津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣ー(11-1)

2024-02-22 06:59:54 | 史料

 以下の事件は「此条最長シ」と特記あるように、21頁に及ぶ紙面に記録されている。
 手討が不首尾に終わり、相手方は隣藩に逃亡したため役人が出て捕獲して奉行所で穿鑿し入牢となったが、侍に対
 する無礼とは言えども死刑には該当しないとして苗字帯刀を取り上げ、熊本・八代城下お構い(追放)となった。
 また当人も手討不首尾により士席召し放ちとなった。
    3回に分けてご紹介する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

23、寛政五年七月廿一日 此条最長シ
    緒方定八郎 松本信平手討不首尾

   奥村安太夫組緒方平兵衛弟緒方定八郎七月廿一日地士松本嘉吉弟信平と申者江手疵を
   負せ遂始末不申候様子内意書付同月廿九日相達候処書面難相分候ニ付委細書付相認メ尚相達候
   様及差圖右之趣は御奉行中ゟ八月二日内意申達置候処右信平柳川御領ニ罷越居候よしニ付而
   御奉行中ゟ申来候紙面左ニ記
    御組緒方平兵衛弟緒方定八郎手を負せ申候玉名郡地士松本嘉吉弟信平と申者柳川御領
    へ罷越居候様子ニ付此方役人被差越候受取明間江被入置筈ニ候右之通
    上ゟ被召捕候者之儀二付於途中定八郎ゟ容易之取斗等決而不被致候様可被有御達旨尤被
    召捕候上様子ニよりて引渡儀も可有之候条此段も御申聞可被置候 以上
      八月四日       御奉行中
       奥村安太夫殿

   右平兵衛猶差出候定八郎始末之様子書付同七日御奉行所江罷出當番御奉行も相達置候書面左ニ
      口上之覚
   私弟緒方定八郎儀玉名郡内田手永清村江在宅仕せ置候処去月十六日山鹿手永表江用事御座
   候ニ付罷越十八日帰候節同郡同手永久井原村三池寿兵衛と申者之所江立寄湯を所望いたし遣イ
   居申候所何者とハ不相知善十々々と声を懸申候ニ付善中ニ而は無之左様ニ申者は小奴ニ而も有之候哉と申候へは
   左様ニ申者は何者かと彼方ゟ相尋申候ニ付緒方定八郎と相答申候処定八郎とハ何者ニ而候哉太
   事をアヤツなとゝ申候而其座を暫クはずし申候

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■薩摩衆どこをお通り・・?

2024-02-21 15:01:55 | 熊本

 薩摩藩の参勤については詳しく調べたことはないが、斉彬公や将軍家定に嫁いだ篤姫などは、すべて陸路で通している。(半田隆夫著‐薩摩から江戸へ 篤姫の辿った道)
NHK大河ドラマ「篤姫」では船旅であったと思うが、これは脚色である。
つまり、あの三太郎峠も越えたのである。熊本城下は一気に通過せねばならないから、川尻に宿泊して、御馬下の角小屋で御小休をしたのち、味取新町(植木町)のお茶屋(現・植木小学校)や味取の善行寺などで御小休、山鹿のお茶屋に宿泊された。
さて、薩摩街道(豊前街道)は、新一丁目御門から法華坂に入り、二の丸から二の丸御門をへて京町に入るルートが正式である。
随分時代は遡っているが、次のような文書が残されている。
これによると、参勤の本隊は城内を堂々と抜けていったのだろう。しかし、近道・裏道を通った者もあったことが伺える。

      一御曲輪内、薩州様御通之節、御家来之内又は旅人共罷通
       候節、間ニは本町通ハ不致、近道を存候哉、駕幷人馬之
       内裏町を通申者も有之由、本通之外外脇道堅不罷越様、
          きびしく
       下方え稠敷御沙汰候間、人馬會所之者共も兼て其心得仕 
       居候様可有申付候、尤右之通御同役中えも可有御通達
       候、已上
         寛延三年(1753)巳二月廿ニ日   奉行所

砂薬師坂から古京町を通って京町へ出たり、さらには杉塘から本妙寺田畑を通り京町に上るいずれかの急坂を上ったのであろう。
いずれにしても、薩摩から江戸はおおいに遠い。
しかしながら、西南戦争に於いてはやはり積雪していた三太郎峠を越えて進軍してきた。
往時の人たちの脚力、敬服に値する。

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■肥後古流茶頭・萱野家の茶杓二点

2024-02-21 08:24:49 | オークション

    肥後古流の茶頭の萱野家二代の茶杓だという。
10数年肥後古流のお稽古をしてきたが、茶杓について古流独特の作りがあるのかどうかは良くわからない。
6代・7代が揃って出品とは珍しい。

委託HK◇萱野仙遊 竹茶杓 共筒(茶道具 竹工芸 抹茶 点前 さじ 細川家 茶道頭)

                                                         

委託HK◇萱野宗保 竹茶杓 共筒(茶道具 抹茶 点前 さじ 竹工芸 )

                                                       

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   萱野宗保   御茶道 (後・茶道肥後古流 古田家家元) (南東59-2 茶・鷹・馬)
    (古田織部正重然   利休七哲の一人)
    1、甚斎(隠斎) 御医師衆・御茶道衆 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)   
      
 萱野正的 古田織部正の弟、萱野伝左衛門姉婿なるをもって萱野姓とす。
            幼名左五郎、後剃髪して甚斎、隠斎と号す。古市宗庵に茶法稽古を受ける。
            寛永十九年御茶道、寛文元年茶道頭二百石。元禄二年隠居。宝永四年没。 

