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目覚めないには訳がある

2020年12月08日 | 読書
 矢口高雄のコミック『新・おらが村』全4巻を読んでいるときに、併行しながらこの新書を開いていた。コミックの描いた時期つまり平成初期からの30年を、この保守派の論客がどう批評するのか。そういう興味ともつながった。そして「平成」の評価はこの副題に表れている。「日本人はなぜ目覚めなかったのか


『平成批評』(福田和也  角川新書)


 問いとして立てられたこの一文に対する結び、つまりこの本の結論はどこなのか。読み進めながら考えることはその点だ。それは「おらが村」が依然として生まれ変われないことにも通ずるはずだ。幕末から明治維新にかけてこの国が対峙した「近代」と、生き延びるための「西欧化」が流れを作り出したのは自明だ。


 そのうえで著者が強調しているのは、「戦後の日本の価値観が『生命の尊重』にある」ことだ。何よりも先んずるのは「生命」であり、そう教えられ、そう生きて、そう教えてきた。ただ、一片の揺らぎなく思えるかと言えば、そうではない。「『生命の尊重』を超える価値観」の存在は、絶えずちらつき、まとわりつく。


 その存在が国家や政治に結びつくことを怖れるし、詭弁として使われやすい点も承知している。著者が「共同体」としての未来を志向していると書きつつ、結局国家としての「日本」に収斂していく傾向で結ぶこともすとんと落ちない。ただ「教育」のあり方に大きな問題があり、根本には常にその問題ありと認める。


 「目覚めない」つまり今の、芯がない社会状況が出来上がった要因は次の文章が物語る。「大きな価値観を親が信じていて、その価値と拮抗する形で、子供をかけがえなく思うからこそ、子供は自分の価値を感じることができた、信じることができた」。これは「命より大事なもの」を見せた、語った大人にしかできない。


 政治や教育だけでなく文学、芸能などに触れながら(だから、読み物としては面白かった)「日本を自分の好きな国にする」ことを結びとしている。しかし、目覚めを促すにはさらに難しい時代だ。価値観の多様化だけが叫ばれ、個々の質には触れず、ディスタンスを保っていればできるのか。さあ、どう目覚めるか。