しばらく出張しますので、その前に税金で研究活動が支えられているということの意義について、少し。
例の事業仕分けで、科学研究に対する予算の「ムダ」をどう判断するのか、という問題で、研究者業界は議論が沸いています。スーパーコンピューター開発プロジェクトが槍玉に上がりました。このプロジェクトの意義を素人にも理解してもらうのは難しいでしょう。医師によるインフォームド コンセントのようなものです。結局は知識に差がある者同士の理解というのは、対等の関係では起こらず、知識の量による力関係が決めてしまうことになります。「ベストの治療をしますから、任せておきなさい」「はい、それではよろしくお願いします」という一昔前の医師と患者の関係は、インフォームド コンセントが導入されたからといって変化しているわけではないと思います。治療の内容やリスクや効果について説明したと、医師側は思っていても、治療に対する同じ認識を患者側が持つことは、まず期待できないでしょう。患者は病気が治るかどうかという一点で医療の成否を判断しようとするでしょうし、医師側は、医学的に「正しくベストと考えられる医療」をしたかどうかが最優先であって、その結果として病気が治るか治らないかに責任をとることは出来ません。研修医のとき、不治の病にかかったヤクザの親分の娘を担当した同僚が、「絶対に、お嬢さんを助けてやって下さいよ!(もし、助からなかったら、どういうことになるか、先生、わかっとるでしょうな)」と組の者にスゴまれた、という話を思い出します。
仕分け人に科学事業を説明する方も、医学知識の乏しい組の者に不治の病を説明するような難しさがあるのではないかと思います。科学コミュニケーションという分野もあるそうです。一般の人にもっと税金で支援されている研究のことをわかってもらおうという趣旨のようです。それが、子供の科学とか科学朝日やScientific Americanのように科学を娯楽として一般人に楽しんでもらうという活動であれば、私は賛成なのですけど、一般人に専門家の仕事を評価できるようになってもらおうというような趣旨なのであれば、ちょっとそれは僭越でないかと私は思います。
一方、基礎科学研究は投資活動であって、コストと利益の比(B/C)をもって、遂行か廃止を決めるような他の事業と同列に議論すること自体がナンセンスだ、というようなことを言っていた野依さんの意見は尤もです。私も、以前は基礎科学は投資活動であると思っていました。歴史的に振り返ってみると、(やっている本人でさえ)よく価値がわからない研究を、主に好奇心にかられて、続けている間に思いもかけない発見がなされて、その発見が実地に応用されてきました。科学上のブレークスルーも医学上の有用な発見も、殆どといって良いぐらい、偶然の産物です。そういう歴史的観点から、有用性については現時点では明らかでは無いけれども、面白そうな研究はとりあえずサポートしておくと、稀に瓢箪から駒が出る事もある、という経験則に基づいて、「基礎研究は投資である」という言明がなされるのであろうと私は思います。しかし、この経験則が今後も真であるかどうかはわかりません。ブレークスルーには新たな研究手法の開発が必要です。簡単に発見できる部分はすでに発見されてしまい、新たな発見はますますテクニカルに困難になってきています。
研究活動を投資とみる以上、そこに投資した額とリターンがそれなりに見合う必要があると思いますけど、投資額はともかく、リターンを評価することは容易ではありません。また、基礎科学の性質上、これまでの成果をもって未来のリターン率を推測することも不可能です。そう考えると、「基礎研究は投資である」という考えも、例えば、株式や不動産に投資する場合と比べると、少なくとも同じレベルでは比較できない類いのものであると思います。
数年前、ある日本人研究者の人が熱帯魚の縞模様がどういうメカニズムでできるのか、という疑問に対して、反応-拡散モデル(だったような気がします)をつかったシミュレーションモデルを提唱してNatureに論文が掲載されたのを覚えているのですけど、その著者の人は、「自分にとって、科学はエンターテイメントだ」とインタビューで述べていました。基礎科学研究とはどういう活動かという疑問に対して、現在、私が抱いている感覚に最も近いのが、この言葉ではないか、と思います。少なくとも、私は彼の論文を見て(細部はよく理解できなかったので読んではいません)「へー、面白いなあ」と楽しませて貰いました。現在、購読中の科学雑誌は、自分の仕事に直接役に立つことは殆どありませんけど、私は論文や記事は、娯楽として読んでいます。
