこで先にご紹介したAIくずし字解読認識アプリ みを(miwo)に読ませてみようと思い、まずは一点写真撮影をして該当部分をトリミングする作業を始めた。
上記の如く、定彦殿には随分かかわってきたが判らず終いになっている。
頭の毛がうずいているので、少々前進させたいと思うが故である。

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■秋の夜長はフォーサイス

2023-10-12 07:44:13 | 書籍・読書

                                                           

 私の本棚に外国人作家の本が二冊ある。フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」と「オデッサ・ファイル」の文庫本である。
もう何遍読んだことか、随分の年季ものである。
つい先日ユーチュブで「ジャッカルの日」を見たりしたが、昨晩は「オデッサファイル」を読もうと夕食後の3時間ばかりで一気読みをしてしまった。
何度も読んでいるから、詠み始めると斜め読み状態になり、それでも先の状況が見えてくる。
詠み始める前に脇に置いた冷えたコーヒーで納戸かのどを潤しながら、完読すると改めてフォーサイスという作家の凄さを感じる。
最近PCのせいだと思うが、右目が何だかかすんで、あまり酷使しないでいようと思うのだが、少々目も疲れてしまった。
「ジャッカルの日」の方も読もうと思うが、これは少々間をおいての事にしよう。
さて寝ようかと空を見上げたら、月齢26日の細い月が雲間に見え隠れしていた。

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■衣被

2023-10-11 15:03:26 | 徒然

 こういう言葉を聞くと、日本人って何と優雅な人類だろうと思ってしまう。
衣被(きぬかつぎ)とは、平安時代以降女性が外出するときに被る衣のことだが、「皮のまま茹でたり蒸した里芋の子芋」のこともこういう。
真っ白な芋がつるりと剥ける衣を被っていることから、そう呼ぶらしい。
私が幼いころ、祖母からいろんな話をきいたが、そんなとき「ゆでた子芋」が登場して、塩を振ったり、醬油を掛けたりして食べたことを思い出す。
結婚してから、私が「ゆでた子芋」が好きだという事を知って、奥方が思い出したように作ってくれる。
奥方はあの食感を「にとんにとん」と不思議な表現をする。延岡の言葉なんだろうか?

 もうニ三十年前、先輩の友人と飲みに出かけ場末の赤ちょうちんに入った。
そこでこの子芋が小さな鉢に鉢盛りで出てきて、二人でつまんでいると、その友人がこの子芋を「衣被」というのだと教えてくれた。博学の人だった。
お湯割りの焼酎を数杯飲んだと思うが、私は先輩がトイレにいった時に、割りばしの袋に「焼酎や 衣被二つ三つ良夜かな」と認めた。
私の手元を覗き込んだ七十はとうに過ぎたと思える女将が、「あら頂戴」といって取り上げられた。

 後日談が有り、その先輩が数か月後またその店に寄ったら、柱に糊付けされて残っていたという。
「この下手な句を作ったのは誰だ」と客の間で言う人があると聞いて、先輩は「KS」と書き込んできたと報告を受けた。余計なことをする。
私は二度とこの店を訪れていない。店が閉められてしまった。
そんな店の暗闇の中に、下手な俳句がぽつんと残されているかと思うと、ちょっとゾーッとする。
その後周りの赤ちょうちんの店と共に取り壊されたらしく、新たな飲食街になっているらしい。
そういう事もあって忘れられない駄句の一つである。よくよく考えると「季重なり」という決定的チョンボを犯している。

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■米田是季の出奔から帰参まで(3-了)

2023-10-11 06:58:16 | 人物

 大坂の陣において西軍に参加した人たちは、新たな仕官が制限されていたが、これが解除されたのが元和九年の事である。
細川家には閏八月廿八日、板倉周防守から忠利宛に「大阪浪人御かまひ無之との儀ニ付」知らせがもたらされた。
その結果を受けて九月末には細川家に於いても、三齊の意を受けてひっ迫する財政状況の中から三名を召し出している。
米田是季の帰国もそういう状況もあろうと、準備が進められていたようだ。
具体的に名を上げてその帰還を幕閣の要人等とも事前の打ち合わせがなされ、当人との接触もなされていたと考えられる。

 「元和八年之春志水伯耆を以御内意をも被仰下候処、今年に至大阪籠城之浪人抱候儀不苦」との状況に至り京都での目見が画策されている。

 夜前は久々二而対面申候、其方儀則周防殿江津田與庵を以相尋候処、不苦候間抱可申候由候条、
 可心易候、為其如此候、謹言
   八月廿八日          忠利御判
    長岡監物殿        越中


