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今「美」を掬い上げるなら

2022年07月03日 | 読書
 『新しい日本人論』(SB新書)は、加瀬英明、ケント・ギルバート、石平の三氏による鼎談であり、TVでよく見かける方々でもあるので、凡その主張は想像したとおりだ。一昨年2月の発刊であり、その後のコロナ禍やウクライナ問題による状況変化はあったにしろ、揺らがず持論展開をなさっているに違いないだろう。


 賛成できない主張も少なくないが、なるほどと教えられることもある。一つは「子どもを送り出すとき」の言葉が文化の象徴という点、日本なら「みんなと仲良く」だからだ。そしてもう一つは「日本人の判断基準」についての考えだ。師匠と仰ぐ野口芳宏先生の印象深い名言に次のことがあり、思い出してしまった。

 好きか嫌いかは自分が決める。
 良いか悪いかは社会が決める。
 正しいか正しくないかは歴史が決める。




 物事の判断を「自分・社会・歴史」というそれぞれの観点で踏まえることによって、善悪について深く考えさせてくれる。ところが、この鼎談集の中で石平氏は、西洋文明や中国文明は「悪魔と正義の戦い」をしているけれど、日本には「善悪を超えたものがある」とし、善悪を最初から設定しない基準があると語る。


 「美しさ。美しいかどうか、それが日本人の判断基準になります。」…ああ、と素直に同意する。日本人の好きな歴史的な逸話などを例にとれば、まさしくそうだ。正しいかどうかより、美しさや潔さの方に価値を認める。個人的な日常生活の中でも我々は随所にそう感じているだろうし、人の評価も同様と納得する。


 ただ、その国民性が利用されてきた歴史があると想うとき、「美」とは何か、という根本問題に立ち戻る。その定義の難しさも語られるし、論理や言葉で語りつくせない感覚だからこそ「美」なのだと…堂々巡りになる。今、自分が「美」を掬い上げるならば、それは培ってきたものの中にしかないと改めて内省してみる。