百醜千拙草

何とかやっています

吉兵衛の話

2010-01-12 | Weblog
前回、鳩山内閣の不満をボヤいてみました。鳩山氏のリーダーシップ不足に足並みそろわぬ民主党、一丸となって頑張っているという気迫がイマイチ足りないのが不満なのですけど、先週末、更に神経を逆撫でするようなニュース。

民主党の渡部恒三元衆院副議長は8日、福島市のホテルで講演し、鳩山由紀夫首相の政権運営について「頼りないと批判を受けているが、後ろにおっかねえしゅうと様がいるから、かわいそうだ」と述べ、政権内で発言力を強める小沢一郎幹事長を暗に批判しながら首相に同情してみせた。

 脱力しますね。前内閣では、講演での大臣の失言がもとで次々と更迭されたというのに。口は禍いの元、早速、民主党攻撃メディアに揚げ足とられてます。この方のあだ名は「おしゃべり恒三」というらしいです。
  後ろに小沢さんがいることぐらい、わざわざ身内が言わなくても、日本国民全員知っていることで、それを見ないふりして、総理を立てるのが、大人の態度というものです。同じ角栄の弟子で東北出身ということで、小沢一郎には私怨も妬みもあるのかも知れませんけど、身内でありながら、こういうことをしてはいけません。
 こんなことだから、いつまでたっても日本の政治は三流と言われ続けて、政党制でなく単なる派閥間権力争い、国会といえばただのヤジの飛ばし合いで、弱い者いじめと仲間はずれの子供のケンカというレベルから上にいけないのでしょうか。
  国のことを考えるのが国会議員なのだから、大きな視点を持って、その上で発言して欲しいものです。国会議員に限らず、日本に欠けているのは、長期的視野と大局観ではないかと思います。

ところで、このニュースを聞いての連想ゲームで、思い出した物種吉兵衛の話を書き留めておきたいと思います。
 物種吉兵衛(ものだねきちべえ 1803-1880)は大阪の商人で在家の浄土真宗信者ですが、死の問題と取り組んだ人で、「吉兵衛言行録」という本にその言葉が残されています。物種吉兵衛のように、比較的教育の乏しい人で念仏の教えによって安心を得た人のことを妙好人と呼ぶのだそうです。
  吉兵衛は、平生業成(生きながらにして往生の安心を得ること)を願い、数多くの師を訪れました。吉兵衛が終に安心を得たのは、大阪の西方寺の僧が「領解文」という短いテキストを使って吉兵衛をテストしていたときでした。
 「どうしても安心が得られません。このままでは死んでゆけませぬ」との吉兵衛の訴えに、
「死ぬことができればよいのかな」と言って、西方寺の僧は領解文を取り出します。
  領解文は「絶対他力」を教えるもので、往生の安心への願い、領解文を聞きたい、という念でさえ「自力」から発するとして否定するものだそうです。

(ところで、他力というと、自己努力の放棄のように聞こえますが、それは表面的な誤解だと思います。往生は自己が世界と一体化するところにあるのであって、その時には自己は消え去って、自も他もない「一」があるだけです。ですので、他力というのは自力という言葉に対する方便で、自己、自力を消し去るという意味であり、決して自己とは別にあるものを意味するものではなく、それは自己をも含んだOnenessとでもいうようなものであると思います、そのように、私は「他力」を理解しております。ですから、念仏でもキリスト教でも何でも、最終的には「他力」、即ち、自己を取り去り「無(かつ、全)」となること、でなければならない、と私は思います)

(自力で)安心を得、(自力で)死んでいこうとする、吉兵衛に、西方寺の僧は、「そのまま死んでいけば良いのだ」と言います。そして僧は最後にこう尋ねます。
 「あなたはまだ、私はそれを聞いた、という念を抱いているのではないか。あるいは、私は聞かされたという念をまったく捨てているのか」 これに対し、吉兵衛はこう答えます。
「私は、聞こえましたとも申し表せません。また聞こえませぬとも申し表すこともできません」
この答えによって、僧は吉兵衛が絶対他力の境地に達したのを認めたのでした。(聞いた、聞かされた、聞こえる、聞こえない、という念があるうちは、自他の区別が残っているという証拠です)

その吉兵衛とある一般人との問答。
「吉兵衛さん、あなたのようになったら、もう腹は立たないでしょう」
すると吉兵衛さんが答えた。
「腹は立ちますよ。凡夫だからね。でも、如来様に根を切ってもらっているから、実がならぬだけです」

腹が立つのは、人間である以上、自然なことです。人間である以上、腹も立てば、誰かを妬ましく思ったりもする、その辺を理屈でどうにかすることはできません。感情があることは人間である証拠であり、何かを「感じ、思う」ことそのものは人間にとって必要なことです。しかし、問題はそういったマイナスの感情に引きずられて起こす色々な厄介事です。
 「第二の矢に射られる」と言うような表現があります。何か気に喰わないことに出くわすことが第一の矢に射られるということならば、それだけに留まらず、それに余計な判断を加えて小さな不愉快を大きな問題にしてしまうようなことです。
 講演会で身内の悪口を言うのもそういうものの一つではないか、と私は思うのです。おしゃべり恒三の胸の内には、小沢一郎が気に喰わない、妬ましい、そういう思いが折りにつけ、涌くのでしょう。そういう思いが湧くのは仕方ないです。誰でもエゴというものがありますから。しかし、それは、そのままで終わりにして、自分の胸にとどめておくべきことで、講演会で他の人にしゃっべって、鬱憤晴らしをしようとしてはならぬのです。
 人間であれば、嫌なことは必ず起こります。それをいちいち根に持って、いらぬ実をならせてしまうようではいけません。 その辺が、吉兵衛さんとおしゃべり恒三との違いではないかと思ったのです。
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