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仕組んでは育たない力

2022年07月12日 | 読書
 参議院選挙が終わった。各種報道が事前予想したとおりの結果になったし、自分でも「そうなるだろうな」と感じていたことと大差はなかった。秋田県は過去最低の投票率だった。それでいて期日前投票の割合が全国で最も高いというデータは、ちょっと考えればどういう傾向か理解できる。固定化された投票行動だ。


 それ自体を悪いと決めつけることはできないが、問題は根深いと思う。投票に行くと決めている人は、早々に自分が選んだ候補者に票を投じる。いわゆる選挙運動(事前はともかく)には左右されない。立候補した時点いや選挙の構図(支持政党や自らとの関わりの深さで見えてくる)が決まった段階で、ほぼ終わる。


 2018年7月北海道④「帯広の丘の石」

 これだけ投票率が下がってくると「選挙権の行使」にばかり目がいく。確かにその通りとはいえ、それは政治に関する当事者意識と重なってこそ、実となる。ある冊子に「主権者教育はなぜ必要か」という論考が載っていた。2016年参院選で、山形県の18歳高校生の投票率が驚異的だったことを動向として挙げた。


 それは明らかに「教育」がなされた結果とも言える。しかし、全国的にも18歳で50%以上あった投票率は、翌年には30%台に落ち込んでいる。結局のところ、投票率を上げようとする狭義の主権者教育の限界がみえる。そこで唐突に頭をよぎったのが、小・中学校における「特別活動」の様々な思い出だった。


 教諭として初任の学校で「学級会」に取り組んだことは以前書いている。その基盤は結構大きかった。いわば「自主・自立」をどう育むか、ずっと頭の隅にあった。担任時代が短いので豊富な例とは言えないが、学級会であれば「誰にも役割を経験させる」、何より「自分たちで決めさせる場の設定」がポイントだ。


 ところが振り返ると時代はそう進まない。印象的な出来事がある。それは大勢の参観者のいる研究大会。その学級では子どもたちの意見が事前に短冊に書かれ提示された。そこまではいいが「それ以外の意見」も「部分変更」も「折衷案」も出てこない。何故か。仕組まれている流れが強く早く、声が飲み込まれるからだ。


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