昨日、ちょっとした研究上の決断を下さないといけなくなって、あれこれ考えて決めかねて机の前でしばらく凍りついておりました。結局、結論を出しかねて、とりあえず判断は保留して、その後、トイレに隠っていた時、すっと霧が晴れたように、決断できました。
昔から、「枕上、鞍上、厠上」と言って、良いアイデアは、ベッドの上か通勤電車の中かトイレの中で出ることになっていますが、これは私の場合もそうです。私は、机の前にじっと座って読書するということが出来ないので、本や論文を読むのは、バスと電車の中に限られています。最近は、この読書の時間の20%ぐらいは、読書に当てず、ものを考える時間にしています。研究上の新しいアイデアは多くの場合、自然に湧いてくるので、困らないのですけど、結局、それらのうちのどれを追求するかという決断は困難です。とりわけ、経済の良くない現在、その研究で、グラントがとれるかどうか、インパクトのある研究成果がでるかどうか、など、純粋に自分の興味とは別の部分の制約を折り合いをつける必要があります。そんな時に、どういう研究アイデアを選択をするか、という決断は重要です。振り返れば、「あの時、バスの中でこのアイデアを追求すると決断していなければ、研究者人生は終わっていただろう」と思いだされるような瞬間が何度かあります。一方、机の前でデータを見ながら論理的に下す決断が正しかったことは滅多にありません。不思議な事に、論理的に正しいと思えるが実際的には誤った決断というものには、論理に対する信頼過剰によるものか、むしろ感情的な思い入れが入ってしまって、捨てる決断が却って困難になるものです。むしろ、直感に支えられた決断には、思い入れが入らず、その後もより客観的に評価ができて、正しい方向に進むことが多いように思います。人間の直感というのは、おそらく、論理や数字に乗らない数多の情報に基づいてなされる、極めて高度な判断機構なのではないかと私は思います。以来、決断に迷った時は、机の前では決断はしない、必ず、まずトイレに行って、それでもダメなら、バスに乗って帰って、一晩寝てから、もう一度、トイレの中で考え直すようにしています。
杉浦日向子さんの漫画で、葛飾北斎の娘のお栄が、締め切り前日に龍の絵が描けずにいると、歌川豊国門下の絵師、国直がそれを見て、こう言います。
「お栄さん、龍ですかい? 龍はコツがありやす。
筆先でかき回しちゃあ弱る、頭で練っても萎えちまう。
コウただ待って…… 降りて来るのを待つんでさ。
来たてえところで、一気に筆で押さえ込んじまう。
他の生き物たあ違うんでね、とらまえ方もちがいやす」
研究のアイデアや決断というのも、こういう類いのものではないかと思います。そういったものの一番大切な部分は、自分の頭の外にあって、じくじく考えていると、その内、思いもかけない時に、舞い降りてくるのだと思うのです。それが何故トイレやバスの中でないといけないのか、不思議ではあります。
研究は相変わらず進みません。トンネルの出口が見えません。何かが舞い降りてくるのを待つ以外に、とにかく、できることを坦々とやろうとしておりますが、こんな時は、自分は何のために苦しんでいるのだろうと情けなくなることもしばしばです。
いまだに「悲しき熱帯」の下巻を読んでいるのですけど(バスと電車に乗っている時間が限られているので)、その最終章の一部、ブラジルを後にしようとするレヴィ=ストロースの言葉が身に染みます。
何をしにここまでやって来たのだ?どんな当てがあって?何の目的のために?民俗学の調査というのはそもそも何なのか?、(中略)、、
私がフランスを去ってから、もうやがて5年になろうとしていた。私は大学の職を放棄していた。このあいだに、もっと賢明な私の同窓生たちは、大学人としての梯子を先に登っていた。私もかつてそうだったように、政治に関心を持っていた連中はもう議員で、やがて大臣というところだった。そして私はといえば、僻地を走り回り、人類の残りかすのようなものを追い求めているのだ。一体誰が、または何が、私の人生の全うな進路を爆破するように私を仕向けたのか?、、(後略)、、
ブラジルの未開の部族の厳しい生活の様子を読むと、「生きる」ということは大変なことなのだなあ、とあらためて実感されます。「生きる」ということは、黒澤明の映画のようなものではないのだと思わされます。私や(レヴィ=ストロース)は「全うな進路」などがあると思える社会にいるだけ幸せなのでしょう、そう思いました。