    2、甚斎(養子 実・杉野加右衛門子 川游)
            御伽衆・御医師・御茶道 二百石 寿斎・宗国 (御侍帳・元禄五年比カ)
                 
 細川綱利公御書出(元禄六年)
       
萱野秀盈 号甚斎、隠居後泰慶。元禄二年家督、同三年御茶道頭、同六年ニ百五十石。
            命により水前寺御庭、白金邸御庭其の他の作庭を行う。享保十七年隠居、
            翌十八年没。

    3、甚斎(養子 実・宇田忠左衛門子 周悦)
       
萱野成商 初め周悦、後宗斎。享保十七年家督。元文元年御茶道頭。同四年没。
    4、宗斎        
 細川重賢公御書出(明和六年)
       
萱野正勝 幼名宗竹、円斎、宗斎。元文四年家督。安永四年五月御茶道頭。同九年没。
            室・蒲池喜左衛門正定妹和瀬。

    5、宗羽(養子 実・水足左助四男 甚斎)
     
  萱野正信 五才の時正勝養子となる。幼名庄助。安永三年古市宗円同席にて「極真ノ台子」を調ぶ
            
安永九年家督。寛政六年御茶道頭。文政三年七月没。室・同氏司馬太女
    6、仙游(正信二男) 御茶道御知行取・御近習御次支配頭之支配 二百五中石
       
萱野正名 幼名太三郎、仙雄、天真斎と号す。天保五年御茶道頭。弘化元年、嘉永四年各々
            五十石御加増。嘉永八年九月没。江戸、熊本に於いて茶室多数を指図す。
            室・中村助右衛門女時。

       
萱野天眞 名は仙雄、天眞斎と号す。父祖の業をうけ茶道頭となる。禄二百五十石。
              嘉永六年九月十八日没す、享年七十三。墓は唐人町古往生院。

    7、宗保  二百五十石
       
古田正房 幼名寿一郎。嘉永六年御茶道。作庭に長ず。明治三十七年一月、年九十才にて没
            室・深水頼経三女伊志。明治に至り古田姓に復姓。

 

 

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■我が家検索リスト、再・「山崎」-2

2024-02-20 08:20:46 | 地図散歩

 山崎地区については、過去に「■「明暦前後」地図散歩■発見「明暦前後」の桜町周辺絵図我が家検索リスト・2(68-2 熊本所分絵図 山崎之絵図)」そして過日再・山崎ー1をご紹介したから都合5回目である。

 朱の点線で示したのは過去の道の状況だが花畑邸の正面及び南側が大幅に広げられた。
その為に数件分の屋敷がその形状の変更を余儀なくされた。その他の道筋は全く変更されていない。
宝暦の頃のものである。
   

     

     

①現在の市民会館あたり
 沢村宇右衛門尉屋敷は御作事所に代わっている。その他屋敷は、高瀬新十郎宅のみである。

神西長右衛門尉の屋敷が引き続き残り、新たに山川兵左衛門道家金吾が入った。

③11軒あった屋敷は9軒に区割りが変わり、すべて入れ替わった。右回りに
 藤崎源太夫及び添屋敷・八木市郎左衛門・中嶋九郎左衛門・永良助之允・青地久左衛門・二宮万三郎・小島八之允・田中庄右衛門


④茶道・古市宗左屋敷は子の古市宗円屋敷となり、その他は福田善太夫・中瀬助之進・山中彦十郎・林藤蔵・小川兵太夫とそれぞれ入れ替わって入った。  

⑤この区画もすべて入れ替わり、不破権右衛門・佐方宇小右衛門・永屋猪兵衛・吉富伊兵衛四軒となった。

⑥この区画では弓削五兵衛宅が弓削五郎次宅になり、清田左近右衛門宅が清田甚右衛門、大塚左次右衛門宅が大塚甚蔵宅となり、その他辛川孫之允・高橋喜左衛門・下村源兵衛・元田万平・池田佐五右衛門・坂根少九郎・横山九十郎が移り住んだ。

⑦西北角の岡田甚五左衛門尉屋敷が岡田久左衛門屋敷となったほかはすべて入れ替わり、千葉作兵衛・釘沢専太夫・内藤左五右衛門・富田小左衛門・高橋弥次兵衛・竹原清太夫らの居宅となった。

