すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

CoolJapan、最高の舞台は

2019年04月20日 | 雑記帳
 Cool JapanというBS1の番組が結構面白い。「発掘かっこいい日本」という副題に込められたcoolの意味はだいぶ認識されつつあるのではないか。3月下旬に放送した「手紙」の回が印象に残る。手紙文化とも言うべき、外国人から見て特徴的な習慣や新しい動きが紹介されていた。どうやら明日再放送されるらしい。


 ネタバレになるが、その番組で取り上げられた三つのうちベストとされたのが、「漂流郵便局」という香川県の栗島にある施設。届かない手紙を受けとる郵便局だ。つまり、亡くなった家族や親しい人へ、また時には見知らぬ偉人、そして人だけではなく動物や、はてには「モノ」に対して宛てられた手紙もあるという。


 スタジオに並んだ外国人たちの大半には、なかなか納得しがたいことだ。特にモノへの手紙には、やはり「万物に神が宿る」と考える日本人の精神が根づいているからだろう。観ていて迷いなく納得してしまうので典型的な日本人だと苦笑した。これはその後、今月放送された400回記念の高校生特集でも強く感じた。


 外国人留学生十数人がスタジオに招かれていた。何故、留学先に日本を選んだかをキャスターが訊くと、きっかけは日本文化、もっと具体的には「アニメ」が多かったようだ。ロケに応じた女子留学生が高校生活のなかで「超クール」と評した日本らしさが、ずいぶんユニークだった。朝の誰もいない教室風景なのだ。


 それは机と椅子が整然と並ぶだけの、私達にとってありふれた景色。しかし彼女は、アニメに頻出するシーンと心に留めていて、その「本物」に感動する。黒板を正面に机と椅子が前向きに配された空間に、日本人が抱いている思いとは何か。多くの者が共通感を持てる舞台的な役割なのか。誰しもが主人公だった頃。

楽園を目指す布石の結果は…

2019年04月19日 | 読書
 吉田修一の文章の持つ独特の雰囲気は、例えば臭いのきついチーズのような感じだろうか。『悪人』『さよなら渓谷』『怒り』といった有名な小説にもそういった箇所はあった。リアルな情景描写、それは人間の汚れとか醜さを象徴することが多く、顔をしかめる場合さえある。そう言いつつ、その世界にハマっていく。


2019読了37
 『犯罪小説集』(吉田修一 角川文庫)



 5編の短編集。幼女誘拐、山村の連続殺人、青年社長やプロ野球選手の破滅など、実際の事件がモデルになっている話もあるようだ。人間の「性」を描く作家の筆がシャープで、立ち止まることなくその世界に入り込むことが出来た。当然ながら、犯罪や事件には背景があり、何か「布石」になるものが必ず存在する。


 作家は、犯罪が起こることを前提に書き進めるだろうが、不幸を引き寄せていく過程をBGMが鳴るような感じで描く手練れ感がある。まるでワイドショーのようにあの時こうだったらどうなっていたかと、その石の置き方を考えざるを得ない。当然、映像的でもある。映画化も決まって『楽園』と名づけられたと言う。


 あとがきをその映画監督が書いていて、題名について触れている。直接的な言い方をすれば、犯罪者の多くが求めるのは「楽園」なのだろう。その意味では誰であれその要素があるわけで、犯罪という非日常は、日常の布石の結果において姿を現わすと言ってよい。どんな楽園を目指して石を打っていくかが全てである。


 自分の内にある欲や外部が仕掛ける罠に気づくことが肝心か。さて、この小説集に気に入った独白と台詞があった。この二つが映画でも使われたら嬉しい。「(進路相談を気にしない男子高校生)こういう男の子の無防備さを『生命力』と呼ぶ」「遊んでから我慢する人じゃなくて、我慢してから遊ぶ人になりなさいよ

今、素振りで鍛えるべきは…

2019年04月18日 | 雑記帳
 社会学者大沢真幸が寄稿した火曜朝刊「論考2019」に考えさせられた。『「開かれた社会」への教訓』というその文章には、イチローが「打つ時とは異なるフォーム、ゴルフのスイングのようなフォームで素振りをする」ことが取り上げられている。その理由をイチローは「胸を投手に見せない意識の確認」と語った。


 その事によって、投手のボールが予想外の球種やコースであった場合に対応できる可能性の幅を広げている。イチローは打席に立ちスイングを始めてしまった後でさえバットの軌道修正をしてボールをとらえヒットへ結びつける。そのためにあの素振りがあることを知り、今の問題意識と重なるような気にさせられた。


