百醜千拙草

何とかやっています

生物の尊厳

2008-05-02 | 研究
以前から生物研究界では、実験動物に対する動物活動家による妨害行為などがありました。実験動物をこっそり逃がしたり、動物実験施設を襲撃したりといったことです。他人の立場になって気持ちを考えるというのは、現代社会において欠くべからず資質であると思いますし、その気持ちが他の生物まで拡張するのも自然なことであると思います。ペットとして犬や猫を飼っている人が、実験のためだけに育てられて利用される犬のことを「可哀そうだ」と思うのは自然なことだし、実際、大切なことだと思います。エリザベス キューブラー ロスは、子供の頃、可愛がっていた家畜のウサギが晩ご飯のおかずになってしまったことが強いトラウマとなったと述べていました。ここに、生存のためには、他の生物を利用し、食べざるを得ない人間のジレンマがあります。可哀想だと思う、思わないに関わらず、人は他の動植物を殺して、食べることなしには生きていけません。仮に牛乳と果物だけで生きている人にしても、食べる以外にも、気づかない間に虫を踏みつけて殺していたり、殺菌ソープで体表面の細菌を殺したりしているわけで、殺すという行為と無関係に私たちは生きていくことはできません。ただ、可哀想だと思う気持ち、食物になった他の生物に対する感謝の気持ちを持つことは、人間自身にとって重要であろうと思います。そういう気持ちを持つ事で無用な殺生はしなくなるでしょうし、人間同士の間の思いやりも育つでしょう。実験動物に対しても同様の気持ちを持てないなら、生命科学研究者としては失格であろうと私は思います。動物は私たちに近いし、感情移入しやすいので、彼らの痛みや苦しみは想像しやすいと思います。それでは植物はどうでしょうか。ベジタリアンであっても、生物である植物を殺したり、その一部を取って食べたりすることには違いありません。動物と違って、殺される時に血を流したり叫んだりしないので、私たちが彼らの苦しみや痛みを余り感じなくて済むという点はあると思います。以前、植物の声を聞く事ができる人の話を読んだことがあります。知り合いの人の家を訪ねたときのこと、家中に満ちている悲鳴をその人は感じたのですが、それは、しばらく水やりを忘れていた数々の鉢植えの枯れかけた植物が発していた声なのでした。もし、私たちが、動物の場合と同様に、食べられるためだけに栽培され、収穫される植物の気持ちが理解できるなら、植物解放活動みたいなものが現れる可能性もあるでしょう。
 最近のスイスでは、植物の気持ちを思いやることを考えはじめているようです。実験動物をあつかう研究プロトコールには、実験動物に無用な苦痛を与えないことや、必要のない実験を行われていないことなどを示す事項が含まれています。このたび、スイスのヒト以外を対象としたバイオテクノロジーにおける政府の倫理委員会は、植物研究において「植物の尊厳」を損なう研究を支援しないためのガイドラインを策定したとのことです (Nature 2008 452, 919)。スイスでは2004年発行の遺伝子技術法に「生物の尊厳を尊重すること」という条項が既にあるのですが、今回、具体的に植物にも生物の尊厳を拡張しようとしているようで、植物研究の研究費申請には、どのように「植物の尊厳」が考慮されているかを明記しないといけなくなるらしいです。研究者側は、「植物の尊厳」を尊重するとは一体どういうことなのかと頭をひねっているようです。植物の気持ちを理解することができない人間が、自分たちの立場で考えた「尊厳」なのですから、その「尊厳」がどれぐらい植物を満足させるのか、わかるわけがありません。植物の気持ちは植物に聞けでしょう。また、あるものの尊厳とはそのもの自身によって判断されるべきであろうと私は思います。実験生物の「尊厳」云々は、私は人間の場合の安楽死のケースからの拡大ではないかと思うのです。脳などに傷害などを受け、自分自身で生命活動を維持していくことができなくなった状態で、呼吸器と栄養補給チューブに繋がれて心臓だけが動いているという不幸な人がおられます。そういう自立性を失ってしまった人から生命維持装置をはずして死を迎えさせることを、最近は「尊厳死」と言ったりすると思います。生物の尊厳と言う場合には、実験などによって、自立的な生命維持ができなくなるような状態にすることが、どうも尊厳をそこなうということになるようです。しかし、そう言い出せば、遺伝子変異を導入して致死性の形質が出るようになった生物は全て、尊厳が損なわれていることになってしまいますし、そうでなくても、意図的に生物を交配し、操作し、飼育室で管理するわけですから、そこに自立性などないも同然で、基本的に全ての生物実験は尊厳の尊重の違反であろうと私は思います。あたかも実験生物の側に立ったかのような形式的な「尊厳」を云々するよりも、私たち自身が、他の生物を利用し、殺し、食べることなしに生きていけないという事実を真摯に見つめ、その上でそうした生物に感謝するという自分たちの側からできる事をすべきであろうと思います。「尊厳」だ何だといっても、生物の側にとっては、利用されて殺されることには違いはないのですから。聖書に言うように、もし、動物たちは明日何を喰わん、何を着んなどと思い煩うことなく、日々栄光に満ちた生をただ生きているのみなのであれば、彼らは彼らの毎日に起こってくることを、判断なくそのまま受入れて生きている存在なのかも知れません。もしそうなら、そんな彼らの生命のどこに人間が言う「尊厳」などというようなものの入り込む余地があるのでしょうか。彼らの生はそんなものは超越しているのです。人間以外の生物の「尊厳」を云々することは、ある意味、生命の頂点にいるとでも思っている人間の傲慢さの表れなのかも知れません。
 人間であっても「尊厳」の定義は、人それぞれで違うと思います。昔、乳癌の脳転移で麻痺をおこした患者さんがいました。治療も一時的な効果しかなく、残された日々が限られているということが明らかになってきた時、患者さんは一人暮らしながら自宅に帰ることを希望されました。私は希望をかなえて上げるべきだと思いましたが、神経内科の主任は、このまま自宅に帰っても身の回りのことをするのもままならない、惨めな状態になるのがわかっているのだから、病院で「尊厳」を保った状態で死なせてあげるべきだと主張しました。私はこの時、神経内科主任が繰り返し使った「人間の尊厳」という言葉を非常によく覚えています。死ぬ間際になっても希望どおり自宅に帰ることさえもできないのに、「尊厳」が保たれてるとは思えない、と私は何度も抗議しましたが、神経内科主任の頭の中には、絶対的な「尊厳」の定義がすでにあって、患者さんの意志よりもその「尊厳」が保たれる方がもっと重要だという考えがあったようでした。あるいは、以前に患者さんの意志を尊重したばかりに悲惨なことになった例を経験していたのかも知れません。しかし、私は今になっても「尊厳」などというものが、本人の気持ちの外に独立してあるとは考えられません。しかし結局、人生を生きるとは、ままならない不自由を肯定的に受入れていくことに他ならないのですから、その患者さんにとってどっちが良かったのか、その本人以外に判断のしようもないと思います。例え選択肢に限りがあっても、その中で本人がベストであると思うことを自らの意思で選ぶことができないなら、肉体ではなく精神の自立性が損なわれていると言ってよいのではないかと私はと思います。それはまさしく「尊厳を損なう」ことではないでしょうか。
生命を尊ぶことは大切なことであると思います。それは自らの内側からでてくる感情に基づいていなければならないと思います。それなしに、外側から「尊厳」を尊重しろというのは、一方では、体裁だけつけておればそれでよいというような態度を間違いなく生むでしょう。生命の大切さや神秘さを感じ、尊重できない人に生命科学をする資格はないと私は思います。
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