百醜千拙草

何とかやっています

不生と不滅

2010-01-01 | Weblog
数日前のクリスマスに起きたデルタ/ノースウエスト航空でのテロ未遂事件でのニュースは、「どうして、犯人が、テロリストリストに名前が載っているイスラム系ナイジェリア人で、片道の航空券を現金で買うという珍しい行動をとり、その親も犯人がテロ行為に及ぶ可能性があるという知らせを各責任局に連絡まででしたというのに、飛行機内で事件が起こるまで誰もこの犯人を止めることがなぜできなかったのか?」という空港セキュリティーのシステムに対する非難に終始しています。これからは、搭乗前は全員が荷物の綿密なチェックを受け、飛行中はトイレにもいけず、コンピューターも使えず、両手は常に出しておかねばならなくなるそうです。
 こういう風な方向に流れるのは仕方がないのですけど、これではイタチごっこですね。テロリストは相手のシステムを見てから、その穴を見つけて、そこを突いてくるわけですから、いくら警備を厳重にしようとやる気さえあれば、テロ行為は可能です。航空機の自爆テロなど、ナイフ一本で可能になるのは、9/11のテロのやり口を見ても分かります。しかし、「テロを防ぐ方法は基本的にはない」という事実を、立場上、アメリカ国防省や空港は、受入れることは、もちろんできません。
 同様の事例は他にも多く見られます。例えば、交通事故はどうでしょうか?車の安全装置がいくら進化しても、交通事故死は減りません。医療過誤はどうでしょうか?いくら安全確認システムを導入しても医療過誤は起こります。「医療過誤はどうやっても防ぎようなく、ある確率でおこるものだ」と考えるのが、医療行為を経済活動として解析する人々の中では常識です。医療過誤でおこる諸問題をできるだけスムーズに解決するためには「医療過誤は必ず一定の率でおこる」というリスクを最初から医療活動そのものものの中に織り込んでおくのが現実的であります。同様に「テロは必ず起こり、防ぎようがない」ということを一般の人が、現代社会のリスクとして受入れれば、世の中はもっと楽になるはずです。
  テロリストは敵で倒さなければならない、病気とは闘わなければならない、こういう考え方は、二元論的に自己と他を区別する西洋の根本的な考え方に由来していると思います。聖書的には、アダムとイブが林檎を食べた時に、自と他、男と女、善と悪が生じ、この二項対立が際限なく増殖していって、現在に至るという訳です。テロリストと社会という二項対立において、現在の西洋社会の脅威となっているイスラム系テロリストをもしも仮に殲滅できたとして、次におこることは何でしょうか?言うまでもなく、西洋社会の内部もしくは別の場所に、新たなテロリストが違う形で現れるというだけのことでしょう。このことは、医療現場の院内感染で、「抗生物質を使えば使うほど、多種の抗生物質耐性のもっとやっかいな菌種が生えてくる」というのに似ています。空港セキュリティーの強化というのは、こういう治療方針と相似だと思います。そのうち、これが度を越えると(すでに越えつつありますけど)、治療は完璧だったが、患者は死んだということになります。つまり、テロという不可避の事態を根絶するために、航空システムそのものに強過ぎる負荷をかけることになるということです。それはやがて、航空システムそのものを破壊してしまうのではないかと思います。
  テロと西洋社会という対立は、テロへの警戒を強めれば強めるほど、より激化していくのではないかと思います。その対立の果ては虚しいです。テロリストはより過激な方法で社会を破壊しようとし、社会はそのテロを防ぎ、テロリストを殲滅しようとして、過大な負荷をそれ自身にかけようとするでしょう。双方の対立がエスカレートすればするほど、双方に、より強いダメージが蓄積していくだけです。
  対立解消への答は簡単なのですけど、実践は困難です。それに関して、昨日読み返していた本の中から、盤珪の話を書き留めておきたいと思います。
  江戸時代の禅匠、盤珪は、儒教の古典の一つである『大学』の中の「大学の道は明徳を明らかにするにあり」という一節にひどく悩み、「明徳とはなにか」を求めて、師を求め、苦行をしました。その苦行のためにあやうく死にかけた時、盤珪は、忽然として、苦行が何の意味もないことに気づき、そして、「すべて『不生』でかたがつく」という悟りを得ることになります。その『不生』について、盤珪は次のように言っています。

 「皆さんの誰もが親から受継いでいるものは『仏心』にほかならない。この心は決して生まれなかったもので、決定的に智慧と光明(霊明)に満ちている。生まれぬがゆえに決して死なない。しかし私はそれを『不滅』とは言わない。仏心は不生であり、この不生の仏心により、一切のことが完全に整うのである」

  不滅と不生の差、これが西洋と東洋の考えの差なのかも知れません。自己が生まれれば、自然と他が生まれます。自己の不滅を願えば、自己を攻撃する他を滅するしかありません。このジレンマを解決するには、不滅ではなく不生でなければならない、というのが盤珪の悟りの本体なのであろうと思います。(もっとも、仏教では不生不滅と、これらの言葉は同様の意味を表し、盤珪自身も「不生」である以上「不滅」であるのは自明であって、よってわざわざ「不滅」という言葉を使わないのだ、とも言ってはいますけど)
 二項対立、二元論が生まれてくる前を徹見せよ、というのは仏教での根本的な考え方です。それが、「隻手の声(両手を打ち鳴らす前の片手の音を聞くこと)」であり、「父母未生以前の消息(父も母も生まれる前、その子供はどこにいたのか)」というような公案となっています。そう考えると、現代社会のあり様はますます、間違った方向へ向かっているようです。
 そもそも、アメリカが現在の覇権を手にしたのは、自らの土地に他の国々からの移民を受入れ、彼らをその一部に取り込むという決断をしたからだと思います。即ち、固定的な自己を殺し、自と他の境界を流動的にしてシステムとしての柔軟性を図ったからです。イギリス清教徒の国という自己の死と引き換えに、他を入れることによって、多民族国家として生まれ変わることを繰り返し、アメリカは大きくなってきました。対立をそのまま包含するような自己をその都度設定していくことによって対立を昇華解決してきました。
 このことは、「一粒の麦も地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなむ、死なば多くの実を結ぶべし」という聖書の言葉を思い出させます。
 しかし、そうして結んだ多くの実は、それからどうなるのでしょうか?アメリカは一粒の麦を殺して、もっと多くの実を結ばせることを繰り返して、大きくなってきました。しかし現在、アメリカというシステムは大きくなりすぎました。それが、近年のイスラム系テロが顕在化した理由ではないかと私は思うのです。どんどん麦の実を増やすことが、世界という農場にとって、脅威となって来ており、テロはその増えすぎた麦の実に対する「非-麦の実-社会」の反応として起こっているのではないか、と想像するのです。
 このコンテクストにおいて、「不生」は、「一粒の麦を見よ」と教えていると考えられます。地上の一人一人が、我々個人や社会が一粒の麦であることを思い出すことが出来るのなら、世界は確実に良くなるであろうと思います。
 最後に、無難 (1603 - 1676) の句をひいて、2010年が良い年となることを祈ります。

生きながら 死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき

(蛇足ながら、生きながら死人となることが、不生の実践であります)
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