科学の活動が国や世界のレベルで成り立つためには、数多くの研究者が、様々な研究を行って、その成果を発信していくことが不可欠であり、そうした活動を通じて、国々どうしはお互いを認め合うという面があります。例えば、日本が国家としてこういう活動をサポートしないというのであれば、日本は世界の科学社会からは少なくともはじき出されて、友だち付き合いしてもらえなくなるでしょう。村八、ですか。私はそれ(村八にされないこと)が、国が科学活動をサポートする最大の理由であると思います。(私は、国民の多数が科学活動という点で、国際社会から対等に扱ってもらえなくなっても構わない、というのなら、反対はしません。村八、おおいに結構と思っております)資源のない日本だから科学技術は大切だ、科学技術立国とか言いますけど、投資活動であるにせよ事業にあるにせよ、科学活動を直接的、間接的に金と結びつけて議論するのは、マイナスだと思います。科学は基本的にエンターテイメントであり、若旦那の道楽の延長だ、というのが、本来の姿ではないかと思うのです。道楽の中でごく稀に一般の人にも役に立つようなものが出てくることがある、そういう様なものだと思っています。しかし、何か役に立つ様なものをつくりだそうとして道楽するのではなく、あくまでそれは、道楽の副産物に過ぎないのです。こういう研究活動の見方は研究活動を投資と見る場合と明らかに重点の置き場所が違います。
それではその道楽になぜ、国民の税金が使われるのか、某バイオテクノロジー記者の人でさえ、「好きな研究をやりたいのなら、身銭を切っておやりなさい」というような見識ですから、一般国民が、苦しい生活の中からの税金を、どうして道楽に費やさねばならないのか、と思うのは尤もです。私は、これについては、研究活動というものは「国際道楽者クラブ」のメンバーシップを手に入れるために行うものであると理解するのが良いのではないかと思うのです。国際社会からの村八に恐怖感をもつ人は多いでしょう。科学や芸能に対する理解の乏しい国に対して、国際社会は「不気味さ」を感じると思います。それでは国益を損なうことになるでしょう。研究活動に国が金を出すということは、「日本も、他の先進国同様に、(投資と考えるならば余りに効率の悪い)研究活動を、エンターテイメントとして支援していますよ、同じ道楽仲間ですよ」というメッセージを国際社会に発しているのだと思います。国境を問わない科学や芸術は、そうして外交に貢献しているのではないか、そんな風に考えております。
基礎科学研究を、経済的な見返りを考えて支援するのではなく、先進国の「嗜み」と考えてはどうでしょうか?先進国仲間であるためには、それなりの服装をし、芸術を愛好し、科学を理解することが必要なのだと思います。これは、リベラルアーツの大学に金持ちの子女が通うのと同様ではないかと思います。彼らは実用的な技術や資格が手に入るわけでもない大学に高い授業料を払って通います。実際的な日常生活には余り役に立たないと思われるような「教養」を得、上流社会のメンバーとしての嗜みを育むために、そういった学校に行きます。つまり、同じ社会階層の人々とうまくつき合っていくために必要なふるまい方を身につけるわけです。そんな一見、役に立ちそうにない教養は、結局は、彼らが裕福層の中で仲間とみなしてもらえることによる多大な利益に間接的に貢献すると考えられますから、これは「投資」活動でもあります。同様に、芸術や科学は国際社会で国が仲間として認められてもらうために必要な教養であり、国際社会で認められることは、国の利益に繋がる、そう思えば、科学や芸術に税金を使う意味も多少は納得してもらえるのではないかと思うのです。
また仮に、研究活動が一般社会に何の直接的な利益を生み出さない単なる道楽活動であったとしても、私はその有用性に対する信頼は揺らぎません。若旦那から道楽を取り上げたら、何が残るかを考えてみたら、道楽の有用性もわかろうというものです。よく学び、よく遊べといいます。遊ぶことを知らないと十分に働けません。遊び、道楽はある程度、必要なものです。実際に基礎科学研究支援を国が行わないとなったらどういうことが起こるでしょうか?まず、大学が潰れます。研究活動無しに教育が生き残るはずがないからです。それでも大学が残ったとしたら、それは大学ではなく、いい年をした若者がやってくる小学校と変わりありません。その傾向は実用学科を教える所でより著しくなると思います。例えば、医学部では、研究ができなくなって診療と教育だけが残ったとすると、それでも薄給に耐えて大学に残りたいというような奇特な人はまずいないでしょう。そして、結果、医学教育そのものが壊滅し、日本から医者も技術者もいなくなるでしょう。
ですので、私の思う国の基礎科学研究支援というのは、これまでの一極集中型ではなく、大学運営費のような型で広く浅くばらまいた上で、その上に競争資金を積み上げるというボトムアップ式でなければならないと思います。金を削らねばならないのなら、政府主導の大型プロジェクトから削り、比較的少額の研究費を多く残すべきであると思います。そうでないと、長期的には日本の研究システムは崩壊してしまうでしょう。
