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平場を掘れ、漂うな

2020年12月30日 | 読書
 去年の直木賞候補になったときだったか、この題名が少し気になっていた。「平場」という表現はあまり使わない。競馬では障害以外の一般レースを指したりするが、恋愛モノのようだから何の比喩かと頭の隅に残っていた。年末用読書の一冊にと思い、借りて読みだしたら、この「平場」は重なり合って、しかも重い。


『平場の月』(朝倉かすみ  光文社)

 この著者は初めて読む。感情や動作表現がずいぶんと冗長のように感じた。だからこそハマる人はハマるだろう。似た環境に居たり、同年代だったり、そして性格的に類似点があったりする者は痛いほど見えてくるのか。五十代の恋愛が特別なのかどうかわからないが、人に寄せる思いの機微を追求しまくっている。


 冗長とは、物語の表現に添って考えれば、つまり「正解に至るショートカットをしない」ということになる。人を思うことは、おそらく明日を前向きに想うことと、過去の時間の厚みに寄り添うことが表裏の関係にある。それは簡単ではない。挫けてしまう者が多いなか、誠実にそれに向き合おうとした二人の話だった。



 何処にも居る噂話の散らかし女が登場し、主人公がその知り合いの背中をこんな心で見送る場面があった。「平場中の平場」。そこには俯瞰的な見方があるわけで、脱却可能性も含まれるが、簡単に浮上することなど出来ないのが現実だ。「平場」にどう居るのか、結局それを問う話だ。とすれば「」はどこにあるのか。


 アパート角部屋から顔を出した彼女の顔と表情が「その夜の月に似ていた」と描かれる。それは彼女に贈った三日月のネックレスに重ねられ、死ぬ前に駐車場の「菜園」に埋められていた。主人公はそれを掘り出し、話は閉じられる。平場を掘れ、平場に漂うな、浮かんでいる月もあれば、深く埋められた月もある。