 一筆申候、女共差上候此戻船ニ其方可被下候、不及申候得共、此中之体ニ而被下造作無之様に
 と存候、軈而下待入候、謹言
                 越
   九月十四日          忠利御判
    長岡監物殿

ここにある「女共差上候・・」とは、正室千代姫が幕府より江戸藩邸詰を申し渡されて豊前を船路にて旅立った、その戻り船で帰えるようにと指示している。九月十四日に小倉を出船している。
忠利は父三斎の手前を憚り、「三齊様江御礼申上候而可然候ハん間・・・」と斡旋の労を取っているようだが、三斎は「御ち(乳母)」あての書状に「よそへつかハし候ハんとも、かゝへ候ハんともまゝにて候よし申つかハし候」と認めているように、忠利の判断に任せるという寛容さを見せている。
しかし、対面するのは三齊の死の直前、孫光尚の時代になり光尚の配慮により実現した。

十月廿三日付の「覚」では、「人数五増倍扶持方可遣候」という書き出しに始まり、馬の飼料・薪・塩・炭などの手配が奉行へ達せられている。
又「監物人数之覚」に於いては、家族が「本人・母・女房・せかれ」四人と、侍・小姓十人、台所人・女房達・はした・仲間小者など総計42人という大所帯である。
つまり当座の事として、「42人×5=210人扶持」が手渡されたことになる。

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■朝の影絵

2023-10-10 08:06:04 | 徒然

     

 今朝は良い天気になりました。レースのカーテンに太陽が当たり、壁に切り絵のような景色を作りましたので、携帯のシャッターを切りました。
風鈴はカーテンレールにつるしていますから、サッシュを開けない限り用をたしません。そろそろ取り込みましょうか。

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■米田是季の出奔から帰参まで(2)

2023-10-10 06:37:20 | 花押

 慶長11年の7月17日、飯河豊前と長岡肥後が誅伐された。原因は判らないが藩は飯河父子に罪過ありとして閉門の処置を取り、逸見次左衛門を派遣して両御所に報告させている。
そして逸見が下着したその日のうちに、誅伐が決行されるという異常さが見て取れる。

父豊前は討手の河喜多石見を迎えて家族共に働き見事討ち死にした。討手河喜多石見は豊前の家来に討たれて死亡した。
一方肥後は米田是季の妹(姉?)である室と不和の状態が三年続いていたというが、室が夫・肥後の最期にあたり生害を共にせんと肥後の元にかえり、討手の益田蔵人を屋敷内に迎え入れ、益田の周旋の申し入れを拒否して自らは妻を殺害して切腹、益田が首を落として忠興のもとに供した。

「細川藩主要家臣系図」によると、肥後か妻は黒田蔵人に再嫁したとあるが、上記綿考輯録の伝える所によると明らかな間違いである。系図には黒田蔵人再嫁と表示し直した。

 さて米田是季だが、この当時は興季と名乗っていたようだ。当然忠興からの拝領の字だと思われ、是季と名乗り直している。綿考輯録には誠に小さな次のような記事が残る。
今年(慶長11年)、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、于時22歳 浪人之内、大阪ニ籠城の事等忠利君之譜、元和九年帰参之所ニ詳ニ出」とある。
是季の帰参に当たっては、忠利の綿密な計画のもとに行われたのではないかと思われる節がある。次回取り上げる。

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■米田是季の出奔から帰参まで(1)

2023-10-09 07:42:41 | 人物

                                                       +ーーー女・牧左馬允興相室
 +--- 一条氏 准后房通の姪                 |
 |                                                  +---女・乃美主水景嘉室
 +---眞寿   米田助右衛門是政       |
   ‖       ‖ ーーーーーーーーーーーーー+---興季(是季)--- 是庸  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・➡ 米田(長岡)家        
 真賀法印------女・雲仙尼                  |
                   +---女・城州鴨懸城主広庭内蔵允室
                   |
                   +---女・波々伯部八右衛門室
                   |
                   +---女      黒田蔵人再嫁 
                                                                ‖ 
                        飯河信堅--- 飯河豊前--- 長岡肥後 
          ‖ 
       +-----女                  

       |            +---興秋
       +---麝香        |
          ‖ ------忠興---+---忠利
        細川藤孝