⑧花畑邸の南側の路地が大きく拡幅されたため、この区画はその影響により五軒あった宅地は集約されて、一族の長岡隼人(宜紀7男‐刑部家6代興彰)の邸宅となった。

可児清右衛門・山田丹太夫・原田丹蔵・多羅尾市允・金森左五右衛門・吉海市之允

嵯峨五郎右衛門・岩間三右衛門・高本玄碩・上田儀三太・小川元淳・伊藤長左衛門・岩崎武兵衛・成瀬治部左衛門・吉田才兵衛・的場勘平・相良又左衛門

大洞弥一兵衛・熊谷市右衛門・辛川伝五郎・武田一次・村松長右衛門・加々美又兵衛・河田八右衛門・原田金兵衛・続庄右衛門・松野権右衛門

⑫7区画あった屋敷地は4区画となり、小笠原斎及び添屋敷が大部分を占め、安場五太夫屋敷と他は御用屋敷となった。

⑬すべて入れ替え、松本喜十郎・水野幸右衛門借置・元田尉太夫・吉田嘉左衛門・佐方伊右衛門・萱嶋彦兵衛6家となった。

⑭内藤彦太夫屋敷は内藤長十郎に替り、その他は谷貞次郎・寺本兵右衛門・伊藤角右衛門・木造源右衛門・魚住左伝次・不破新右衛門・金森三左衛門・磯谷源右衛門が入った。

本庄伝兵衛・佐野左太夫・西沢太郎右衛門・長谷川七兵衛・渡辺武伝・脇山安太夫・杉本只之允・木野庄左衛門・平野太郎四郎等に入れ替わった。

⑯この地区もすべて入れ替わり、奥田安之允・辛川九兵衛・志水新兵衛・平川甚之允・神足兵左衛門・田屋尉左衛門が入った。

⑰松井家関係の屋敷がまとめられ松井典礼下屋敷となり、中山勘左衛門・和田文八郎屋敷が並ぶ。

菅野宗斎・佐々牛右衛門・杉村角太夫・高見次左衛門・浅香一郎左衛門・田辺孫太夫・中山左太夫・佐田新兵衛及び添屋敷・田中長太郎借置など入れ替わった。

⑲南東角の大きな屋敷・河方半四郎跡には河方安右衛門が入り、他は伊藤権左衛門・井口庄左衛門と添屋敷・郷村宗珠・松崎市之允・成田源兵衛・星野左太夫・嶋田郷右衛門などが入った。

⑳すべて新しく境野又之允・速水儀兵衛・木村清兵衛・宮脇次右衛門・小島伊左衛門・山尾善兵衛が入った。

㉑は寺町である。玄覚寺に加え正法院が存在している。

㉒小林久左衛門跡に小林次兵衛が入り、その他松江文右衛門・中山左次右衛門・益田源之進・□□武左衛門屋敷が並ぶ。

斎藤勘助屋敷はそのまま残り、その他は曽根兵助・宮村武左衛門・栗野平次・中山左助借置・岩尾嘉右衛門・□□右兵衛・福田杢平次・可児清蔵・氏家大喜とすべて入れ替わった。

㉔清田主馬の大きな屋敷跡には島権十郎が入り、その他林兵助・小島伊右衛門・宮脇次右衛門が入った。

㉕かっての出田作左衛門屋敷に平野新兵衛が入り、その他沢村弥平次・上野喜三右衛門・蟹江七太夫が入った。

㉖以前は足利道鑑嫡子の尾池(西山)傳右衛門の屋敷であったが、木村弁次屋敷となった。
 

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■手討達之扣ー(10)

2024-02-20 07:10:51 | ご挨拶

22、寛政五年十月廿七日 宇田安衛門 栗原傳蔵(左郎)手討
    有吉萬之助組
    私妹儀昨日七日夜山本郡味取町江居住仕候都筑次左衛門組栗原傳蔵三男栗原左
    儀難差通筋有之候ニ付私隠居在宅ニおゐて打果申候 此段被成御達可被下候 以上
      十月八日        宇田安衛門
        沼田貞右衛門殿
        堀田文右衛門殿
        
      御内意之覚
    私妹儀栗原傳蔵忰栗原左郎打果申候始末は一昨日六日隠宅江客来有之妹之部屋ニ居
    申候処右左郎儀屋敷内二忍入窓ゟ不義之筋を色々申聞候ニ付甚呵申候へとも女ニ侮申候哉
    立除不申弥申懸候間打果呉申旨申候得共退不申近所よち雇置候女左九郎儀は酔躰之様子
    ニも有之候間此節は差許申候様相断立帰り申候様取斗申候ニ付先其侭ニいたし置隠宅江も
    不申聞一應は差許申候 然處翌七日之夜妹儀は雪隠ニ参窓ゟ見申候処人影見へ申候間参一盗■
    躰ニ而も有之間敷哉と座敷方江廻り何者ニ而候哉と相咎申候處我等二而候と申昨夕之儀不承知候ハゝ
    此節は隠居共ニ打果申候と申候ニ付不届之儀難差通刀を取ニ走り戻り申候処後ゟ切懸申候間
    其刀ニ取付もき取直ニ打果申候 然共其者之刀ニ而留を刺申候も如何と存声を立テ弟良八
    江隠居指料を持参申候へ共右之差料見へ不申其内隠居参則留メをも刺遣申候 尤
    右左九郎ゟ切懸申候刀は其以前ニ忍入取申候を相見隠居差料之刀ニ而御座候 右之通御座候 以上
      十月八日        宇田安衛門

  ■ 宇田喜兵衛  (南東30-9)
     喜兵衛
    1、四右衛門
    2、四右衛門(初・伝八) 奥田藤次郎組 山横目付 五人扶持弐拾石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、奥右(左)衛門      百五拾石 新組 屋敷・手取
    4、文四郎      八代御城付  百五十石
    5、四右衛門
         安永二年二月~安永三年五月  玉名郡郡代
         安永二年九月~           下益城郡郡代
         天明元年四月 宇田四右衛門在宅ニ而浦御番被差越、交替前年年限ニ成候付、
                引出候願達可申哉と問合有之、願書不及相達、熊本江引出之上
                達有之候様返答 (熊本市史資料編第三編P252・・在宅願頭書)

    6、安左衛門  百五十石

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■手討達之扣ー(9)