 過日から書いている「備え」が思い浮かぶ。何事かに備えることは、具体的であるほど価値が高いとされるのが普通だ。例えば、災害時の備蓄物資などが典型的だ。しかしまた別の観点からみると、その備蓄した物資さえ頼られない状況も多いことは確かである。その時の拠り所は何か、培わねばならない力がある。


 グローバル化といい情報化といい、教育分野では様々に対応する動きが目立つ。それは英語であり、プログラミングであったりする。キャリア教育も一つの典型だろう。もちろん校種の違いによって段階はあるが「対策」だけに力点が注がれている気もする。もっと本質を捉えた「素振りの仕方」を考えてもよくないか。


 大沢は、悪球さえ打ち返すイチローの打撃を「想定を超えるどんな他者にも応じ、彼らを歓迎しようという態度の表現」と、社会的・政治的な教訓を見出している。我々が暗黙のうちに想定している無害で行儀のよい他者ばかりでは社会は築けない。今、素振りで鍛えるべきは、混乱や葛藤を乗り切る力なのだと思う。

貴方の「喉」には何がある

2019年04月15日 | 雑記帳
 ある会合に出て雑談している時に、ふと「喉小言」という言葉を使われた方がいた。久しぶりに聞いたなあ。でも、そんなに小さい時から聞いていた覚えもない。おそらく成人してから耳にしている。ただそれが、なんとなくぶつぶつと小言を言っている様子をうまく表していると、印象深く覚えていたのだろう。


 また調べ魔と化して、国語辞典やら方言関係を引っ張り出してみた。しかしどこにも見つからなかった。ネット検索してみると、ブログタイトルとしてその語を使っている方がいた。内容は詩、ニュアンスとしては独り言に近い使い方なのか。「小言」の類語を見ていたら「口小言」はある。これは見出しとして一般的だ。


 口と喉、その二つを比べてみると、あきらかに口が前面にあるので、やかましく言う感じがする。喉だとすれば、それよりもやや聞こえない感じか。もともと「のど」は「飲(の)み門(と)」から変化した語だとされている。不平や文句があっても飲みこんでおこうという意識が働いているようなニュアンスが感じられる。


 表面化させないほうが、我が身の為か相手や周囲を慮ってかは場合によるが、東北人特に秋田人は顕著な気がする。そういうあまり表に出ない小言の中味は、やはり「本音」であって、それを溜め込むのは健康上もよくない。だからか、齢を重ねると喉にタンが絡まるようになるのは(笑)…と、発見したような気分になる。


 「のど」という語は「大切な所、急所」も表している。肉体的にはもちろん、精神的な意味合いもある。「のどの下へ入る」という慣用句があり、「うまく取り入る」という意味だそうだ。「のどから手が出る」は欲しくてたまらない喩えである。つまり、のどは重要なポイント。その喉を小言だけで溢れさせても困る。

枯れかかった者のそら

2019年04月14日 | 雑記帳
 忙しいことが舞い込んだときや突然の出来事に面食らったときなど、例えば「食ったそら にゃ(ない)」「休んだそら にゃ」と使うことがある。

 この「そら」が気になった。
 「食べた気がしない」「休んだ気がしない」という意味で、この頃はあまり言わなくなったようなので、方言だろうなと思って『秋田のことば』を調べたら、見出しにはなかった。念のため、他の関係冊子もめくったがない。

 あれっ方言じゃないかと、電子辞書を開く。

 「空」…広辞苑には「①地上に広がる空間②空模様③落ち着く所のない不安定な状況④放心⑤根拠のないこと⑥無益なこと⑦暗記⑧てっぺん」と載っているが、ぴたりと当てはまらない。
 しいて言うなら③④⑥あたりと関連するか。

 明鏡国語辞典も同じだろうと移ってみたら、なんと「④心の状態。気持ち」とダイレクトにあるではないか。例として挙げられているのが「うわのそら」「生きたそらもない」。実際あまり使わないが、語彙として知っている。


 念のため日本語大辞典を見てみると、さらに詳しい。
 大項目二として「比喩的に、精神状態などについて用いる」とあり、その④として「心。気持」と明示されている。その説明が、いかにも辞典らしい。

 「下に否定の表現を伴う不安な心境やうつろな心を表す。または、その行為や方角・場所などにむかう漠然とした意志などさす。

 成長著しく目の前のモノゴトに興味いっぱい、手あたり次第に散らかして歩く孫を相手にすると、親や祖母は日常のなかで「食ったそら」「休んだそら」が無くなるのは当たり前だろう。
 ある意味では「漠然とした意志」で食事や休息、睡眠に入っていくかもしれない。
 それでも、「不安な心境やうつろな心」にはならないようだ。

