先日、マサチューセッツ州ケンブリッジで、警察がハーバード大黒人教授を逮捕したという事件がありました。この小さな事件はその教授が著名人であったこともあって、全国的に報道され、未だに議論を呼んでいます。この事件について、オバマもTVで「ケンブリッジ警察は愚かな行動した」とコメントしために、それがケンブリッジ警察の反発を呼び、それに関して、後日、あらためて、ホワイトハウスで会見し、「自分のコメントが事態の悪化を更に呼び込んだことを後悔している」と述べました。さらに、オバマは事件の当事者である黒人のゲイツ教授(実は、オバマ同様、白人との混血)と逮捕したケンブリッジ警察のクローリー巡査と電話で話をした後、彼らをホワイトハウスに招いて一緒にビールを飲みたい、と言いました。この問題は、アメリカでくすぶる人種、民族、宗教の違いによる差別や偏見を煽り立てる可能性がある一方、オバマはこれを逆手にとって、ホワイトハウスに当事者を招いて、会談することで、アメリカ人は人種等の違いはあっても同胞であり、未来に向けて過去の対立を乗り越えていかねばならない、ということを国民に示すよい機会と捉えたのであろうと思います。
私も、ケンブリッジ警察のとった行動は愚かな行動であると思います。逮捕理由が「Disorderly conduct」というわけですから、つまり、しかるべき罪状なしに逮捕したということです。近所の人が、自宅の鍵が開かないので、ドアをこじ開けようとするゲイツ教授を見て、家屋に侵入しようとしている怪しい男がいると勘違いして、警察に通報した、というのが事件の発端です。ですから、その怪しい男が、実は、その家に住んでいる住人であるということが明らかになった時点で、警察は「そうですか」と引き下がれば済んだことです。それを警察という権力のもとに、一般住民であるゲイツ教授を、気に食わない対応をしたからと言って「風紀を乱した」という罪状で、逮捕したのですから、これはいけません。ゲイツ教授の立場になって、ちょっと考えてみれば、この逮捕が如何に不当なものか、彼が警察を告訴するといっている気持ちもわかるというものです。
出張から夜遅く、疲れて帰ってみれば、家の鍵が開かなかったのです。少しでも早く、シャワーでも浴びてくつろぎたい、という気持ちであったでしょう。なのに、ドアの鍵が開かない、というのは、それだけでも十分、彼をイライラさせたであろうと想像できます。ようやく、鍵をこじ開けて、中に入って、くつろごうとしたら、警官が家屋侵入の疑いで自分の自宅にやってきて、ウダウダ言い出したのですから、怒りが爆発するのもわかります。私でも、そんなことがあれば、「さっさと家から出て行け!」ぐらいのことは言うかも知れません。警察は通報を受けて、事実関係を確認しにきただけなのですから、本来、その事実が確認されて、犯罪性がなかったとわかれば、すみやかに引き下がればよいのです。それを、あろうことか、その場で別の罪状で、しかも本人の自宅で逮捕したのですから、これを「愚か」と言わずして、何というのでしょう。ただでさえ疲れて、いらだっているところに、警官がいきなり押しかけてきて、犯罪者の疑いをかけられたら、その警官に向って多少の暴言を吐くこともあるでしょう。警官は、その気持ちを察することができなかっただけでなく、それに対して、「風紀を乱した」などという罪状で逮捕するのは、あきらかに権力を嵩にきた嫌がらせである、と私は思います。しかし、ケンブリッジ警察は、この逮捕が正当なものである、と主張しているようです。これが正当であると考えていること事体、警察にある構造的な欠陥体質を示していると私は思います。自分が逆の立場に立たされたときのことを考えてみて欲しいと思います。疲れて帰って来て、自宅でくつろごうとしたら、いきなり警官が踏み込んで来て、本来の疑いとは関係ない罪状(風紀を乱した、つまり、警官への対応が気に喰わない、といういうことです)で逮捕されたら、どう思うでしょう。それでも、警官は職務を全うしただけで、風紀を乱した(つまり、警官に怒鳴った)自分が悪いと思えますかね。
しかし、ここで警察の体質をいくら批判したところで、警官側に自己反省の意識がないのですから、これは感情的な反発を生むだけで、何の得もありません。オバマはそう考えて、釈明会見を行ったのだと思います。だから、本心では無論、「ケンブリッジ警察は愚かな行動をとったし、それは本来、非難されるべきものである」と考えているので、ケンブリッジ警察に対して、彼らの要求する謝罪はしなかったわけです。どうもケンブリッジ警察側はそれが理解できないようです。きっと、彼らは自分たちは、自分たちの仕事をしただけだ、と考えているのでしょう。「権力を嵩にきた嫌がらせ」をしたという意識もないのだと思います。つまり、ケンブリッジ警察の逮捕が不当である、というのはバランスのよい理性をもった人であれば、当然の結論なのですが、事件は最初から感情的になった双方が、それを正当化しようと頑固になっているので、既に理性でどうにかなる問題ではなくなっている、ということです。第三者が間に入って、双方を思いやる機会を与えて、頭を冷やさせないといけません。しかし、これまでの対応をみていると、警察側は、まだ、事件を客観的に理性的に見るということを拒否しているようです。警察という組織は、一種の宗教団体のようなものなのでしょう、彼らより上にある立場の人間からトップダウン式に変えないと、彼らの意識は変わらないのでしょう。そう考えて、オバマは事件の当事者をわざわざ、ホワイトハウスに招いて、公の場で「仲直り」を演出しようとしているのだと思います。この問題は人種の問題ではありません。ゲイツ教授が、「人種偏見だ」と罵ったことから、人種の問題ととらえられて、大騒ぎになりましたが、これは実は、一般市民に対する警察の暴力の問題であり、人種にかかわらず、誰にでもおこる可能性のある事件であると私は思います。