2024-02-19 11:14:38 | ご挨拶

19 、寛政三年十一月十二日 三苫英助手討
    志水九左衛門組内藤平左衛門弟三苫英助儀昨十二日家来難差通致慮外候ニ付致手討御日が
    らの儀二付平左衛門儀如何程ニ相心得可申哉と相伺候ニ付相慎候様申聞置其段相達置申候処平左衛門
    儀慎ニ不及段十御奉行所御達有之候間則平左衛門江及達御請相濟申候由十一月十三日紙面を
    以被申越候事

  ■ 三苫苫三  (南東49-17)
     宮内大輔
     主水 
     田中太郎左衛門(初・半左衛門)
    1、治部右衛門
    2、惣左衛門
    3、十平太(惣左衛門)
    4、英助  三苫英介 名は征秀、藩に仕へ番士となり、頗る剛強の人たり。
                  寛政四年七月四日没す。年二十九。

20、寛政四年□月九日 不破素太郎家来手討
    藪内蔵允組富田兵次従弟不破萬平嫡子不破素太郎儀去月九日之夜於嶋田之駅家来
    一人手討仕其身も其夜致切腹候段江戸詰万平同役ゟ申越候 訳筋如何様とも不相分申候
    旅中之儀二も有之万平儀如何程ニ相心得可申哉同役月番上羽牧之允ゟ相伺候處旅中之儀と申
    先相慎居候様支配頭志水次兵衛殿ゟ被申聞置其段御用番江相伺候処兵次儀差扣居候ニ不及旨従
    御奉行所申来則及其達御請相濟候事

  ■ 不破源次郎  (南東39-5)
     忠左衛門  (1)側小姓・御扈従役歟 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・忠右衛門 
             (2)歩之御小姓頭衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
    1、十之允   (1)御小児性衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
             (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             (3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    2、新右衛門(養子 実・長瀬氏) 
               御詰衆・四番小坂半之允組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、十右衛門・長政(実・前田氏 初・長十郎) 
               四百石 御番方九番 屋敷・山崎
    4、新右衛門  九番与 三百石
        昌命 室・松野七蔵妹 二子高瀬楯之助武延養子・文平勝正 職禄千石・側用人
    5、万平    (1)御番方・尾藤・組脇 二百石  (2)四百石
                 明和七年二月~明和三年五月 玉名郡代
                 安永三年六月~安永五年四月 山本郡代
                 寛政七年二月~寛政十年三月 川尻町奉行
                 寛政十年十月~寛政十二年七月 奉行
        不破観翁 名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
             江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。享年未詳。坪井宗岳寺に葬る。

21、寛政五年十一月八日 伊藤権七太田要蔵手討
  寛政五年溝口蔵人組
    私儀昨晩沢村半兵衛方へ罷越八ツ半比罷帰申候処納戸ニ帯刀之者忍入申候ニ付私参之
    候処手向仕候 盗賊之躰ニ相見申候ニ付打果申候 勿論面躰も見知不申候ニ付得斗吟味仕候処坂崎五左衛門
    家来太田要蔵申者ニ而御座候 依之如何相心得可申哉奉伺候 此段可然様被成御達可被下候様
    奉頼候 以上
      十一月九日        伊藤権七
        伊良子市太夫殿
        小川兵太夫殿

  ■ 伊藤一革 (東南4-5) 【丹後以来】  百二十五石
    1、加藤(伊藤)金左衛門  
             (1)御鉄炮三十挺頭 千石 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)
    2、儀太夫   (1)供之者 御扈従与也 二百六十石 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)御小姓組衆 二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
    3、権之丞   (1)御詰衆 二百五十石 (真源院様御代御侍名附)・・権允
             (2)二百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・権丞
             (3)長岡帯刀組 二百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・権丞 
             (4)御馬廻衆六番嶋又左衛門組 百五十石
    4、梶右衛門   御詰衆・五組槙島半之丞組 二百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    5、権七 (養子 実・沢形右衛門弟)
    6、忠右衛門・金作 (1)二百五十石 幼少 
             (2)二百五十石 御小姓組五番幼少御中小姓御番方御小姓組五番 屋敷鷹匠町
                                                             
    7、儀太夫  四番与・二百石 (御国中御侍以呂波寄)
         伊藤儀太夫 名は直澄、世禄二百五十石。北条流の兵学に精通し、其師範となる。
                  門人頗る多し。天明五年十月六日歿す。年五十三。

         伊東儀太夫 北条流兵法師範--板根助十郎跡(諸師役流儀系図)
    8、金作(権七

 

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■西南の役勃発

2024-02-19 06:31:21 | 熊本

      
                                                  いずれも服部亮英氏の作品

 西郷隆盛は17日に鹿児島を発して、加久藤峠を越えて人吉に入り、球磨川を下りや八代へ出て、舟で川尻に入ったのは21日
である。
別動隊は積雪していたという三太郎峠を越えて進軍し、20日には川尻へ入った。
官軍の熊本城守備隊は19日には城下を焼き払い、熊本城を自焼させた。(ほぼ定説化しつつある)

 当時の著書に中に、熊本城炎上の理由と市街地延焼の様子が書かれている、関徳著・西南戦争記事がある。
この著は10年8月に出版されているが、当時の新聞各紙を情報源としている。その緒言は6月であり、記事の確かさが伺える。