 少々複雑な系図を書いてみた。太字にしたのが今日の主題になる人物である。
細川家の黒歴史に、飯河豊前・長岡肥後父子の誅伐事件がある。忠興は忠利に代わって兄興秋を證人として江戸へ下そうとしたが、興秋は京都まで上ると出奔した。
その後、この事件は起きているが、興秋周辺にいたのが長岡肥後である。
忠興からすると母方の義従兄弟にあたるのが肥後の父、飯河豊前だから思い切った処分であることが伺える。
この処分に関する詳しい記録は残されていないが、幕府の不快を受けてのことであろう。
そして、肥後の妻の兄にあたる長岡(米田)是季が豊前を離国するという大事が勃発、これもその理由に迫る記録はない。
どうやら一族郎党を引き連れての離国であったらしく、是季の母・雲仙尼は一条氏を頼ったという伝聞が残る。
雲仙尼の父・真賀法印は明智光秀ゆかりの坂本・西教寺の関係者だと思われ、米田家の墓所がこのお寺に存在する。
時代が下り、細川韶邦が一条家から正室を迎えているのもなにやら因縁めいたものを感じる。

次回は、米田是季の出奔とその帰国について触れてみたいと思う。

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■AIくずし字解読認識アプリ みを(miwo)

2023-10-08 21:33:03 | 徒然

AIくずし字解読認識アプリ みを(miwo)は、皆様既にご承知の事と思いますが、私も携帯にダウンロードして、いろいろ試していますが、まだまだ問題がありますね。
携帯に入れている古文書の写真を片っ端から読ませていますが、まともな読みにはまだ出会いません。
読める事例があるということは、我々がよむ古文書は対応しきれない問題古文書という事が出来そうです。
(本当に苦労していますから)
しかし、AIが多くのデータベースを読み込んで能力が向上していけば、近い将来には我々古文書愛好者の有力アイテムになる事は間違いないでしょう。
現在の状況を憂慮するのではなく、将来を楽しみに待ちたいと思います。

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■水戸徳川家と細川家

2023-10-08 07:32:07 | 歴史

                                         細川綱利===宜紀ーーー+ーーー宗孝
                   ‖                      |
     水戸頼房ーーー+ーーー頼重===  久姫                    +ーーー重賢 ーーーーーーーーーーーーーー 治年===齊茲
            |                      ↑                     ‖  
           +ーーー光圀            |                    
                           |                       |
                          +ーーーーーーーーーーーーー 久姫
                           |
                          +ーーー頼元ーーー松平大学頭頼定ーーー女・世免
                                                                         ‖
                                                    宇土支藩・細川興生ーーーーー+ーーー興里 室・宜紀女・軌(ノリ)
                                                                                         |
                                                                                        +ーーー興文ーーー+ーーー
                                                                                                           |
                                                                                                          +ーーー立禮(齊茲

 宇土細川家の系図を眺めていたら、4代藩主・興生夫人が徳川御三家・水戸家の頼重・光圀兄弟の弟・頼元の子頼定女・世免だという事に気付いた。
本家5代目の綱利夫人は、頼重・光圀の実妹・久姫(頼重養女)だから、細川本家・宇土家は水戸徳川家を通じても縁があった。
本家・宇土家ともDNAは継承されていないようだが、水戸家とのつながりは色々な影響を受けることになる。
歴史は面白い。

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■細川家歴代当主の幼名

2023-10-07 16:53:01 | 徒然

 細川家史料によると、細川光尚は六番目の子だから「六丸」だとするが、六丸の前に生まれた忠利の五人の子女については系図に挙げられていない。何とも不思議で合点がいかない。

 さて、細川家歴代当主の幼名について、考え出したら1/3程しか思い出せず、これは細川ウォッチャーとしては失格だなと思い至った。
改めて書き出してみることにした。

         1、藤孝(幽齋)  萬吉
   2、忠興(三齋)  熊千代
   3、忠利      光千代
   4、光尚      六丸
   5、綱利      六丸
   6、宜紀      竹之助 *新田藩による命名(新田藩では2代藩主の弟・利重)
   7、宗孝      主税 後・六丸
   8、重賢      六之助
   9、治年      胤次(たねじ)
   10、齊茲      與松 *宇土細川家による命名(宇土支藩では7代藩主・立禮)
   11、齊樹      楢之助(よりのすけ) 後・六之助
   12、齊護      與松 *宇土細川家による命名=(宇土支藩では9代藩主・立政)
   13、韶邦      訓三郎(くにさぶろう) 後・六之助
   14、護久      義之助 後・澄之助
   15、護成      建千代
   16、護立        ーー
   17、護貞        ーー
   18、護熙        ーー
   19、護光        ーー

