最近、十年前にRobert Hopckeが書いた「There are no accidents」という本を読みました。ユングのシンクロニシティ(意味のある共時性)の概念の紹介と、多くのそうした例を集めています。この類いの本は他にも多数出ているので、取り立てて珍しいことが紹介されていたわけでも、シンクロニシティそのものへの新しい解釈が提示されているわけでもありません。シンクロニシティの様々な例が、例えば写真集のような感じで、紹介、解説されています。東洋人にとってはシンクロニシティというのは、比較的抵抗少なく近寄れる概念だと思うのですが、因果論と唯物観に強く縛られている人には(例えば、ユングのかつての師であったフロイトのように)シンクロニシティという概念そのものに極めて強いアレルギーを示す人も多いようです。少なくとも近代科学の方法論とは相容れません。
生物学についても現代主流の生命科学の基礎になっている概念は、1940年ごろに物理学者によって、(ある意味、恣意的に)選ばれた生命の特質に注目することによって発達してきたのではないかと私は思います。シュレディンガーが量子物理学から生物学へと転向したのは、「生物には非生物で発見されてきた物理法則以外の特有の法則があるのではないか」という疑問に答えるためでありました。彼やデルブリュックは生物の特性として、増殖性と遺伝性に着目し、物理学的なアプローチ(つまり、現象の背後にある法則性を見つけること)で生物学研究を進めていきます。その延長線上にあるのが、現代生命科学であると私は思います。70年程前に彼らが着目した増殖性と遺伝性という物理的観測可能な生物の特性に焦点をあわせた結果、その他の生物の特性は逆に切り捨てられてしまったように思えます。「生命とは何か」を理解するのは困難なことです。また、「生命とは何か」という問いに対する絶対的な答えは無いと思います。シュレディンガーは「What is life」という本の中で、物理学的立場から見た生命というものを定義しようとしたのでしょう。しかし、シュレディンガーやデルブリュックたちが規定した物理学的見地からの生命という枠に満足できずに、生命の本質を求めて、自己組織化、人工生命、オートポイエーシス、生物記号論、などなどいろいろな試みがなされてきました。「生命は意味を創出するもの」と定義した人がありましたが、意味を創出しそれを理解する活動は、私は、生命の中心にあるものであると思います。シンクロニシティはまさに意味性を扱っているわけで、現代科学が意味論を排除することでより客観的な生命の(物理的側面の)記述を試みてきた方法論とは、無論のこと相容れません。
シンクロニシティの実例について、ユング自身の著作の中に多くの好例があります。一つは、論理的思考法に強く縛られた精神疾患の患者の治療中の出来事です。患者は診察室で前夜に見た金の黄金虫の夢をユングに告げていたのですが、ちょうどそのとき診察室の窓を何かが叩く音がして、ユングが見てみると、黄金虫が飛んできたというエピソードです。ユングはその黄金虫を患者に見せ、論理的思考からは「ただの偶然」としか言いようのないこの出来事の中にある意味性に患者の心を開かせることに成功します。もう一つユング自身の例をあげます。ユングがフロイトの無意識の個人的な解釈に満足できずに、集合的無意識ややがてシンクロニシティにたどり着く研究を進めた結果、フロイトとの間に確執が生まれてしまいます。あるときユングとフロイトが議論をしていたとき、ユングは強いフラストレーションと上腹部がつきあげられる様な感覚を感じます。その直後大きな爆発音が本棚の方から聞こえてきたそうです。ユングは、これが自分の内的なフラストレーションの爆発の外在化であると説明し、また再び同様の爆発音がおこるであろうと予言します。フロイトは、その物理的因果論にあわない説明を聞いて、そんな馬鹿なことがあるかと反論した所、二度目の爆発音がしたということです。この経験はフロイトをひどく驚かせたとあります。ウィルヘルムが集めた中国の話の中での「雨ふらせ(雨乞い術者)」の例も興味深いです。干ばつに見舞われたある中国の村で、雨ふらせが呼ばれます。雨ふらせは村に着くと、まっすぐに彼のための家に向かい、雨が降り出すまで何もせずそこにいただけでした。どうして雨を降らせたのかと聞かれて、雨降らしは、雨の降る降らないに因果関係など何もないと答えました。村に着いた時、村には不調和な状態がたちこめていて、自然の通常のプロセスがその筋書きにそってうごいていないのだということに彼は気がつきました。彼自身がこの不調に影響を受けてしまい、小屋に引きこもって自分を落ち着かせることに専念せざるを得なかったのだそうです。そうして、雨ふらせ自身の調和が取り戻された時に、(即ち、村の不調和が解消された時)雨は当然のように降ったということです。雨は降るのが自然であって、降るべき時には降るということなのです。ユングとフロイトの対決も、大きなコンテクストからみてみると、ユングが強いフラストレーションを感じた時に、彼らの内的状態に共鳴するような環境が周囲に整っていたと考えれば、そのタイミングで本棚がきしんだり、本が倒れたりして、音を発することがあっても不思議はないような気がします。忍術か何かのように、内的なエネルギーが外部に作用して超常現象を引き起こすというわけではなく、関連した事柄が同時に起こりやすくなるような「場」とでもいうべきものがあるのだと仮定すれば、シンクロニシティは説明しやすいと思います。一般の人はそんな「場」があるのなら見せてみろと言うわけですが、もちろん、これは進化論と同様に、世の中の現象が説明しやすくするための仮説ですから、その証明があるわけではありません。1884年にEdwin A. Abbottが書いた「Flatland」という高次元世界の存在を信じられない二次元人の話があります。二次元世界におこる様々な現象は、高次元の存在を仮定することによって整合的に説明できるという数学的寓話です。最近、また動画になってPrinceton University Pressから発売されています(Flatland: The movie. Seth Caplan et al)。この寓話がそのまま私たちの世界に適用できるとは思えませんが、少なくとも私たちが全てと思い込んでいる世界を含むようなより大きな宇宙が存在する可能性に目を向けさせてくれると思います。Flatlandについてはまたの機会に触れたいと思います。 (続く)