 それは、小さい子が育つさまは、まさに生きることそのものであり、眩しく感じられる時があるからだ。その現場に共に在ることの幸せを思う。

 枯れかかった者の「そら」など、見上げた空へくれてやる。

絶対温度、堪能したい

2019年04月13日 | 読書
 料理に関する物語やドキュメントは昔から好きだった。TVバラエティはさすがに食傷気味だが、それでも関心は残っている。当然食い気があるからだが、それ以上に技術・精神性が表現されやすい、わかりやすいからだろう。ただ凡人には想像し難い世界があることは承知だ。この一冊にもそういう印象を抱いた。


2019読了36
 『天才シェフの絶対温度』(石川拓治  幻冬舎文庫)



 大阪、レストラン「HAJIME」。ミシュランガイドの三ツ星シェフ米田肇の物語である。「絶対温度」という文庫版題名は、第一章の見出し「できれば、ドアの取っ手の温度も調節したい」によく表れている。料理とその場に対してこれほどの情熱を傾ける人間が、日本にいると知っただけでも価値があると思わせられた。


 大学を出て一旦就職し、そのうえで思いが固まった段階で職を辞め、料理の道を目指した米田。料理学校の授業後は、必ず講師へ質問を浴びせかけるようになった。この言葉が彼を象徴していると言える。「先生はこの野菜を1センチ角に切りなさいとおっしゃったけど、なぜ1センチ1ミリ角ではいけないのですか?


 一生懸命さはもちろんだが、異常なほどの頑なさも読み取れる。しかしそれだからこそ、国内での辛い修業、フランスへ渡ってからの労働許可問題など、まさに悪戦苦闘としか呼べない事態を切り抜けられた。最終的に、その人格を作った父母の偉さをしみじみと感じた。従って「教育書」としても十分に刺激的な本だ。


 著者の書くノンフィクションは、徹底的に人物に寄り添い、情景を見事に描くので惹きつけられる。久しぶりに、風呂場読書から離れて一気読みした。それにしても一度は味わいたい「人を感動させる料理」。有名な料理人の味を少しは堪能した経験もあるが、HAJIMEはさすがにハードルが高い。最低7万という。遠い。

ワースト県としての決意を

2019年04月12日 | 雑記帳
 わかってはいても、朝刊一面にでかでかとあればやはり心が騒めく。「子どもの生まれやすさ『次世代再生力』全国43位」そして「0~4歳35年後の地元定着『親世代定着』ワースト」。つまり再三にわたって指摘されている、我が秋田県の少子化の進行、人口定着の悪さが他県と比して深刻さを増しているという報道だ。


 ちょうど昨夜夫婦二人の食卓の話題が、周辺地域の行く末であった。頻繁ではないが、孫の世話をしていて時々ふっと不安になることは仕方あるまい。今の流れなら誰しも想像はつくが、具体的な数字を目にするとふとため息が出る。そしてどうしてそうなったかも理解している人は多い。理解しているが手を打たない


 「打てない」のではなく「打たない」。それは政治家や官庁だけを非難しているのではなく我ら住民にも当てはまる。当然「打つ必要なし」の考えの方もいるはずだ。ただ多くの人は沈滞していく現状をこのままでいいと思っていないだろう。それが本心なら、自分も含め60代以下ならば手を打つ決意を持ちたい。


 関連として、この人口動態指標の協力者藻谷浩介氏のインタビューが載っていた。「『古里を捨てる教育』になっていないだろうか」という指摘は実に重い。そこで返ってくる言い訳は「そう言っても働き口がない」という常套句だ。いつもそれで口を噤む議論は無意味だ。教育は価値観を育む大事な営みであるだろう。


 藻谷氏は、島根県の例を紹介しながら地元優先の島根の価値観」について触れる。そして同じ高齢化先進県である本県であっても取り組むべきことがあると示唆する。「県民性のせいにするのはやめた方がいい」は心して読みたい一節だ。しかし「ええふりこぎ」の習慣が多分に影響して、古里を捨てさせていないか。

ガラパゴス、突き詰めてみたら

2019年04月11日 | 読書
 朝刊の「時評」(佐藤隆三ニューヨーク大名誉教授)は「平成時代の失敗から学ぶもの」と題されて、日本経済の没落とその理由が記されていた。通信技術、サービス分野に後れをとってしまったことが要因だが、その点が及ぼす影響はきっと広範囲に渡るだろうなと思いつつ、先日観たドキュメンタリーを思い出した。


 インド工科大学の就職面接会の3日間を追うという内容だった。「世界最高の頭脳」があると形容されていることは知っていたが、改めて人材を求めて世界中の一流企業が殺到する様に、いろいろなことを考えさせられた。日本企業も当然必死に参加していたが…。ITで活躍できる人材レベルや教育のあり方を想った。