例の事業仕分けで、科学研究に対する予算の「ムダ」をどう判断するのか、という問題で、研究者業界は議論が沸いています。スーパーコンピューター開発プロジェクトが槍玉に上がりました。このプロジェクトの意義を素人にも理解してもらうのは難しいでしょう。医師によるインフォームド コンセントのようなものです。結局は知識に差がある者同士の理解というのは、対等の関係では起こらず、知識の量による力関係が決めてしまうことになります。「ベストの治療をしますから、任せておきなさい」「はい、それではよろしくお願いします」という一昔前の医師と患者の関係は、インフォームド コンセントが導入されたからといって変化しているわけではないと思います。治療の内容やリスクや効果について説明したと、医師側は思っていても、治療に対する同じ認識を患者側が持つことは、まず期待できないでしょう。患者は病気が治るかどうかという一点で医療の成否を判断しようとするでしょうし、医師側は、医学的に「正しくベストと考えられる医療」をしたかどうかが最優先であって、その結果として病気が治るか治らないかに責任をとることは出来ません。研修医のとき、不治の病にかかったヤクザの親分の娘を担当した同僚が、「絶対に、お嬢さんを助けてやって下さいよ!(もし、助からなかったら、どういうことになるか、先生、わかっとるでしょうな)」と組の者にスゴまれた、という話を思い出します。
仕分け人に科学事業を説明する方も、医学知識の乏しい組の者に不治の病を説明するような難しさがあるのではないかと思います。科学コミュニケーションという分野もあるそうです。一般の人にもっと税金で支援されている研究のことをわかってもらおうという趣旨のようです。それが、子供の科学とか科学朝日やScientific Americanのように科学を娯楽として一般人に楽しんでもらうという活動であれば、私は賛成なのですけど、一般人に専門家の仕事を評価できるようになってもらおうというような趣旨なのであれば、ちょっとそれは僭越でないかと私は思います。
一方、基礎科学研究は投資活動であって、コストと利益の比(B/C)をもって、遂行か廃止を決めるような他の事業と同列に議論すること自体がナンセンスだ、というようなことを言っていた野依さんの意見は尤もです。私も、以前は基礎科学は投資活動であると思っていました。歴史的に振り返ってみると、(やっている本人でさえ)よく価値がわからない研究を、主に好奇心にかられて、続けている間に思いもかけない発見がなされて、その発見が実地に応用されてきました。科学上のブレークスルーも医学上の有用な発見も、殆どといって良いぐらい、偶然の産物です。そういう歴史的観点から、有用性については現時点では明らかでは無いけれども、面白そうな研究はとりあえずサポートしておくと、稀に瓢箪から駒が出る事もある、という経験則に基づいて、「基礎研究は投資である」という言明がなされるのであろうと私は思います。しかし、この経験則が今後も真であるかどうかはわかりません。ブレークスルーには新たな研究手法の開発が必要です。簡単に発見できる部分はすでに発見されてしまい、新たな発見はますますテクニカルに困難になってきています。
研究活動を投資とみる以上、そこに投資した額とリターンがそれなりに見合う必要があると思いますけど、投資額はともかく、リターンを評価することは容易ではありません。また、基礎科学の性質上、これまでの成果をもって未来のリターン率を推測することも不可能です。そう考えると、「基礎研究は投資である」という考えも、例えば、株式や不動産に投資する場合と比べると、少なくとも同じレベルでは比較できない類いのものであると思います。
数年前、ある日本人研究者の人が熱帯魚の縞模様がどういうメカニズムでできるのか、という疑問に対して、反応-拡散モデル(だったような気がします)をつかったシミュレーションモデルを提唱してNatureに論文が掲載されたのを覚えているのですけど、その著者の人は、「自分にとって、科学はエンターテイメントだ」とインタビューで述べていました。基礎科学研究とはどういう活動かという疑問に対して、現在、私が抱いている感覚に最も近いのが、この言葉ではないか、と思います。少なくとも、私は彼の論文を見て(細部はよく理解できなかったので読んではいません)「へー、面白いなあ」と楽しませて貰いました。現在、購読中の科学雑誌は、自分の仕事に直接役に立つことは殆どありませんけど、私は論文や記事は、娯楽として読んでいます。
