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幾たびも、残酷人生論

2019年04月07日 | 読書
 だいぶヨレヨレになってきた。風呂場読書も多いので仕方あるまい。そのカバーに印刷してあるキャッチフレーズは、こう始まっている。「あなたは まだ知らないのか? 2010年代を生き抜くヒント。」…知らないから、何度も読んでいる。昨年はなんと読了1だった。「わからない」まま、10年代最後の年となった。


2019読了35
 『残酷人生論』(池田晶子  毎日新聞社)



 それでも今回は、今さらながらにストンと落ちたことが二つはある。一つは「情報は知識ではない」こと。根本的な違いは「外から与えられる」か「自ら考えて知る」にある。情報化社会と言われ久しいが、知的な生き方を求めるならば、気づくはずである。いくら情報を持っていても、人間性は変わりようがないことを。


 「考える」…そのことだけが、流通する情報を内部化し、知識を普遍的なものとして捉えられる。情報とは「生活と生存のため」にあり、最終的に損得で選ばれる。しかし、知識とは「知ること自体が価値である」。時々、価値ある情報などと言ってしまう時があるが、それは損得のことであり人生の価値とは言えない


 もう一つ。愛憎という熟語に示されるように、「愛」の反対は憎しみという説もあるが、本質的には「無視」であろう。その点が明確になったと思う。それは何故「わからない」のに、この本を読み続けようとしているから考えたからだ。つまり「わかりたい」「わかろう」としている。これは別の言葉にすれば「」だ。


 第一章の見出しは「『わかる』力は、愛である」。何度目かで今気づく。人に対する接し方一つとっても、関わろうとするか無視するか、方向性の違いが全てを決める。「わからないものをわかろう。自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である」。愛を発揮する場は、日常にある。