百醜千拙草

何とかやっています

無事の人

2007-06-14 | 文学
自分の子供をみていると、「うちの子供はよくできているなあ」としばしば思います。人の子供をしげしげ見る機会が余りないので、人の子供がどれほど素晴らしいかよくわかりませんが、きっとその子供の親は私は同じように思っていることでしょう。子供を何かに比較して良い、悪いと判断しているわけではなくて、子供の姿形、一挙一動を眺めていて自然に湧き上がってくる感動なのです。
臨済の説法で、次のような一節があります。
「君たちは、祖師に会いたいと思うか。ほかならぬ君たちという、今わしの目の前でわしの説法を聴いているのがそれだ。、、、毎日のさまざまの働きに、いったい何が足りないか。眼と耳と鼻と口と身と心という六すじの不思議な輝きは、いちどだって止まった事はない。もしこう考えることができるなら、諸君はもう死ぬまで何事もない男(無事の人)である。」
子供を見ているとそういったことを実感します。人の知恵の及ばない神秘が目前にあるのですね。子供は私たち大人よりももっと「何事もない人」に近いと思います。迷うことなく毎日精一杯生きています。この「何事もない人」という表現は、よく掛け軸などにみる「無事是貴人」のことです。何事もない人が即ち仏であるとの謂いです。何事もないというとちょっと誤解を生みそうですが、達磨の無心論の中には、心が無いことを知ることが最高の知恵であるというようなことが書いてあります。無心であることと無事は同意だと思います。そこに引かれている法鼓経の一文には『心を見る事ができぬとわかれば、対象もまたみることはできず、罪も徳も見る事はできぬ。生死も寂滅も見る事ができないし、およそ何ものも見る事はできず、見る事ができないことも見る事はできない』とあります。更に質問者の、その無心というのは木石に心が無いというのとどう異なるのかとの質問に対して、達磨は次のように答えています。「われわれのいう無心は木石と違う。そのわけは、例えば天界の太鼓だ。無心といっても、おのずと霊妙な教法を打ち出して人々を導く、、、無心といっても存在の極相を悟り、真実の知恵を備えて、三種の身が思いのままに働いて止まぬ、、、無心とは真実心である、真実心というものは無心のことだ」もっと平たく言えば、無心の人、無事の人とは、自らの生そのものをそのまま100%肯定しながら(肯定しているという意識すらなく)生きている人のことでしょう。無心とはその「生」に意識の注釈を付け加えることなく、そのままに味わえる心です。子供をみているとそうしたストレートに力強い「生」の不思議に心を打たれずにはおられません。そして、そんな子供と一緒に生活できる幸せを感じずにはいられません。
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