「先ず守禦の便を取んがため、十八日鎮臺より命を下して、明十九日第十二時市街人民の家宅を焼拂ふべき旨を達しければ、
人民の狼狽言んかたなく、什具を背負て逃るあり,老幼を携て走るあり、東西に泣叫ぶものあれば、南北に逃迷ふものありて、
上を下への混乱は宛がら鼎の沸が如く、号泣悲哀の惨酷はあはれといふも愚かなり。斯て翌日定斯の刻限を遅るゝ三十分ばかり、
人民の悉く東西に退きしを見て,三発の号砲を相図に場内の天主閣を焼拂ふ、時しも西北の風烈しく、見る見る坪井千反畑等の
町家へ延焼し、渦巻上る黒烟は忽ち満空に漲りて、紅焔炎々天をも焦す勢ひなれば、さしもに廣き熊本城下も瞬く間に修羅の巷
と化し、其僅に禍を免るゝ市街は西に細工町五丁目、花岡町北岡邉、南は向町、本庄本山無臼町、白川新町、新屋敷、北は出京
町、新出京町、東は三軒町、松雲院町、立田口等に遇す。城の存する処は櫓二棟、土蔵一棟のみ、尤も市街は一時悉く焼失する
にあらず十九日、二十日、二十一日の禍災を連ねて算する所なり」
 細川家の姫君御三方は、火が発せられる前に北岡の御屋敷を出られて立田邸に避難をされ、以降4月27日にお帰りになるまで戦
況を見極めながら県下各地を避難の行脚を為された。三澤純氏のお姫様たちの西南戦争:資料の解題と紹介
に詳しい。

 高祖父・上田久兵衛が先の川尻奉行であったことから、乞われて川尻鎮撫隊を結成し川尻入りしたのは、26日だと鈴木崇先生
は種々の論考で披瀝されておられる。

以降、薩摩軍と折衝を重ね、川尻町民の生活に支障をきたさないように尽力した。
しかしながら、薩軍に協力したという稜で捕らえられ、家族に知らされることなく斬首の刑で落命した。
高祖父の無念を思うと、西南戦争を起こした西郷隆盛の行動には何とも同意しかねる心境である。
147年前の今日は、城下が焼かれ逃げ惑う人々は熊本城の炎上する姿を見ることになる。無念の一日ともいえる。

 

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■齊樹・齊護の目録付き知行宛行状三点

2024-02-18 10:40:20 | オークション

1,熊本九代藩主 細川斉樹(なりたつ)が家臣 山崎角弥に与えた200石の知行宛行状と知行目録
2,熊本十代藩主 細川斉護(なりもり)が家臣 山崎隼雄に与えた150石の知行宛行状と知行目録

  1,2は共に山崎半十郎家の7代・角弥と9代隼雄あてのものである。
  12代半十郎はまたの名を貞嗣、肥後六花「肥後山茶花」の祖と称えられる。
  「熊本文学散歩」「湖東在稿」などの著を著した山崎貞士は貞嗣の孫である。

    ■ 山崎半十郎  (南東35-13)
     出雲守     (興盛・・陶晴賢家臣・・?)確信無し=管理人
     五郎右衛門
    1、傳左衛門  (1)切米人数 百石八人 (於豊前小倉御侍帳)
              (2)御側弓輝炮頭并組外衆 物書頭 百石 (肥後御入国宿割帳) 
              (3)八番・薮図書組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
              (4)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
         屋敷:城内慶安坂脇(新熊本市史・地図編24 p44)
    2、半右衛門   御右筆衆 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
    3、傳左衛門   御側物頭衆 ・御右筆頭 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    4、久之允
    5、傳左衛門   八代詰 三百石
    6、惣兵衛(養子)
          在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p251)
               山崎惣兵衛、親山崎傳左衛門代、明和八年冬五ヶ念在宅願之通
               被遊御免、其後隠居、惣兵衛儀家督以後今度改メ在宅願有之候、
               尤親代在宅御免より去々年迄年限付而去春願継可申処、願年之
               翌年在宅江引越候付、去年迄之年限と心得願継延引迷惑仕由、但
               組脇より達迄ニ而本願相済         (安永六年二月)
    7、角弥   三百石、当時二百石
    8、傳左衛門  御番方・松下清蔵組 二百石
    9、慶太(五郎右衛門) 
    10、隼雄(養子 傳左衛門)
    11、直彦(養子・佐藤仙九郎七男 久之允・傳左衛門)  川尻御作事番 百五十石
              実兄佐藤仙右衛門を後継し肥後宏流二代
    12、半之助(半十郎・貞嗣)   百五十石
              肥後宏道流三代、肥後六花「肥後山茶花」の祖

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3,熊本十代藩主 細川斉護(なりもり)が家臣 松見卓右衛門に与えた100石の知行宛行状と知行目録

        下に記す通りこの宛行状の存在は、松本寿三郎氏の著「細川藩御書出集成」で知られていた。

   ■ 松見太郎八  (南東38-15) 
    1、上田長三郎(長右衛門)
    2、長右衛門
    3、文左衛門・貞仲  百石 御番方十一番御留守居組
    4、吉之允       百石
    5、権次(長右衛門) 二番与 百五十石
    6、喜平次(仁左衛門)  
    7、卓右衛門   八代御城付八代御番頭組 文武稽古所見繕役 高百石之御擬作
                 
細川斎護公御書出(弘化四年)百石
    8、太郎八   須佐美権之允組 御留守居御番方 御擬作高百石

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■二月十八日付け、花畑邸大掃除の号令

2024-02-18 07:38:52 | 歴史

    寛永九年十二月に肥後に入国した忠利は、地震におびえている。
城内の居住区の周辺には空き地がなく、地震屋を立てる空間もないと嘆いている。
そんな中、老中稲葉正勝の居城・小田原城が崩壊したというニュースを聞き怯えが増幅し、城を出ることを考えた。
急遽のことであったと見え、三家老からの達、御用番であろうか家老米田監物の指示が10名の主なる家臣に通達された。
ヤフオクで競い合って、何とか手に入れた書状である。