ところで、今週半ばから十日余り、出張しますので、その間、しばらく日記の更新はしない予定です。
昔から、「枕上、鞍上、厠上」と言って、良いアイデアは、ベッドの上か通勤電車の中かトイレの中で出ることになっていますが、これは私の場合もそうです。私は、机の前にじっと座って読書するということが出来ないので、本や論文を読むのは、バスと電車の中に限られています。最近は、この読書の時間の20%ぐらいは、読書に当てず、ものを考える時間にしています。研究上の新しいアイデアは多くの場合、自然に湧いてくるので、困らないのですけど、結局、それらのうちのどれを追求するかという決断は困難です。とりわけ、経済の良くない現在、その研究で、グラントがとれるかどうか、インパクトのある研究成果がでるかどうか、など、純粋に自分の興味とは別の部分の制約を折り合いをつける必要があります。そんな時に、どういう研究アイデアを選択をするか、という決断は重要です。振り返れば、「あの時、バスの中でこのアイデアを追求すると決断していなければ、研究者人生は終わっていただろう」と思いだされるような瞬間が何度かあります。一方、机の前でデータを見ながら論理的に下す決断が正しかったことは滅多にありません。不思議な事に、論理的に正しいと思えるが実際的には誤った決断というものには、論理に対する信頼過剰によるものか、むしろ感情的な思い入れが入ってしまって、捨てる決断が却って困難になるものです。むしろ、直感に支えられた決断には、思い入れが入らず、その後もより客観的に評価ができて、正しい方向に進むことが多いように思います。人間の直感というのは、おそらく、論理や数字に乗らない数多の情報に基づいてなされる、極めて高度な判断機構なのではないかと私は思います。以来、決断に迷った時は、机の前では決断はしない、必ず、まずトイレに行って、それでもダメなら、バスに乗って帰って、一晩寝てから、もう一度、トイレの中で考え直すようにしています。
杉浦日向子さんの漫画で、葛飾北斎の娘のお栄が、締め切り前日に龍の絵が描けずにいると、歌川豊国門下の絵師、国直がそれを見て、こう言います。
「お栄さん、龍ですかい? 龍はコツがありやす。
筆先でかき回しちゃあ弱る、頭で練っても萎えちまう。
コウただ待って…… 降りて来るのを待つんでさ。
来たてえところで、一気に筆で押さえ込んじまう。
他の生き物たあ違うんでね、とらまえ方もちがいやす」
研究のアイデアや決断というのも、こういう類いのものではないかと思います。そういったものの一番大切な部分は、自分の頭の外にあって、じくじく考えていると、その内、思いもかけない時に、舞い降りてくるのだと思うのです。それが何故トイレやバスの中でないといけないのか、不思議ではあります。
研究は相変わらず進みません。トンネルの出口が見えません。何かが舞い降りてくるのを待つ以外に、とにかく、できることを坦々とやろうとしておりますが、こんな時は、自分は何のために苦しんでいるのだろうと情けなくなることもしばしばです。
いまだに「悲しき熱帯」の下巻を読んでいるのですけど(バスと電車に乗っている時間が限られているので)、その最終章の一部、ブラジルを後にしようとするレヴィ=ストロースの言葉が身に染みます。
何をしにここまでやって来たのだ?どんな当てがあって?何の目的のために?民俗学の調査というのはそもそも何なのか?、(中略)、、
私がフランスを去ってから、もうやがて5年になろうとしていた。私は大学の職を放棄していた。このあいだに、もっと賢明な私の同窓生たちは、大学人としての梯子を先に登っていた。私もかつてそうだったように、政治に関心を持っていた連中はもう議員で、やがて大臣というところだった。そして私はといえば、僻地を走り回り、人類の残りかすのようなものを追い求めているのだ。一体誰が、または何が、私の人生の全うな進路を爆破するように私を仕向けたのか?、、(後略)、、
ブラジルの未開の部族の厳しい生活の様子を読むと、「生きる」ということは大変なことなのだなあ、とあらためて実感されます。「生きる」ということは、黒澤明の映画のようなものではないのだと思わされます。私や(レヴィ=ストロース)は「全うな進路」などがあると思える社会にいるだけ幸せなのでしょう、そう思いました。
ところで、今週半ばから十日余り、出張しますので、その間、しばらく日記の更新はしない予定です。