格差社会での自分の位置をぼーっと考えていた時、福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を思い出しました。戦後民主主義の「みんな平等」という教育を受けてきた私は、この言葉に疑いをいだくことなく当然のものと考えていました。今でもこの言葉は真実であると思っています。しかし、なぜわざわざ「天は」という主語がここに入っているのかふと疑問に思ったのです。今の世の中、国民は賢くなってきています。人々は、戦後民主主義というものが幻想というか要するに究極のゴールは実現しない理想に過ぎないということをだんだん実感しはじめているのではないのでしょうか。だからこそ、ブッシュは言いがかりをつけてイラクへ侵攻し、その大義名分が立たなくなったら、今度は「イラクが民主主義国家になることを助ける」ということを戦争の言い訳に使うのだと思います。権力側の人間にとっては、一般アメリカ人や世界の人が「民主主義」を絶対的善と思っていて欲しいわけです。「民主主義」はかたち上、一般国民に主権があるようになっていますが、この格差社会のありようを見ていれば、「搾取するもの」とその他大勢の「搾取されるもの」のクラスに分かれているのは明らかです。搾取側は「民主主義国家であるということ」を利用して被搾取側の不満の矛先をかわすことができます。つまり「国民は平等の機会を与えられて誰でも努力すればよりよい生活を送ることができるようになる社会」で自分たちは努力して成功したという建前(実際そのようなアメリカンドリームを実現する人は勿論、ごく少数いるわけですが)をもって自己を正統化できるわけです。一方、イラクや北朝鮮やキューバのような独裁者社会は、世の中権力側と非権力側のクラスがあるという本音がはっきりしています。民主主義国家でもそれらのクラスは歴然としてあるのですが、民主主義の建前上、表立って言わないだけなのです。格差社会が皮肉な事にこの「ダブルスタンダード」の存在を際立たせてきたような気がします。なぜ福沢諭吉が「天は」と言ったのか、ちょっと勘ぐり過ぎかも知れませんが、「天は」と主語を限定することによって、江戸時代の階級社会が形式上無くなって新しい時代となっても、「天でない人は、人の上に人をつくるし、人の下に人をつくる」という現実と矛盾しないような表現を選んだのではと思うのです。つまりこの言葉は、単に人間皆平等という実現しない理想を述べたものであって、新しい明治時代の現実社会における人どうしのありようを述べたわけではない思うのです。もし本当に平等でそれが当たり前ならそもそもこういった言葉が注目されるはずもないでしょう。
民主主義国家におけるダブルスタンダードが、格差社会の進行につれてはっきり見えてくるような気がします。今後は、学校教育でこれまで本音と思って教えこまれてきたことが、国家の(あるいは日本の場合はアメリカの)国民操縦のために作り出された建前にしかすぎないと思うようになる人が増えてくると思います。そういう人々が体制側つまり搾取側とどう闘うかを考えると、それはテロ行為に行き着かざるを得ないと思います。日本の議会制民主主義は殆ど茶番にしか過ぎず、政治家は選挙に当選した瞬間から国民の代表であることを止めて、国民を搾取する者になってしまうのですから、そうした者どうしの話し合いが国民の利益につながるはずはないのですから。(個人的な一意見ですので、悪しからず)
民主主義国家におけるダブルスタンダードが、格差社会の進行につれてはっきり見えてくるような気がします。今後は、学校教育でこれまで本音と思って教えこまれてきたことが、国家の(あるいは日本の場合はアメリカの)国民操縦のために作り出された建前にしかすぎないと思うようになる人が増えてくると思います。そういう人々が体制側つまり搾取側とどう闘うかを考えると、それはテロ行為に行き着かざるを得ないと思います。日本の議会制民主主義は殆ど茶番にしか過ぎず、政治家は選挙に当選した瞬間から国民の代表であることを止めて、国民を搾取する者になってしまうのですから、そうした者どうしの話し合いが国民の利益につながるはずはないのですから。(個人的な一意見ですので、悪しからず)