「戦争と日本人 テロリズムの子どもたちへ」 加藤陽子/佐高信
加藤陽子さんと佐高信さんが、次のテーマで話し合う。
序章 世の中をどう見るか?―歴史に対する眼の動かし方
第1章 政治と正義―原敬と小沢一郎に見る「覚悟」
第2章 徴兵と「不幸の均霑」―「皆が等しく不幸な社会」とは
第3章 反戦・厭戦の系譜―熱狂を冷ます眼
第4章 草の根ファシズム―煽動され、動員される民衆
第5章 外交と国防の距離―平和と経済を両立させる道を探る
第6章 「うたの言葉」から読み解く歴史―詩歌とアナーキズムと
終章 国家と私―勁く柔軟な想像力と、深き懐疑を携えて
P75
加藤:昔は徴兵保険というのがあったようですね。生命保険会社、例えば富国生命というのは富国徴兵保険、大和生命は日本徴兵保険という会社だった。徴兵保険の会社だったんですよね。
佐高:そうです。日清、日露ぐらいまでは徴兵に伴う保険が成り立った。養老保険の一種のようなもので、子どもが小さいうちに加入しておくと、その子が徴兵のときに保険が給付される。しかし、国民総力戦になると民間の保険として成立しなくなって、あとは国家が遺族年金なり、恩給として補償する方向になりました。
P117
加藤:戦死した人の遺族年金を、お舅さんお姑さんが受け取るか、お嫁さんが受け取るかの、じつになまなましい紛議が、いたるところで見られたといいます。(3.11東日本大震災で、この問題は再び浮上した。即ち、夫が死んで家が損壊し、その交付金を嫁が受け取るか、義父が受け取るか…。→「女たちの避難所」垣谷美雨)
P119
佐高:戦死した、あるいは抑留されて帰ってこない、だったらこの際、弟の嫁さんになれというようなケースがけっこうあったといいますが、それは逆に言えば、息子の遺族年金をもらう嫁さんをよそに出さないという意味もあったわけですね。
「小倉庫次侍従長の日記」について
P200
昭和天皇は、1944年(昭和19)年くらいでしょうか、「自分が雑草の種などを集め、雑草を愛で育んでいるというようなことは、世の中から批判を受けないだろうか」と、二度くらい小倉に尋ねている場面が出てきます。
【ネット上の紹介】
少年たちが従軍した西南戦争、政治家・思想家を狙った「子ども」によるテロ、戦争と徴兵制、知られざる昭和天皇の姿、そして検察ファッショ、尖閣問題―。“国家と戦争”を軸に、気鋭の歴史研究者と練達のジャーナリストが歴史の重層的な見方を語り、時代に爪を立てる方法を伝授。柔軟な“非戦の思想”を日本人の経験にさぐる。