生物学についても現代主流の生命科学の基礎になっている概念は、1940年ごろに物理学者によって、(ある意味、恣意的に)選ばれた生命の特質に注目することによって発達してきたのではないかと私は思います。シュレディンガーが量子物理学から生物学へと転向したのは、「生物には非生物で発見されてきた物理法則以外の特有の法則があるのではないか」という疑問に答えるためでありました。彼やデルブリュックは生物の特性として、増殖性と遺伝性に着目し、物理学的なアプローチ(つまり、現象の背後にある法則性を見つけること)で生物学研究を進めていきます。その延長線上にあるのが、現代生命科学であると私は思います。70年程前に彼らが着目した増殖性と遺伝性という物理的観測可能な生物の特性に焦点をあわせた結果、その他の生物の特性は逆に切り捨てられてしまったように思えます。「生命とは何か」を理解するのは困難なことです。また、「生命とは何か」という問いに対する絶対的な答えは無いと思います。シュレディンガーは「What is life」という本の中で、物理学的立場から見た生命というものを定義しようとしたのでしょう。しかし、シュレディンガーやデルブリュックたちが規定した物理学的見地からの生命という枠に満足できずに、生命の本質を求めて、自己組織化、人工生命、オートポイエーシス、生物記号論、などなどいろいろな試みがなされてきました。「生命は意味を創出するもの」と定義した人がありましたが、意味を創出しそれを理解する活動は、私は、生命の中心にあるものであると思います。シンクロニシティはまさに意味性を扱っているわけで、現代科学が意味論を排除することでより客観的な生命の(物理的側面の)記述を試みてきた方法論とは、無論のこと相容れません。
シンクロニシティの実例について、ユング自身の著作の中に多くの好例があります。一つは、論理的思考法に強く縛られた精神疾患の患者の治療中の出来事です。患者は診察室で前夜に見た金の黄金虫の夢をユングに告げていたのですが、ちょうどそのとき診察室の窓を何かが叩く音がして、ユングが見てみると、黄金虫が飛んできたというエピソードです。ユングはその黄金虫を患者に見せ、論理的思考からは「ただの偶然」としか言いようのないこの出来事の中にある意味性に患者の心を開かせることに成功します。もう一つユング自身の例をあげます。ユングがフロイトの無意識の個人的な解釈に満足できずに、集合的無意識ややがてシンクロニシティにたどり着く研究を進めた結果、フロイトとの間に確執が生まれてしまいます。あるときユングとフロイトが議論をしていたとき、ユングは強いフラストレーションと上腹部がつきあげられる様な感覚を感じます。その直後大きな爆発音が本棚の方から聞こえてきたそうです。ユングは、これが自分の内的なフラストレーションの爆発の外在化であると説明し、また再び同様の爆発音がおこるであろうと予言します。フロイトは、その物理的因果論にあわない説明を聞いて、そんな馬鹿なことがあるかと反論した所、二度目の爆発音がしたということです。この経験はフロイトをひどく驚かせたとあります。ウィルヘルムが集めた中国の話の中での「雨ふらせ(雨乞い術者)」の例も興味深いです。干ばつに見舞われたある中国の村で、雨ふらせが呼ばれます。雨ふらせは村に着くと、まっすぐに彼のための家に向かい、雨が降り出すまで何もせずそこにいただけでした。どうして雨を降らせたのかと聞かれて、雨降らしは、雨の降る降らないに因果関係など何もないと答えました。村に着いた時、村には不調和な状態がたちこめていて、自然の通常のプロセスがその筋書きにそってうごいていないのだということに彼は気がつきました。彼自身がこの不調に影響を受けてしまい、小屋に引きこもって自分を落ち着かせることに専念せざるを得なかったのだそうです。そうして、雨ふらせ自身の調和が取り戻された時に、(即ち、村の不調和が解消された時)雨は当然のように降ったということです。雨は降るのが自然であって、降るべき時には降るということなのです。ユングとフロイトの対決も、大きなコンテクストからみてみると、ユングが強いフラストレーションを感じた時に、彼らの内的状態に共鳴するような環境が周囲に整っていたと考えれば、そのタイミングで本棚がきしんだり、本が倒れたりして、音を発することがあっても不思議はないような気がします。忍術か何かのように、内的なエネルギーが外部に作用して超常現象を引き起こすというわけではなく、関連した事柄が同時に起こりやすくなるような「場」とでもいうべきものがあるのだと仮定すれば、シンクロニシティは説明しやすいと思います。一般の人はそんな「場」があるのなら見せてみろと言うわけですが、もちろん、これは進化論と同様に、世の中の現象が説明しやすくするための仮説ですから、その証明があるわけではありません。1884年にEdwin A. Abbottが書いた「Flatland」という高次元世界の存在を信じられない二次元人の話があります。二次元世界におこる様々な現象は、高次元の存在を仮定することによって整合的に説明できるという数学的寓話です。最近、また動画になってPrinceton University Pressから発売されています(Flatland: The movie. Seth Caplan et al)。この寓話がそのまま私たちの世界に適用できるとは思えませんが、少なくとも私たちが全てと思い込んでいる世界を含むようなより大きな宇宙が存在する可能性に目を向けさせてくれると思います。Flatlandについてはまたの機会に触れたいと思います。 (続く)