 宇土支藩・藩主(7・9代)から宗家の10・12代を継いだ二人の幼名「與松」は、7代・立禮(本家相続して齊茲)誕生に際して、「コノ名ハ兼テ本家ヨリ御自筆ニテ進ゼラレシモノ也」という由緒あるものとして命名され、9代の父(宗家11代の兄)8代立之の幼名も同じである。
與松の「與」いう文字は、忠興の「與一郎」から来ていると思われるが、この字の訓読みに「とみに」とあるが、與松の読みは「とみまつ」なのか?
まさかそのまま「よまつ」で良いのかこれが判らない。他に読み方があるのか??
ご存知よりの方の御教示をお願いしたい。

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■入江太門太家・傳十郎家、侍帳決定稿

2023-10-07 06:56:41 | 人物

両家は摂州高槻城主であった左近将監元秀の嫡男・景秀(太門太家)と、二男景光(傳十郎家)を祖もしくは初代とする同族である。景秀も景光も淡路守を名乗っており、これは景秀が死去した後景光が名乗ったものと思われるが、綿考輯録でも随分混乱している。ほかの史料を含め検討した結果、このようなことで決定稿としたい。さらに太門太家初代・三之允の系図に「室‐細川越中守忠利女」という驚くべき書き込みが有り、現在鋭意確認に勤めている。判明次第報告申し上げる。
当方サイトの「新・肥後細川藩侍帳」のUPはしばらく時間を頂戴したい。


■ 入江太門太 (東南4-21)     百五十石
     左近将監元秀 摂州高槻城主
    嫡男 

        淡路守(景秀 入道普門) 【田辺城籠城】 
          
忠利君よりの御書に、於田辺長々籠城苦労有之由、尤心中察申候、手柄なる儀共満足申候と
          被遊候御自筆なり(下記)             (綿考輯録・巻五)
          豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子
          に勝る働有しと也、父は左近将監元秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族
          郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より
          御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たり
          しといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪し
          て普門と云、慶長十九年六月病死

    1、三之允      (1)百石 側小姓御扈従役与 「一書二歩小姓頭実也」 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)歩御小姓頭衆 弐百石 (肥後御入国宿割帳)
             (3)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・三之丞
             (4)御留守居衆・田中左兵衛与 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・三之丞
    2、嘉左衛門
    3、権之允
    4、十之允・正裕(初・本教)
             (1)奥田藤次郎組 六人扶持 元禄二年十二月十三日御目見 (御侍帳・元禄五年比カ)
             (2)百五十石 御番方十二番御留守居組 屋敷・御昇町(肥陽諸士鑑)
    6、十兵衛(三之允) 
             (1)八番与 百五拾石 (御国中御侍以呂波寄) 
             (2)新御屋形御小姓役 百五十石
    7、十兵衛
    8、鉄之助
    9、小十郎(三之允) 御番方十番大河原次郎九郎組 百石
    10、十之允(十左衛門・久門太・太門太)      百五十石

       不明:八郎兵衛 寛永十五年十一月~   上益城郡郡奉行


■ 入江傳十郎 【丹後以来】 (東南4-20)  三百石
     左近将監元秀 摂州高槻城主
    二男
    
1、平内(右近、後淡路  景光)  
弐百石 三斎様御附中津二相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)
                                   入江平内入道真斎
            淡路(景秀・入道普門)弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、
            芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ
            差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
                 立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
            忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明
                                   (綿考輯録・巻14 P260)
 

        入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻28 p6 子孫・十郎大夫所持)
            折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々
            苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之外
            ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略
            ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
                  五月三日           内記忠辰(忠利)御判
               入江淡路殿 まいる
       
    2、徳左衛門(初・平内・左近・勘三郎)
          淡路嫡子徳左衛門・初勘三郎親掛りにて、御知行弐百石、家督之上三百石、大阪御陳夏
          冬共に御供、有馬御陳ニも御供働あり
 
                 (1)御詰衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
                 (2)御馬廻衆四番筑紫大膳組 三百石
    3、徳左衛門       慶安頃~  下益城郡郡奉行
               明暦元年~ 上益城郡郡奉行

