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100冊目が問いかける

2024年12月26日 | 読書
 Re100『〈ひと〉の現象学』(鷲田清一 筑摩書房)。予想はある程度していたけど、難しい本を手にしてしまった。風呂場で読んだ(そんな類の本ではないが)けれど、何日ぐらいかかったのか。ざっと半月以上は確かだろう。正直に言えば、理解度1割ちょっとか。しかし、それだけでありながら印象深い記述は多い。




 第一章の「顔 存在の先触れ」は特にうぅむと唸ることが多かった。私たちは日常、他者の顔を真正面から凝視できないことに初めて気がついたように思う。「いわば盗み見するというかたちでしか、じっと見つめることができない」という事象は何を意味するのか。一体、何のために顔を見るのかという問いが始まる。


 そこで第二章「こころ しるしの交換」に移ると面白い一節に合う。筆者はある小学校の出前授業で、子どもたちに心の存在を問うてから、こんなふうに誘いかける…「心は見える」よ。悲しみや怒りを他者の姿に見ようとする経験は「心にふれる」ことに他ならないという。それは「ふるまい」として可視化される。


 文楽や歌舞伎の動作や所作が「振り」+「舞い」によって「しるし」となっていることには納得した。突き詰めれば、魂と身体の関係とは、内部と外部、動かす主体と客体であるという常識的な考えを、疑ってみねばならない。私には自分の「こころ」は見えないように、「顔」もまた見ることができないではないか。


 多くの言葉に関して刺激を受けた。例えば「自由」。かつて憧れたその語は今、魅力的な響きを失ったが、結局「じぶんがじぶん自身をじぶんのものとして『所有』している」かという点が問われているのだ。とすれば意のままにできる「自由」の範囲を、まず近い所から取り戻さねばならない。さてそれは、顔かこころか。


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