すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

一秒の価値を五十年先へ

2022年07月08日 | 読書
 ここ数日併行して読んでいたのが、次の新書2冊。一つは養老氏と4人の識者との対談集。もう一つは成毛氏のいわば「人生の整理術」。読者対象は前者が幅広い年代、後者は主としてビジネスマンから定年前の方々と言えるだろう。読了してから、ある意味で非常に対照的ではあるけれど共通項も見いだせると思った。


『子どもが心配』(養老孟司  PHP新書)

『一秒で捨てろ!』(成毛 眞 PHPビジネス新書)



 2018年7月 北海道②「摩周湖を覗く」

 養老氏の対談は副題として「人として大事な三つの力」と記されている。編集サイドのまとめらしいが、著者も前書きで触れている。曰く「(学びのための根本的な能力)認知機能」「共感する力」「自分の頭で考える人になる」こと。目新しい提言ではないが、一流の方々とのやりとりは実に豊かな対話となっている。


 成毛氏の著書は、いつものごとく刺激的で、少し扇情的でもある。書名もそうだし、「あなたが大切にしているものは“ゴミ”」と題した前書きからも想像できるだろう。「捨てる」ための論理と判断が、これでもかというほど連打される。ビジネスに留まらず、自己資源を集中させた生き方そのものを問う内容と言えよう。


 なぜ対照的に思えたかと言えば、それは前者が非常に長いスパンで考えるべき「研究」「科学」「教育」といったことを扱っているし、後者は「一秒」に象徴される即断即決的な行動法を提示しているからだ。しかし、二つを俯瞰するとある軸が見えてくる。「本当に大切なものは何か」という思考からぶれないことだ。


 世間の目、他者との比較に心を奪われていては、真の意味での「整理」「断捨離」はできない。子育て、教育の本質も全く同じである。政治の動き、評判を気にすれば、目の前にいる子どもは蔑ろに振り回されるばかりだ。対談集で取り上げられた「自由学園」の営みは、教育に携わる者として本当に素敵だと感じた。


 なぜ「五十年」と題づけたかと言うと、養老氏が常々語る次の言葉があるから。今こそ、これを噛みしめてみたい。

「参議院は五十年より手前のことは考えない議会にしろ」

我も少数意見者

2022年07月07日 | 雑記帳

 TVでアナウンサーが口にしていたので、興味が湧き「NHK参議院選挙2022ボートマッチ」というサイトに入ってみた。聞いていた通りに「すべての候補者を対象に政策について実施したアンケート」と同じ質問項目に答えていくと、「候補者との考え方の一致度を数値で知る」ことができるという仕組みのようだ。


 さっそく入り「全て」(設問数は25)に答えてみた。5択から7択が多い。正直分からないものもあるが「回答しない」も設けられているので、それほど時間はかからなかった。結果、選挙区で一番一致度が高かった候補者とは48%となり、やはりというか投票をしようと考えていた人だった。他は20%台以下に留まった。


 全国区はというと、これが政党別になっているが、どれも一致度は低く、候補者別に照らし合わせても、30%を超える候補者がいない。そんなものなのかしらん。自分の考えが散漫だからと捉えるべきか、はたまた日本の政治家がなっていない(笑)だけか。投票を棄権しないが、この程度の一致率では気が引けるなあ。


 2018北海道①「廃線跡地で」(4年前の7月上旬は車でずっと北海道を廻っていた)

 さて、現職大臣が応援演説で「野党の人からくる話はわれわれ政府は何一つ聞かない」と発したことがニュースになった。弁明も聞いたが、大方の人は「口をすべらせた」「本音だろう」と考えている。そして与党トップが言い続けた「しっかり聞く」「丁寧に説明する」も表裏一体の甘言であることをまた確認してしまう。


 ある書評にあった「有権者の政治責任」という語。選挙があり、その結果実施された政策は有権者に及ぶから、「自業自得」という面があり、責任はそこで発生するか。しかし自業自得という言葉で少数派を苦しめたり、他者、他国へ影響を及ぼしたりするのは、民主主義ではない。少数意見を大事にと教えられてきた。

「もしかして」はきっかけワード

2022年07月05日 | 絵本
 先月から町内4つのこども園の読み聞かせをスタートさせた。選書をどうするかはいつも大きな課題だが、小学校と違って簡単につなげる大型TVがないので、やはり大型絵本が中心になる。ただ、冊数が限られていて、やはり通常サイズのしかも絵が大きい体裁の本を見つける必要がある。その最初の一冊がこれ。


『もしかして』(クリス・ホートン作  木坂涼 訳  BL出版) 

    


 赤、白を基調とした背景色なのですっきり見えるだろう。切り絵風にデフォルメされたサルは印象深い。物語の展開も繰り返しが用いられていて、調子もよく、これなら20人ぐらいまでなら大丈夫かと取り上げることにした。親や主人の言う事を守らない三匹の兄弟?サルという設定は、世界共通の古典的なものか。