    4、半右衛門
    5、弥三左衛門・秀就(初・平内・左近 後百助)
                 一番松野平左衛門組 拾二人扶持 半右衛門嫡子入江万次郎百介二成
                                     (御侍帳・元禄五年比カ)
               享保頃~  上益城郡郡奉行
    6、十郎大夫・助守(平内)  三百石 御番方三番組御郡奉行 屋敷京町(肥陽諸士鑑)
    7、平内      御備頭組・御留守居大頭組 軍学師範 三百石
          入江淡路 名は景住、平内と称す。物頭列となる又甲州流軍学師範たり。
               寛政六年十月十六日歿す。年五十九。
          
謙信流軍学師範
               愛甲十右衛門門人にて有之候処、横田勘左衛門師役被仰付候間、直門人
               に罷成皆伝仕候処、安永二年師役被仰付、右勘左衛門両人にて相勤申候
                                      (諸師役流儀系図)
          屋敷:御花畑前 (新熊本市史・地図編30 p64)

    8、十郎大夫   新御屋敷・御小姓役 五人扶持 平内嫡子御雇
               寛政五年二月~同十年十月 奉行副役・後江戸留守居二転
               寛政十二年七月~享和二年九月 奉行(被差除)

               御知行被召上候 享和二年九月十四日
                        高三百石四合壱勺六才 十郎大夫・純次
          入江素川 名は景福、十郎大夫と称す。頗る才気あり、藩に仕へ奉行副役を経て
                 奉行となる。天保六年二月九日歿す。年七十九。

    9、純次(徳左衛門・直右衛門) 御鉄炮三拾挺副頭・荒木助右衛門副頭 有吉組 三百石
    10、駿太(十郎大夫・弾允)   嶋田四郎右衛門組・御番方三番組 三百石
    11、弾右衛門(傳十郎)          三百石

        参考:肥陽諸士鑑においては
             淡路---徳左衛門---半左衛門---百助---十郎大夫としている
        
        参考:寛永十九年閏九月廿五日(熊本縣史料・近世編第二 p365)
            入江徳左衛門子傳十郎歳拾弐ニ成由候間如定之弐拾人扶持方可遣也
                                        奉行中

 

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■コロナ性(?)肩痛

2023-10-06 15:25:27 | 徒然

 コロナワクチン接種後から肩痛が始まり、特別治療もしないから完治には至らない。
同じような症状を持たれる方は多いようだが、波が有り痛みが軽くなる事もあり様子を見ているが、ここ一両日何とも云われぬ痛さで不快なることこの上ない。
読書するのに、本を持って椅子のひじ掛けに乗せているが、これが数分も持たない。
今日は肘下の筋肉に痛みが生じ、左手にはしびれがあって三角巾で吊ろうかと思うくらいである。
風呂に入って、熱いシャワーを肩に掛けたりすると、少し楽になるような気がする。
血の巡りに関係しているのかもしれない。肩を温めるショルダーサポーターを探したりしているが、適当なものが見当たらず、温湿布でも買おうかと思っている。
奥方に声を掛けたら、「今日は買い物ナシ」と無碍なく断られた。


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■大発見と大困惑

2023-10-06 06:39:54 | 花押

 先日に続いての入江家についてである。
当サイトの「新・肥後細川藩侍帳」に於ける入江太門太家と傳十郎家の初代並びにそれ以前の事柄については、「系図」の登場により当方の勘違いであったことが確定した。
これについては又別途ご報告をしたいと思っているが、系図を詳細に眺めている中で思いがけない発見が有り、また大いに困惑をしている
                                                               
                      左から三行目に「妻 細川越中守忠利女」とある。

 太門太家の初代は、「新・肥後細川藩侍帳」では三之允としているが、「系図」によると「正勝 三之允」とし「母乃美兵部少輔女」とあり、田邊城に籠城した入江景秀(晋門)の嫡男である。
その「正勝」の欄に「妻 細川越中守忠利女」とあった。
この系図はコピーを数回経ているから文字がつぶれて完読できないが、これは間違いないと思う。
入江家の菩提寺・妙立寺に入江家の関係者が収められたものだというが、原本の所在は現況判らない。
それは兎も角、妻が「 細川越中守忠利女」とはどういうことか?
忠利には女子としては、松平下総守忠弘室・藤、有吉頼母佐英長室・竹、夭折の女子、長岡図書興章室・興幾の4人が系図上に存在する。嫡子光尚の幼名は、六番目の子だから「六丸」と命名されていることからも六丸の誕生前に系図に現れない五人の子女がいたことが判る。
これは先にご紹介した。  ■元和五年九月十八日、御六(光尚)誕生

