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桜と絵本と豆乳と

単純に測れない姿を見よ

2022年06月15日 | 教育ノート
 昨日の朝刊文化欄に久しぶりにK先生の文章が載った。数年前にかつて勤務した学校の職員等による集まりがあってお会いした折は、多少足腰が弱っていたように見えたが、相変わらずにこやかにお話をされていた。今回のエッセイも非常に淡々としてはいるが、先生独特の観察眼を駆使され達意の文章になっている。


 プール清掃の季節…2009.6.16という日付がある

 K先生とは何度も作文の審査をご一緒させていただいた。印象深いのは、競技スポーツと作文審査の違いを語られたときのことだ。今、図書館ブログで続けている町文集作品紹介をしており、当時発刊代表だった先生の巻頭言も読み直す機会があり、懐かしく思い出した。同時にずいぶんと時代が流れたと改めて思う。


 先生は陸上競技の走り幅跳びの順位ならば、距離の測定は専門家でなくともできると書いたうえで、「子どもの詩や作文の審査となるとそうはいきません」と続ける。そして一篇だけ選ぶ「せり合い」になると、そこには選者の好みとともに「しっかり見分ける力量」が必要である旨を強調する。その「基準」は何か。


 公的な到達目標がありそれによって判断するのは表向きで、本当のところは「抽象的な枠の中におさまらないのが、子どもの作品なのです」と書き、結論として「子ども(作者)の姿がみえてくる作品」「その姿(よろこび、かなしみ、考えていること…))がよくわかるように表現されているかどうか」と作文の本質に迫った。


 もちろん、今も授業の中で「書く活動」は重視されているだろう。しかしいわゆる「生活作文」や「日記」のような文章を書かせる機会は激減していると予想される。文集作成の頻度は明らかに減っている。「自分のことば」をじっくりと文字表現させる場の衰退は、「単純に測ることのできる世界」の増殖を強化する。