                  明日御花畑へ被成御移申候ニ
                付而掃除被成御急候間
                人有次第鍬・も川こ(もっこ)・者うき(ほうき)
                持せ唯今早々可被差
                出候 御供衆中被仰
                付候得共 人すく奈ニ可有之候
                と存申入候 則不破平太夫
                中山左次右衛門着到付可
                被申候間 可被得其意得候
                恐々謹言
                 二月十八日   三人 (三家老)

                右如此申触候間被得其意
                御花畑早々被出平太夫
                左次右衛門へ被引渡可着
                到付候以上
                       長監物 
                 二月十八日   是季・花押

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                  右から 嶋 又左衛門殿
                       矢野半十郎殿
                       小坂半之進殿
                       松岡久左衛門殿
                       佐分利兵大夫殿
                       谷 助大夫殿
                       長谷部文右衛門殿
                       山川惣右衛門殿
                       山内勘助殿
                       細川七左衛門殿
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■手討達之扣ー(8)

2024-02-17 14:52:38 | 史料

 18、寛政四年六月三日 安藤十郎右衛門手討
       口上之覚
    私儀増奉公ニ而召抱置申候玉名郡中沖洲村惣助と申者不届之儀有之難差通御座候ニ付今朝
    手討仕候 此段御達可被下候 以上
      六月三日       安藤十郎右衛門

       両人完   従弟松岡庄平次持参組脇村上善右衛門江達ス
       口上之覚
    私儀昨日手討仕候玉名郡上沖須村惣助死骸請人差出候様村役人共江申遣候處只今受取人
    差出茂ぷ仕候間死骸相渡申候 此段可然様奉願候 以上

       両人完
    右始末席計有之候ニ付相尋申候處十人横目罷越一通之挨拶ニ而引取候由沖須村庄屋受人之方へ死
    骸受取候様申越候処翌四日請取人差越候ニ付引渡直ニ其段相達人置所江別紙相達不申し
    兼而心易人置所役人迄右之始末相認役柄■渡ニ相成候様申越候処両三日之中ニ役柄速ニ■
    渡相成候由其外御懸庄屋様江ハ手数いたし不申候明細書又は身分伺など申儀無之右
    之通ニ而相濟申候由文化九年二月六日咄有之候事

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■持病「こむら返り」

2024-02-17 06:47:40 | 自分史

 最近またまたこむら返りが頻発している。
昨日は薬をもらいに病院に行くと、ここ半年ほど診てくれる先生がカルテを見ながら開口一番「こむら返りはどうですか」と聞かれる。
なんだか言い当てられた感じで、あと一両日で薬が無くなるからと処方をお願いした。
ところが処方薬局に行くと例の漢方薬が処方されていない。
電話を入れて確認を取ってもらい、「先生・・自分から言い出したのに」と思いながら無事薬をもらって帰った。
自分のこのブログに「こむら返り」と打ち込んで検索してみたら、一番最初は2013年の7月の書き込みで、それ以来35回も書き込んでいた。
10数年の長い歴史をもつ「こむら返り歴」であり、すっかり私の持病の一つになった。
最近どうも体調がよくない。何を食べてもおいしいと思えない。コーヒーもうまくないし、寝酒もだめだし、跡口が悪くて白湯を飲んだりしている。
「長生きしねえな~」などと思いながら、昨晩はさしあたりこむら返りの急襲は願い下げにと、なんとも飲み口のわるい漢方を飲んで床に就いた。
今朝は何とかさわやかな目覚めを迎え、今日は史談会例会へお出かけである。何とか元気です・・・・・

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■手討達之扣ー(7)

2024-02-16 10:11:36 | 史料

15、安永九年九月十七日 可児才右衛門妻手討
    堀丹右衛門組吉田内蔵次育之伯母可児才右衛門方江逗留ニ罷越居申候処 去十二日之夜忍出候ニ付方々相尋
    古町妙乗寺ニ居候を一昨十四日之晩連帰り直ニ右才右衛門妻致手討候 右育之伯母は才右衛門妻妹ニ而
    御座候 依之内蔵次儀奉恐入候 如何程ニ相心得可申哉と相伺候ニ付慎居候様申聞其段御役
    所江罷出相達置候処内蔵次儀差扣等ニ不及尤程従御奉行所申来候 内蔵次江及達御受相濟申候事
       九月十七日

  可児清蔵 【青龍寺以来】 (南東16-9)
     次左衛門(治太右衛門)  御馬廻衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
    1、兵三郎   十二番牧平左衛門組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
              百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              清田石見組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
              御馬廻衆十二番遠坂越後守組 百五十石
    2、才右衛門  御詰衆・十一番西山八郎兵衛組 宇土郡奉行 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、才右衛門・正直(無一)
    4、清蔵     百五十石 御小姓組 屋敷・山崎
    5、才右衛門  奥方が逗留していた実妹(吉田内蔵次伯母)を手討にした
    6、兵内(次左衛門)
    7、清兵衛   御番方・遠藤関内組 百五十石
    8、五郎八(清蔵)  木下伊織組御番方一番 百五十石

