(続き)
シンクロニシティがなぜ起こるのかについては勿論わかりません。しかし、少なくとも唯物的因果論で全てを説明しようとする現代科学の態度に対する批判にはなりそうです。場とか気とか、そうした全体的な雰囲気からものごとを見ようとする東洋の考えと個別の物体の相互作用から世の中を理解しようとする西洋の還元主義的アプローチはある意味、排他的に対峙していることを知っておくことは、「正しい」世の中の理解にとって重要であろうと私は思います。シンクロニシティがなぜ起こるかということについて、別段知る必要はない(と私は思う)のですが、物事には原因と結果があって、結果は原因よりも時間的に後におこるという「時間の一方向性」に依存する「因果論」に対する私たちの盲目的な信仰をちょっと疑ってみれば、シンクロニシティというのは容易に説明がつきます。時間が一方向に流れているというのは我々の錯覚かも知れません。時間は空間とおなじように広がっているだけで流れてはいないのかも知れません。しばらく前、臨死体験者で、「死んでいる間に」キリストと神に会った人の話を書きましたが、彼女が神から知らされたところによると、「時間や物質が本当に存在する」と信じることを条件に人間はこの世に生まれてくることができるということですから、「時間」というものが本当は私たちが感じているように一方向性に流れて去っていくというような性質のものではないのかも知れません。そうであるのなら、シンクロニシティ(共時性)という概念そのものが、この世の中だけのいわば幻想である可能性もあると思います。時間や空間や物質がは本当は私たちが思う様な型で存在しているわけではないという考えは、仏教にも見られます。
大拙の本から、雲門の説法の一部を抜き出します。
ある時、雲門は大衆の前に杖を持ち上げて言った、
「教典によれば次のように言う。無知なものはこれを真実のものと思い、小乗の仏教者はそれは存在しないものとし、縁覚はこれを幻であるとみなす。菩薩はそのあるがままの実在を認めるが、それは本質的には空であると言う。
しかし、僧たちよ、おまえたちはこれを見る時、ただ杖と呼ぶが良い。思いのままに歩くも良し、また座るも良い。だが優柔不断ではいけない」
これは、私たちがシンクロニシティ的な出来事をどう扱えばよいかを示していると思います。目の前にある杖が、本当に存在するのか、その本質はなにか、哲学的には興味深い問いですが、それを知ること自体は大切ではない。シンクロニシティにしても、なぜそれが起こるかということを知ることそのものは二次的なことです。そういうものがあるということをまず認めること、そして、それを「ただの偶然」として対処するもありですし、その意味性を汲み取って人生の不思議に近づこうとするのもありです。また、上の説法での「杖」はいろいろなものに置き換えることが可能です。杖を時間に置き換えてみることもできると思います。 (続く)
シンクロニシティがなぜ起こるのかについては勿論わかりません。しかし、少なくとも唯物的因果論で全てを説明しようとする現代科学の態度に対する批判にはなりそうです。場とか気とか、そうした全体的な雰囲気からものごとを見ようとする東洋の考えと個別の物体の相互作用から世の中を理解しようとする西洋の還元主義的アプローチはある意味、排他的に対峙していることを知っておくことは、「正しい」世の中の理解にとって重要であろうと私は思います。シンクロニシティがなぜ起こるかということについて、別段知る必要はない(と私は思う)のですが、物事には原因と結果があって、結果は原因よりも時間的に後におこるという「時間の一方向性」に依存する「因果論」に対する私たちの盲目的な信仰をちょっと疑ってみれば、シンクロニシティというのは容易に説明がつきます。時間が一方向に流れているというのは我々の錯覚かも知れません。時間は空間とおなじように広がっているだけで流れてはいないのかも知れません。しばらく前、臨死体験者で、「死んでいる間に」キリストと神に会った人の話を書きましたが、彼女が神から知らされたところによると、「時間や物質が本当に存在する」と信じることを条件に人間はこの世に生まれてくることができるということですから、「時間」というものが本当は私たちが感じているように一方向性に流れて去っていくというような性質のものではないのかも知れません。そうであるのなら、シンクロニシティ(共時性)という概念そのものが、この世の中だけのいわば幻想である可能性もあると思います。時間や空間や物質がは本当は私たちが思う様な型で存在しているわけではないという考えは、仏教にも見られます。
大拙の本から、雲門の説法の一部を抜き出します。
ある時、雲門は大衆の前に杖を持ち上げて言った、
「教典によれば次のように言う。無知なものはこれを真実のものと思い、小乗の仏教者はそれは存在しないものとし、縁覚はこれを幻であるとみなす。菩薩はそのあるがままの実在を認めるが、それは本質的には空であると言う。
しかし、僧たちよ、おまえたちはこれを見る時、ただ杖と呼ぶが良い。思いのままに歩くも良し、また座るも良い。だが優柔不断ではいけない」
これは、私たちがシンクロニシティ的な出来事をどう扱えばよいかを示していると思います。目の前にある杖が、本当に存在するのか、その本質はなにか、哲学的には興味深い問いですが、それを知ること自体は大切ではない。シンクロニシティにしても、なぜそれが起こるかということを知ることそのものは二次的なことです。そういうものがあるということをまず認めること、そして、それを「ただの偶然」として対処するもありですし、その意味性を汲み取って人生の不思議に近づこうとするのもありです。また、上の説法での「杖」はいろいろなものに置き換えることが可能です。杖を時間に置き換えてみることもできると思います。 (続く)