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負荷のさじ加減に到る

2020年12月15日 | 読書
 二十四節気の「大雪」から一週間ずれた、本物の大雪がやってきた。昨冬があまりに降らなかったため、多くの人は「今年はそうなるまい」と怖れの感情を抱く。そうそううまくは続かないと思ってしまう日本人の心性を改めて確認したりする。初の除雪作業に身体が慣れず、相応の衰えも感じながら考えていたこと。


 「カミュ論」という内田樹の雑誌連載を読んでいたら(カミュについては全く無知識だが)、目を惹かれた箇所があった。この連載は「日本人はどうしてアルベール・カミュが好きなんだろう」というテーマで続けられている。そのことについて、今回はこんなふうに書く。「『どっちつかずであること』への知的誠実さ


 そして、それを日本語としては馴染みの深い「さじ加減」「按配」という言葉をもち出して説明している。このあたりの展開の妙が、書かれてある内容に疎くてもつい文章を読んでしまうことに通ずるのだろう。そこでは幕末の藩主前田斉泰なる人物の書いた能楽書の中味と結びつけ、「適度」ということについて論じる。

「あらゆる人間の営みにはその分限ということがあり、適度ということがある。その規矩を踏み外すことなく、『いい加減』のところにおのが身を持していれば、人は『天理』に従って、健康に、その分を全うすることができる」


 なるほど、なるほど。それが「」というものだ。と高齢者間近の自分も想う。「度をこす」「度をうしなう」ことへの留意こそ、これからの生きる知恵、コツと言ってよいか。しかし、と思う。「度」とは単純に加齢によって下がる一方なんだろうなあ。仕事、遊び、飲酒等々、そのレベルは確実にダウンしているから。


 アンチエイジングという古びた流行語は「度」に抗することだ。その考えに全面的に賛成するわけではないが、「度」を知りほんのちょっと「度」を越すことでしか「度」は維持できないのではないか、という考えも浮かぶ。そういえば「度」には「人格の大きさ・器量」を指す意味もある。負荷のさじ加減こそ肝要だ。