科学の活動が国や世界のレベルで成り立つためには、数多くの研究者が、様々な研究を行って、その成果を発信していくことが不可欠であり、そうした活動を通じて、国々どうしはお互いを認め合うという面があります。例えば、日本が国家としてこういう活動をサポートしないというのであれば、日本は世界の科学社会からは少なくともはじき出されて、友だち付き合いしてもらえなくなるでしょう。村八、ですか。私はそれ(村八にされないこと)が、国が科学活動をサポートする最大の理由であると思います。(私は、国民の多数が科学活動という点で、国際社会から対等に扱ってもらえなくなっても構わない、というのなら、反対はしません。村八、おおいに結構と思っております)資源のない日本だから科学技術は大切だ、科学技術立国とか言いますけど、投資活動であるにせよ事業にあるにせよ、科学活動を直接的、間接的に金と結びつけて議論するのは、マイナスだと思います。科学は基本的にエンターテイメントであり、若旦那の道楽の延長だ、というのが、本来の姿ではないかと思うのです。道楽の中でごく稀に一般の人にも役に立つようなものが出てくることがある、そういう様なものだと思っています。しかし、何か役に立つ様なものをつくりだそうとして道楽するのではなく、あくまでそれは、道楽の副産物に過ぎないのです。こういう研究活動の見方は研究活動を投資と見る場合と明らかに重点の置き場所が違います。
それではその道楽になぜ、国民の税金が使われるのか、某バイオテクノロジー記者の人でさえ、「好きな研究をやりたいのなら、身銭を切っておやりなさい」というような見識ですから、一般国民が、苦しい生活の中からの税金を、どうして道楽に費やさねばならないのか、と思うのは尤もです。私は、これについては、研究活動というものは「国際道楽者クラブ」のメンバーシップを手に入れるために行うものであると理解するのが良いのではないかと思うのです。国際社会からの村八に恐怖感をもつ人は多いでしょう。科学や芸能に対する理解の乏しい国に対して、国際社会は「不気味さ」を感じると思います。それでは国益を損なうことになるでしょう。研究活動に国が金を出すということは、「日本も、他の先進国同様に、(投資と考えるならば余りに効率の悪い)研究活動を、エンターテイメントとして支援していますよ、同じ道楽仲間ですよ」というメッセージを国際社会に発しているのだと思います。国境を問わない科学や芸術は、そうして外交に貢献しているのではないか、そんな風に考えております。
基礎科学研究を、経済的な見返りを考えて支援するのではなく、先進国の「嗜み」と考えてはどうでしょうか?先進国仲間であるためには、それなりの服装をし、芸術を愛好し、科学を理解することが必要なのだと思います。これは、リベラルアーツの大学に金持ちの子女が通うのと同様ではないかと思います。彼らは実用的な技術や資格が手に入るわけでもない大学に高い授業料を払って通います。実際的な日常生活には余り役に立たないと思われるような「教養」を得、上流社会のメンバーとしての嗜みを育むために、そういった学校に行きます。つまり、同じ社会階層の人々とうまくつき合っていくために必要なふるまい方を身につけるわけです。そんな一見、役に立ちそうにない教養は、結局は、彼らが裕福層の中で仲間とみなしてもらえることによる多大な利益に間接的に貢献すると考えられますから、これは「投資」活動でもあります。同様に、芸術や科学は国際社会で国が仲間として認められてもらうために必要な教養であり、国際社会で認められることは、国の利益に繋がる、そう思えば、科学や芸術に税金を使う意味も多少は納得してもらえるのではないかと思うのです。
また仮に、研究活動が一般社会に何の直接的な利益を生み出さない単なる道楽活動であったとしても、私はその有用性に対する信頼は揺らぎません。若旦那から道楽を取り上げたら、何が残るかを考えてみたら、道楽の有用性もわかろうというものです。よく学び、よく遊べといいます。遊ぶことを知らないと十分に働けません。遊び、道楽はある程度、必要なものです。実際に基礎科学研究支援を国が行わないとなったらどういうことが起こるでしょうか?まず、大学が潰れます。研究活動無しに教育が生き残るはずがないからです。それでも大学が残ったとしたら、それは大学ではなく、いい年をした若者がやってくる小学校と変わりありません。その傾向は実用学科を教える所でより著しくなると思います。例えば、医学部では、研究ができなくなって診療と教育だけが残ったとすると、それでも薄給に耐えて大学に残りたいというような奇特な人はまずいないでしょう。そして、結果、医学教育そのものが壊滅し、日本から医者も技術者もいなくなるでしょう。
ですので、私の思う国の基礎科学研究支援というのは、これまでの一極集中型ではなく、大学運営費のような型で広く浅くばらまいた上で、その上に競争資金を積み上げるというボトムアップ式でなければならないと思います。金を削らねばならないのなら、政府主導の大型プロジェクトから削り、比較的少額の研究費を多く残すべきであると思います。そうでないと、長期的には日本の研究システムは崩壊してしまうでしょう。