百醜千拙草

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学校教育と搾取構造

2008-05-23 | Weblog
子供のころ、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」を読んで、私は文学に目覚め、医学部に行かねばならないと思いました。あんな面白い本を書いてみたい、そのためには、北杜夫のように、まず医者になって船医か保健所の職員になり、「ひま」のいっぱいある仕事につかねばならないと密かに思った記憶があります。医者になってから、普通の若手の医者はどえらく忙しく、冒険小説を書いているひまなどないこと、船医や保健所はちょっと本流から外れていて、その道を選択するにはかなり勇気がいることがわかりました。実は、小学校の高学年のころには、医者になってから小説家になるという道に既に興味は無くなっていたのですが、かわりに、漠然と学問を仕事とする人に対するあこがれみたいなものはあったようで、小学校の文集に将来は学者になりたいと書いたことを覚えています。一応、夢はかなったと言えばそうですが、単に学者になりたいと書かずに、学者になってかつ余裕のある生活をしたいと書いておくべきでした。その夢がかなっていれば今のストレスは多少減っているはずですから。
ところで、今のポスドク問題に見られるように、学歴を積めば積む程、職業的可能性は限定されてくるようです。大学院へ行って学問の道に進むと決めれば、学問の道以外の職業へ就く事は困難になってきます。なぜなら世の中の大多数の職業は学問とは直接関係ないわけですから。世の中には東大を出てラーメン屋をやっている人もいますから、実際には自ら作った心理的な垣根が職業選択の幅を狭くしているのは間違いありません。やはり頑張って有名大学に入り大学院まででたのから、それを生かせる仕事をしたいと思うのは人情です。例えば、大学院でサルトルのコップのことを毎日考えていたような人が、いくら哲学では飯が喰えないからといって、コップ売りやラーメン屋になろうとすぐ方向転換するのは難しいでしょう。急にラーメンに情熱を持てと言われて持てるものでもないでしょうし。
私はベビーブームの世代の境目にいるのですが、子供の頃は、それでも十分、競争は激しかったです。受験戦争という言葉もあって、入江塾とか、ほとんどカルト宗教なみの学習塾もありました。そこでは基本的には比較的安定して高収入の職業に将来つくという目的のために、つまり競争に勝ってよい大学に入り、一流企業のサラリーマンになる、という将来を目指して、子供たちは頑張っていたわけでした。医学部というのもポピュラーな目標でした。医者になれば喰いはぐれがないだろうし、当時は「お医者様」と呼んでくれる患者さんもいました。私は理系だったので地元の大学の理系の学部という理由で医学部に行きました。私は高校生当時、大学というのは学問をするところであると思っていました。しかし、医学部での医学教育というのは職業訓練であって、つまり知識を覚えてその応用を覚えるところで、基本的には自動車教習所と同じところです。大学とは言いながら医学部は医学生が学問する場所ではなく、学問は大学院に行ってからになります。そのことが分かったのは入学後数年も経ってからで、今更ながら自分のナイーブさが恥ずかしくなります。事実、現在の国立大学医学部の中には、戦時中の医師不足を補うための機関、医学専門学校から後に昇格したものがあり、私の母校も元を正せば、大学ではなくそういった医療教習所でした。
 ともあれ、多くの場合で、学問をするために大学に入る人というのは実は少数であって、大学に入るのは、「入試」のためのトレーニングをしたという証明を得るためであるというのが本音だと思います。企業は与えられた問題の答えを限られた時間内で見つけ出すトレーニングを受けた「使いやすい」新人を効率よく選択するために、有名大学卒者を採用するわけで、彼らが大学で学んできた知識が目的ではないのは明らかです。企業は「もうけてナンボ」の世界ですからサルトルが金に繋がらないとなれば、そんな知識は必要ないのは当然です。こういう観点からみれば、日本の一般学校教育は、「使いやすい」国民を作るという目的に沿ってデザインされていることが分かります。日本では(に限らずどこの国でも同じでしょうが)一部の「使う人」と大多数の「使われる人」によって社会が成り立っており、この階層構造を保守していくことが、「使う人」つまり、大企業と政治家官僚の利益を保証するわけですから、小さいときから、大多数の国民が使いやすい人になるように、学校教育で教え込まれるわけです。学校教育はある意味、集団洗脳といってもよいかもしれません。
 インターネットの時代になって、この傾向が変化していくのではないかと私は期待しています。TVや新聞といったマス洗脳媒体から人々が離れ、より多様なソースから情報を得るようになり、インターネットを通じたスモールビジネスが増加すれば、人は企業に入ってサラリーマンという使われる人になることで経済的安定を目指す以外にも道を見つけられるようになるのではないでしょうか。インターネットのように、個人どうしが、企業や政府を介在させることなく、直結していくことで、使う人と使われる人というrigidな搾取構造が変化していく可能性があるのではないかと思っています。
コメント
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