16、天明七年三月四日 右田蓮水手討
  天明七年三月長岡岩之助組右田源次郎ゟ相達候書付
       口上之覚
    私隠居右田蓮水召仕申候下女重々不届之儀御座候ニ付擲打仕候処手迎仕候ニ付女之儀とハ乍申
    不得止事右蓮水儀下女を昨晩刺害仕候 此段御達仕候 以上
       三月四日       右田源太郎
      加々美為之允殿
      萩 吉九郎殿

17、天明七年五月廿八日 鎌田小平太討果(のち切腹)
  同年六月松野亀右衛門組
        覚
    鎌田小平太儀去付廿八日西郡治次弟西郡十平次江意趣御座候ニ付十平次在宅江罷越意趣次第
    申聞打果申候 其節妨ニ相成候間十平次忰西郡逸次并妻共ニ討果申候 右之趣一類中江申聞
    今日昼時分切腹仕候 此段私ゟ御達仕候 以上
        六月朔日      秋山孫太郎
      猿木勘左衛門殿
      成田源右衛門殿

■ 鎌田 収  (南東18-11)
     吉助
    1、杢之助  (1)御詰衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附) 
          (2)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
          (3)有吉頼母丞組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・木工介
    2、半右衛門・正玄(初・正乗)
    3、半兵衛・正幸(初・杢之允) 
          (1)御詰衆・十一番西山八郎右衛門組二百五十石 半兵衛ニ成・鎌田半兵衛
                                                (御侍帳・元禄五年比カ)
          (2)二百五十石 御留守居組組脇御番方一番 屋敷・古京町
          (3)百石
       鎌田半兵衛 名は正幸、半兵衛と称す。食禄二百五十石、槍術の妙を得、新組、小姓役等を勤め、
             又藩公に槍術指南を為す。後罰せられて禄を削られ百石となる。
             明和三年十月十二日没す。享年七十一。墓は阿弥陀寺。

    4、杢之助
    5、小平太
    6、牛兵衛
    7、坦七
    8、太郎助(杢之助)  組附御中小姓・横山藤左衛門組 五人扶持
    9、貞之允(半右衛門・収)

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■我が家検索リスト、再・「山崎」-1

2024-02-16 07:17:13 | 地図散歩

 2023年の2月1日に■城下町図掲載のリクエストを書き、11月15日には■城下町図掲載のリクエスト・・その後を書いていながら、
その後すっかりご無沙汰していて、「これはいかん」と遅まきながら再開しようと思う。
まずは、「28、山崎之絵図」から取り上げたい。2012年に「我が家検索リスト・2」としてご紹介した地区である。
今回から町の区画に番号をふり、その区画にあるお宅の名前をご紹介して判りやすいようにしてみたものの、スキャンの状態が悪く
名前の判読が難しいかもしれない。

 

①現在の市民会館あたり、坪井川の御幸橋(藩政時代の下馬橋)から、桜橋に至る間の区画である。
 天神が後につくられた桜橋際に存在するが、現在ではその位置は市民会館裏手に動いている。
   ・沢村宇右衛門尉、(熊本市民会館・山崎八幡ETC)
   ・八木慶閑、上田忠左衛門尉 (NTTビル)

②市民会館南の道路が坪井川沿いに走る東側の区画である。
   ・西村角左衛門尉、神西長右衛門尉、八木角左衛門尉

③同上東側の区画、西側はサクラマチクマモト・ビル
   ・(北側)細川刑部殿(長岡左京亮)下屋敷、奥山次郎右衛門尉、岡部庄之助、武村貞悦、山瀬検校
   ・(南側)野入角之進、大竹与三左衛門、堺野庄右衛門、鈴木伝兵衛、富田惣兵衛、松山次郎太夫(後家)

④花畑公園前NTTビルのある一画、西側はサクラマチクマモト・ビル
   ・(北側)黒田半之允、古市宗佐、落合勘兵衛  
   ・(南側)洞院弥三右衛門尉、的場勘平、平野茂兵衛

⑤サクラマチクマモト・ビル西側裏手
   ・長谷川弥兵衛、伊藤権之允、清田石見下屋敷(南側道向こう⑨に同下屋敷あり)

⑥サクラマチクマモト・ビル
   ・(北側)弓削五郎兵衛、道家弥次右衛門尉、不破五郎右衛門尉、川方益庵、清田左近右衛門尉
   ・(南側)村山傳左衛門尉、大塚左次右衛門尉、福田権兵衛、杉村喜左衛門尉、吉田加左衛門尉

⑦サクラマチクマモト・ビル
   ・(北側)遠藤玄旦、辛川忠助、熊谷左次右衛門尉、内海源之允、豊岡理助、荒木彦太夫
   ・(南側)岡田甚五左衛門尉、磯谷惣左衛門尉、井関与右衛門尉、原田新之丞

⑧花畑公園東の有料駐車場
   ・柏原新左衛門尉、同下屋敷、永井安太夫、田中左太夫、堀平助

⑨熊本市電北側・桜町南西角
   ・清田石見下屋敷(北側道向こう④に同下屋敷あり)、奥村安太夫、同下屋敷及び足屋敷、郡勘右衛門尉

⑩サクラマチクマモト・ビル南側、熊本市電北側
   ・(北側)桑木弥右衛門尉、宮部加右衛門尉、長谷川忠右衛門尉、原田十兵衛、安藤山三郎
   ・(南側)沢村武兵衛、武村治兵衛、井上武左衛門尉、野田小三郎、芦田次兵衛、岡山茂兵衛