私も、ケンブリッジ警察のとった行動は愚かな行動であると思います。逮捕理由が「Disorderly conduct」というわけですから、つまり、しかるべき罪状なしに逮捕したということです。近所の人が、自宅の鍵が開かないので、ドアをこじ開けようとするゲイツ教授を見て、家屋に侵入しようとしている怪しい男がいると勘違いして、警察に通報した、というのが事件の発端です。ですから、その怪しい男が、実は、その家に住んでいる住人であるということが明らかになった時点で、警察は「そうですか」と引き下がれば済んだことです。それを警察という権力のもとに、一般住民であるゲイツ教授を、気に食わない対応をしたからと言って「風紀を乱した」という罪状で、逮捕したのですから、これはいけません。ゲイツ教授の立場になって、ちょっと考えてみれば、この逮捕が如何に不当なものか、彼が警察を告訴するといっている気持ちもわかるというものです。
出張から夜遅く、疲れて帰ってみれば、家の鍵が開かなかったのです。少しでも早く、シャワーでも浴びてくつろぎたい、という気持ちであったでしょう。なのに、ドアの鍵が開かない、というのは、それだけでも十分、彼をイライラさせたであろうと想像できます。ようやく、鍵をこじ開けて、中に入って、くつろごうとしたら、警官が家屋侵入の疑いで自分の自宅にやってきて、ウダウダ言い出したのですから、怒りが爆発するのもわかります。私でも、そんなことがあれば、「さっさと家から出て行け!」ぐらいのことは言うかも知れません。警察は通報を受けて、事実関係を確認しにきただけなのですから、本来、その事実が確認されて、犯罪性がなかったとわかれば、すみやかに引き下がればよいのです。それを、あろうことか、その場で別の罪状で、しかも本人の自宅で逮捕したのですから、これを「愚か」と言わずして、何というのでしょう。ただでさえ疲れて、いらだっているところに、警官がいきなり押しかけてきて、犯罪者の疑いをかけられたら、その警官に向って多少の暴言を吐くこともあるでしょう。警官は、その気持ちを察することができなかっただけでなく、それに対して、「風紀を乱した」などという罪状で逮捕するのは、あきらかに権力を嵩にきた嫌がらせである、と私は思います。しかし、ケンブリッジ警察は、この逮捕が正当なものである、と主張しているようです。これが正当であると考えていること事体、警察にある構造的な欠陥体質を示していると私は思います。自分が逆の立場に立たされたときのことを考えてみて欲しいと思います。疲れて帰って来て、自宅でくつろごうとしたら、いきなり警官が踏み込んで来て、本来の疑いとは関係ない罪状(風紀を乱した、つまり、警官への対応が気に喰わない、といういうことです)で逮捕されたら、どう思うでしょう。それでも、警官は職務を全うしただけで、風紀を乱した(つまり、警官に怒鳴った)自分が悪いと思えますかね。
しかし、ここで警察の体質をいくら批判したところで、警官側に自己反省の意識がないのですから、これは感情的な反発を生むだけで、何の得もありません。オバマはそう考えて、釈明会見を行ったのだと思います。だから、本心では無論、「ケンブリッジ警察は愚かな行動をとったし、それは本来、非難されるべきものである」と考えているので、ケンブリッジ警察に対して、彼らの要求する謝罪はしなかったわけです。どうもケンブリッジ警察側はそれが理解できないようです。きっと、彼らは自分たちは、自分たちの仕事をしただけだ、と考えているのでしょう。「権力を嵩にきた嫌がらせ」をしたという意識もないのだと思います。つまり、ケンブリッジ警察の逮捕が不当である、というのはバランスのよい理性をもった人であれば、当然の結論なのですが、事件は最初から感情的になった双方が、それを正当化しようと頑固になっているので、既に理性でどうにかなる問題ではなくなっている、ということです。第三者が間に入って、双方を思いやる機会を与えて、頭を冷やさせないといけません。しかし、これまでの対応をみていると、警察側は、まだ、事件を客観的に理性的に見るということを拒否しているようです。警察という組織は、一種の宗教団体のようなものなのでしょう、彼らより上にある立場の人間からトップダウン式に変えないと、彼らの意識は変わらないのでしょう。そう考えて、オバマは事件の当事者をわざわざ、ホワイトハウスに招いて、公の場で「仲直り」を演出しようとしているのだと思います。この問題は人種の問題ではありません。ゲイツ教授が、「人種偏見だ」と罵ったことから、人種の問題ととらえられて、大騒ぎになりましたが、これは実は、一般市民に対する警察の暴力の問題であり、人種にかかわらず、誰にでもおこる可能性のある事件であると私は思います。