 入江家の系図が本当だとすれば、そこに記載ある光尚の一年前に生まれた女子しか該当する人はいない。
実は、妙立寺には何方のものか判らないという細川家関係者と思われる、立派で大きなお位牌が残されている。
コロナ前から、いろいろ調べてきたがお手上げ状態で、諦めかけていたところに一筋の明かりが見えた感じである。

                                
私は、忠利女だとされる入江三之允の奥方のお位牌ではないかと推測してみた。
入江家の過去帳が残されて居れば、お位牌の法号と照合すればこれは簡単に解決しそうな気がしている。

一番不思議なのは、この女性が何故細川家の正式な家系図に登場しないのか、又高槻城主の三代目のご子孫とはいえ大変失礼だが150石程の人物に嫁いだのかという疑問である。
そして私は興奮の中にいる。


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■図書館行き

2023-10-05 15:04:16 | 徒然

 午前中に図書館に出かけようと思ったら、奥方に先を越されたので午後一で出かける。
2階の一般フロアはドアが占められていて、目的の3階はどうだろうと思ったがこちらはセーフ。
資料22枚をコピーしてすぐさま退館、お天気も良いことだし図書館脇の江津湖の遊歩道へ出る。
若い男性が釣りをしていたが、目の前であたりがきて、12~3㎝ほどの鮒をGET、「おめでとう」と声を掛ける。
近くで真白の花を見付て写真を撮る。
中之島につづく橋のところまできて、自販機でアイスクリームを買って一休み。これはいつもの定番。
キョロキョロしていたら、なんと桜の花が咲いていた。証拠写真を撮影、帰り道は健軍神社参道に入り、この間見かけた、萩が植えられていたお宅の写真を撮影・・・もう散り懸っていたが萩の花は良い。
電動アシストだから疲れはしないが、ハンドルを握る手の指と、足の指がつってくる。
何が原因か判らないが、気持ちが悪くて仕方がない。秋の風がさわやかで気持ちが良い。         


                         

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■おおごと、新・肥後細川藩侍帳「入江家」のこと

2023-10-05 06:55:59 | 先祖附

随分以前■お安く読む・中公新書「武士と世間」を書いた。

 細川家家臣・加賀山主馬は転び切支丹として知られるが、その父・源左衛門政房を著者・山本博文氏は
 「加賀山主馬の父源左衛門は、摂津高槻城主・高山右近の三男で・・・・・」と書いておられるのが、ずっと解決しないままできた。

 先に入江太門太家の史料を入手し、先祖附を詳細に飛んでいると初代三之允は「浪人ニ而伯父加賀山主馬方江罷越居申候處・・・」とあった。
「義伯父」だと思われるが、入江三之允の伯母婿と理解できよう。又女系による繋がりを一つ発見した。

 この入江太門太家の先祖附では、初代三之允以前の先祖については全く触れられていないが、別途系図が残されていた。
これによると三之允の父親は景秀であり、淡路守を名乗り、晋門とも称している。
この景秀の弟が、入江平内(景光)であることが判明したが、私はこの平内が田邊城に籠城した人物だと思い込んでいた。細川家史料によると平内を淡路としているが、これは兄景秀と混同しているかもしれない。または真齊とも名乗っているが、真齊については「新・肥後細川藩侍帳」で紹介しているように、入江平内入道真斎として「淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
      立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明」(綿考輯録・巻14 P260) とあり、これが入江傳十郎家の初代・平内(景光)なのか?

一方、忠利君よりの御書に、於田辺長々籠城苦労有之由、尤心中察申候、手柄なる儀共満足申候と被遊候御自筆なり(下記)
豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死(綿考輯録・巻五)

又、入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻二十八)
折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
        五月三日               内記忠辰(忠利)御判
          入江淡路殿 まいる

上記妻ハ毛利家士乃美某女なりという記述からすると、ここに書かれている淡路とは入江景秀ということになる。というのは系図にある太門太家初代の三之允正勝の母が乃美兵部少輔とあることによる。

現在私は少々頭が錯乱していて頭が整理できないでいるが、我が「新・肥後細川藩侍帳」に大いなる誤解を以てご紹介していたことになる。
図書館に出かけ早々に「傳十郎家」の先祖附を取り寄せて、再確認をしなければならない事態となった。改めてご報告をしたい。

 

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