 最初に「もしかして」と口を開いた者の思いが伝搬していく様子が楽しい。もしかして可能か、許されるか、大丈夫か…と自分たちの都合のいい方に思考が流れていき、そのあげく危機に見舞われるが、なんとかしのぎ、凝りもせずにまた同じような思考が頭をもたげてくる…歴史的にもよくあるパターンなのだろう。


 さて、読み聞かせで留意したい点を考えたとき…さほど難儀な箇所があるわけではない。しかしトラの登場は迫力が必要だし、一箇所絵本を持ち替える(縦にする)必要があるので、そこは大切だ。「もしかして」は日常語だが、想像力のもとになるきっかけのワードでもある。流行るくらいに(笑)印象づけられるか。

本を読んで手にしたものは…

2022年07月04日 | 読書
 久しぶりの藤原和博本だ。このブログでメモを残しているのは5年以上前。2003年に公立中学校校長になり次々に著書を出していた頃、ある程度読み込んだ。同齢であることも一つの刺激となり、「よのなか科」の実践はできなかったが「情報編集力」というキーワードには影響を受けた。それは今にも通じている。


『本を読む人だけが手にするもの』(藤原和博 日本実業出版社)



 「読書」をモチーフにした藤原流の思考法、処世術といった内容であり、特に目新しい提言が多いわけではない。ただ、冒頭にある「私は紙の本も立派なモバイル端末(持ち運びできるデバイス)だとも考えている」という一言は、著者の持つ柔軟性、吸収力そのものだと思われ、それが行為を価値づけると得心した。


 自らの読書遍歴を語った第3章が興味深い。「私は、本を読まない子どもだった。」と始まるこの章では、そのきっかけを「課題図書」だとし、そのせいで「10代から20代の読書習慣を失ったとさえ思う」と振り返っていることは、ややオーバーな表現とはいえ、その危険性は常に孕むと、関係者は気づかなければならない。


 「名作が読書嫌いを生む!?」という一面の真実は確かにある。今は多様な読書推進がなされているが、本離れの懸念は高まる一方だ。「面白い」「必要感のある」という根本的な視点を磨き上げたい。著者は大学時代にある先輩の書棚を見て衝撃を受け、仕事へのきっかけを掴み、現場に入って習慣をつけ、場を拡げた。


 実は私も似たような経験を持つ。冊数だけを言えばかなり近い。仕事関係の図書を貪るように読んだり、一人の作家を続けたり、アウトプットと連動させたり…。質は比べようもないが、読書によって関わりを拡げ、深めた体験は充実していたと振り返られる。もう一歩進めて、何かしらの形にする時期なのかと思う。

今「美」を掬い上げるなら

2022年07月03日 | 読書
 『新しい日本人論』(SB新書)は、加瀬英明、ケント・ギルバート、石平の三氏による鼎談であり、TVでよく見かける方々でもあるので、凡その主張は想像したとおりだ。一昨年2月の発刊であり、その後のコロナ禍やウクライナ問題による状況変化はあったにしろ、揺らがず持論展開をなさっているに違いないだろう。


 賛成できない主張も少なくないが、なるほどと教えられることもある。一つは「子どもを送り出すとき」の言葉が文化の象徴という点、日本なら「みんなと仲良く」だからだ。そしてもう一つは「日本人の判断基準」についての考えだ。師匠と仰ぐ野口芳宏先生の印象深い名言に次のことがあり、思い出してしまった。

 好きか嫌いかは自分が決める。
 良いか悪いかは社会が決める。
 正しいか正しくないかは歴史が決める。




 物事の判断を「自分・社会・歴史」というそれぞれの観点で踏まえることによって、善悪について深く考えさせてくれる。ところが、この鼎談集の中で石平氏は、西洋文明や中国文明は「悪魔と正義の戦い」をしているけれど、日本には「善悪を超えたものがある」とし、善悪を最初から設定しない基準があると語る。


 「美しさ。美しいかどうか、それが日本人の判断基準になります。」…ああ、と素直に同意する。日本人の好きな歴史的な逸話などを例にとれば、まさしくそうだ。正しいかどうかより、美しさや潔さの方に価値を認める。個人的な日常生活の中でも我々は随所にそう感じているだろうし、人の評価も同様と納得する。


 ただ、その国民性が利用されてきた歴史があると想うとき、「美」とは何か、という根本問題に立ち戻る。その定義の難しさも語られるし、論理や言葉で語りつくせない感覚だからこそ「美」なのだと…堂々巡りになる。今、自分が「美」を掬い上げるならば、それは培ってきたものの中にしかないと改めて内省してみる。