 「超売り手市場」なので、面接会への企業参加はランク付けされている。初日にマイクロソフトやグーグルと並んで参加できたのは、日本ではメルカリ1社だけという現実に驚かされた。その後に有名企業が続く。そこで獲れなければ、徐々に人材ランクが下がり、最終的には国内市場へ行くのか…と思うとやや寂しい。


 さて、学生の大学に入るまでの苦労が並大抵でないことも窺い知れる内容だった。日本企業へ決まった一人が、故郷へ帰り歓待され出身校の生徒の前でスピーチする様子など、相当な昔に我が国でも「末は博士か大臣か」と言われていた時代と似ているのかもしれない。貧しく苦しい境遇からの這い上がる気力が違う。


 そこには自らの利益だけでなく、まだ発展途上の家族や地域へ尽くそうとする精神が宿っている。対象が見えやすいし、方向も明確だ。それに比して昭和後半から平成にかけての日本は、向かうべき道が枝分かれし、しかも霞んでいる有様だ。もはや「ガラパゴス」を突き詰めてみるしかないか、と居直ったらどうか。

下ごしらえの発想

2019年04月10日 | 雑記帳
 発酵学者の小泉武夫がある冊子に「人生、生涯下ごしらえ」というエッセイを寄せていた。歳末の新幹線車中で子供たちが騒然としていて、ほとんどの親が叱らないというよく耳にする話題から、著名な料理人から「下ごしらえ」の大事さを聞いたエピソードを交え、「小さい時の下ごしらえ」の大切さを述べていた。


 「下ごしらえ」とは「前もって準備しておく」こと、つまり料理などでは「本格的に作る前にあらかじめ材料に手を加えておくこと」を指す。それを子どもの成長、生き方に重ね合わせて、「社会に生きるための基本」を身につけさせたいと考えるのは真っ当であるし、多くの人は賛同するだろう。しかし現実はどうか。


 料理人のエピソードは「下ごしらえの場」について、次のような内容を持つ。一つは言うまでもなく「場数」である。もちろん単に経験を指すわけでない。芋の皮むきも魚の鱗落としも「心を込めて何年もやらなければ駄目」なのである。この場数が、家庭において学校において保障されているか、甚だ疑問である。


 もう一つ、下ごしらえの基本として「無駄をださないこと」が挙げられている。様々なとらえ方があるだろうが、連想するのは、やはり物質的な豊かさが変えた生活の質が及ぼす影響だろう。しかし、これはある程度工夫すれば、というより、大人の精神の在り方がそのまま子どもに伝わり身につくことだ。自らを想え。


 「下ごしらえ」の発想は、先日書いた「備え」と似ているが、より明確に目標や出来上がりの姿がイメージされている。それは職業的なことではなく人間としての生き方を指している。まず、親や大人がその点を語っているかも大切だ。押しつけと言われることに尻込みばかりしていると、肝心の素材が腐ってしまう。 

蓋をしないで、迎えようぜ

2019年04月09日 | 雑記帳
 外務省の「元号不使用」に官邸が不快感というニュースを見たとき、なんとなくやはりネという気持ちが湧いた。そして日曜の朝刊に「西暦使用し裁判官任官かなわず」という記事を読むときに、どうにもこの国の歪さを感じてしまう。法そのものより優先されるのは慣行、もっと言えばムード、空気に支配される国だ。


 元号という国古来の文化に個人的には愛着もあるし使い分けできればいいと考える。しかし個別に様々な考えがあるし、公共秩序に反しない限り、その思想・信条を守ることは大前提だ。東京オリンピック開催しかり、改元問題しかり、イケイケドンドンの中に、潜んでいる問題点にフタしておこうという傾向が見える。


 同じ日曜朝刊の「こども新聞」Q&Aコーナーに「『改元』って何?」と取り上げられ、こう答がある。「元号とは、古代中国で生まれた年数の数え方です。皇帝が時間を支配するという考え方に基づいて使われました」。そもそもこういう背景を持つ元号を認めたくない人がいて当然で、何故その現実と折り合わないのか。


 独自な意見を持つ者は「固執し従わない」という決めつけがあるのかもしれない。国際的な場では通用しない元号であっても、使用しないことを不遜と捉えているのかもしれない。そこには、いくら人権がどうの、グローバルがどうのと言っても、結局は多数に倣え、上に従えという旧態依然の思考がくすぶっている。


 そんなふうに考えると、せっかくきれいなイメージに思えた「令和」も濁ったように見えてくる。「平成」を振り返る報道、メディアによる特集等が続いている。懐かしさに浸ってもいい、もちろん無視してもいい。それが「民度」の高さと言えないか。様々な声に蓋をしないで落ち着いて考え、来るラインを待ちたい。