⑪サクラマチクマモト・ビル南側、熊本市電北側
   ・(北側)新井十郎左衛門尉、木村九兵衛、清田角左衛門尉、牧八郎右衛門尉、荒瀬角兵衛
   ・(南側)岩崎孫之進、宮崎伝四郎、林勘左衛門尉、出田作庵、佐方傳左衛門尉、荒瀬市之允

⑫サクラマチ広場・熊本市電北側、同西側角
   ・竹田市太夫、上田久兵衛、神足少五郎、宇野弥次兵衛、西沢伝兵衛、伴左源太、浦田十右衛門

⑬熊本市電南側、船場橋寄り
   ・竹原少太夫、岡本市允、佐川義太夫、東條牛之助、長岡九郎兵衛下屋敷、岩佐新九郎

⑭熊本市電南側、西辛島町前
   ・(北側)内藤彦太夫、高本慶宅、白井次右衛門尉、木野左兵衛
   ・細川刑部少輔下屋敷
   ・(南側)前川彦左衛門尉、前川与三兵衛、水間十右衛門、津田茂左衛門

⑮練兵町(北面・西面熊本市電)
   ・(北側)里兵四郎、角田団四郎、小林吉兵衛、加藤新兵衛、高見権之助
   ・(南側)脇坂五郎右衛門尉、仲光右衛門尉、上村甚五左衛門尉、上野四郎太夫

⑯練兵町(肥後銀行)
   ・(北側)和気文左衛門尉、辛川文太夫、出田七太夫
   ・(南側)大塚甚右衛門尉、安場五太夫、本庄四郎兵衛

⑰船場町
   ・宇野孫右衛門、長岡左京亮下屋敷、細川刑部少輔下屋敷、矢野勘介、永坂三郎右衛門尉

⑱練兵町
   ・(北側)森五郎左衛門尉、末藤新右衛門、宇川伝左衛門尉、鯛瀬安兵衛、渡辺角兵衛、曽根八左衛門尉、三浦弥五左衛門尉
   ・(南側)牧野喜右衛門尉、宮川加兵衛、中路新右衛門尉、久野又右衛門尉、成田十左衛門尉

⑲練兵町
 (北側)津田茂左衛門、山田久丞、門川三丞、河方半四郎
 (南側)不破十丞、高見少五郎、門川新五左衛門尉、新井十郎左衛門尉

⑳練兵町(肥後銀行)
 ・(北側)花房吉右衛門尉、宮崎五郎兵衛、蒲田源左衛門尉、高島権兵衛
 ・(南側)平野清兵衛、道家角左衛門尉

㉑船場町‐上鍛冶屋町
 ・玄覚寺

㉒山崎町(慶徳小学校)
 ・星野左太夫、小林久左衛門、中山左次右衛門尉、太田小右衛門尉、古屋孫左衛門尉

㉓山崎町(RKK熊本放送周辺)
 ・(西側)細川刑部少輔下屋敷、岩田権右衛門、吉田快庵
 ・(北側)岩崎長兵衛、志方十兵衛、斎藤勘助下屋敷、道家玄徳
 ・(南側)可児兵三郎、栖本又七、斎藤勘助

㉔山崎町(日本銀行)
 ・清田主馬、蒲田源太夫 上村理右衛門尉、曽我三郎兵衛、牧貞右衛門尉

㉕山崎町‐通町
 ・出田作左衛門、同下屋敷、梅原兵三郎より上り

㉖紺屋今町(日本銀行南側)
 ・尾池伝右衛門


   

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■不夜城出現

2024-02-15 08:14:09 | 熊本

 誠にローカルな話で恐縮だが、我が家から直線距離で300メートルにも満たないところに、4,000㎡を超える24時間営業のスーパーストアなるものが昨日オープンした。
土地の造成から建築の一部始終を我が家から数か月眺めてきたが、オープンの運びになると周辺にある大型店舗に大いに影響が及ぶのだろうといらぬ心配をしたりもする。
屋上も含め350台ほどの駐車場が開店前からごった返している。周辺道路は大渋滞をきたしている。
そんな状況を眺めながら、あと2週間ほどで卒寿を迎える奥方は、わさもん振りを発揮して出かけて行った。
歩いて10分もかからないところにこういう施設ができると住環境としては誠にありがたく、すぐ横には12階建てのマンションが2棟建設中でもある。
熊本市の人口分布に於いても随分東区の比重が大きくなりつつある。

    

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■二代目さんご活躍

2024-02-15 07:24:43 | ご挨拶

 我が家の2代目さんが活躍したのは綱利公の時代である。参勤にも4~5度御供をしているし、代参を命じられたり中々頑張っている。
そんな中、綱利女・光姫の嫁入り道具調達に走り回った。
綱利夫人は家康の孫娘、つまり松平讃岐守頼重養女・久姫(実ハ水戸中納言頼房息女)だから、光姫は家康の曾孫として、その結婚は華やかなものであったろう。
お相手は徳川家臣としては筆頭格ともいえる家柄の「左衛門尉酒井家」(荘内藩主)6代目の酒井忠眞である。

我家の先祖附には「元禄二年巳二月十五日より光姫様御祝言ニ付而 京都江戸ニ而致出来候 御道具支配人被仰付江戸へ被残置候(以下略)」とある。
光姫は寛文八年(1668)戌申正月十九日江戸に生まれている。酒井忠眞に嫁いだが、元禄九年(1696)丙子十一月十六日に亡くなっている。
年二十九歳。僅か九年の結婚生活である。

 

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