百醜千拙草

何とかやっています

私のために声を上げるものは誰もいなかった

2010-11-09 | Weblog
この間、古本市で買い込みました。司馬遼太郎の「義経」と「胡蝶の夢」、秋の夜長に楽しむ予定です。あとは雑多に眼についたもの。ビジネス書を数冊。「成功者に学ぶ決断の技術」という本も買いました。「成功本」というのは玉石混交です。「成功」という言葉一つにしても、多くの人が想像する「経済的成功」や「職業的成功」といった物質的なものから、もっと広い意味で「精神的成長」とか「幸福の実現」とかいうような広い意味まで、個人によって解釈の幅もありますから、一概に、「成功本」とバカにしてはいけません。どんな類いのこの手の本でも学ぶ所はあります。この本は私、好感を持ちました。ボトムラインメッセージに目新しいことはありません。要は「自分の人生の全てに自己責任を負う」ことを徹底することが大切だということです。このことについては私も過去何度か書きましたし、「自分の人生におこることの全てを自分の責任として引き受ける覚悟をする」ことが、より有意義な人生を送り、目的を達成する秘訣であることに私も賛同します。たとえ分かっていることであっても、この手の本をときどき開いて、それを確認することは意義があると思います。
 それから、瀬戸内寂聴さんが1987年に、法話で般若心経を解説した「寂聴 般若心経」。私、個人的には、般若心経は、最後の真言の部分、パーリ語では「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハ」と読むらしいですが、この部分を除いて、現代日本口語訳にして、読むなり唱えるべきだと思います。そのままではよく意味がわかりません。現代口語訳にしたからと言って、その本意は簡単に理解できるものではないでしょうけど、書いてあることが全く意味不明よりはましではないか思います。無無明、亦無無明尽、(無明は無く、また無明が尽きる事も無い)などという表現、空というものは空であるということすら無いという考えは、字面だけ見て頭で意味がわかったところで、その本当の意を実感するのは難しいでしょう。仏教の教えは自ら体験して初めて理解されるものであり、お経の注釈書をいくら読んでも本当の理解に到達することはできないと言われます。しかし、逆に何らかの体験のある人は、お経がガイドになりうるのではないでしょうか。お経はいわば、昔の「成功本」のようなものかも知れません。
 そして、この本の終わりの方で、寂聴さんは「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」という一茶の句を紹介されていて、あなたとは仏のことだ、と述べられています。仏でも神でもイエスでもいいわけですが、われわれ人間は、遥かに大きな宇宙全体の生命とでもいうようなものの中の小さな存在である、大拙流に言えば、「蝦踊れども、升を出ず」ということでしょうか、そんな大きな視野から謙虚に自らを眺めることが、安心、ひいては平生業成に繋がるのだと思います。ここに大乗仏教の根本的な態度、「他力」の考えを見る事ができます。自力だと思っているようなことも自力以外の何かの助けがなければあり得ません。一生懸命努力して何らかを成し遂げたら、人は自らの力を感じます。しかし、一生懸命に努力できたのは、決して自分だけが偉いのではなく、一生懸命努力できるような環境を「誰か」に与えてもらったからではないでしょうか。現に、努力しても努力しても酬われない人、努力する機会さえ最初から奪われてしまっている人もあります。そんな環境や条件は多くの場合、自分の力で選び取ったりすることはできません。結局、与えられた環境の中で人は一生懸命、考えて努力するだけのことで、その努力の結果が何らかの業績に結実するかしないかは、天の采配です。精一杯やって、あとは、「あなたまかせ」にするしかありません。グラント危機の時に私はそれが身にしみてわかりました。
 最近読んだMariana Caplanの「Eyes Wide Open」という本で次のような会話を知りました。

空のプールの前で先生が弟子に言った。
『飛び込め!」
「飛び込めませんよ!」と弟子、「水が無いじゃないですか」
 先生は言った。
「まず、先に飛び込むのだ。そうすれば水は現れる」

まずは与えられた中で、精一杯やること、そうすればあとは天が面倒を見てくれるということでしょうか



さて、民主主義の危機にある日本ですが、11/5、夕刻に、小沢氏の国策捜査に抗議する、二度目の市民デモが行われました。 「11・5 第2回 検察、検審を糾弾するデモ マスコミの偏向報道を許さない」 というわけで、今回は、マスコミの偏向、捏造報道に対して、特に抗議をするという集まりでした。1200人という10/24のデモ以上の参加者と盛り上がりを見せたようです。
 この、マスコミの報道姿勢を糾弾するデモ、もちろん、マスコミは黙殺。どうしようもない連中です。インターネットで探した写真でデモの様子をみると、デモのプラカードには「新聞止めますか、それとも人間やめますか」とか「テレビを見たら死ぬ」とかの文句が見えます。私も十年前だったら、こういう表現は大げさだと笑い飛ばしていたでしょうが、今は、情報を常に批判的に判断するする習慣を持たない人に対しては、これは決して誇張ではないと感じます。

大阪でもデモが計画されている様子です。
日時: 11月20日  集合10時45分~11時45分 デモ出発11時45分場所:靱公園(うつぼこうえん)また、全国各地で一斉デモの呼びかけもされているようです。国民主権を脅かす官僚やマスコミの表と裏の力を使った恐怖支配に反対し、国民主権を守りたいと思う方は是非ともご参加検討下さい。

いまのマスコミのニュースは尖閣諸島のビデオ流出で埋め尽くされています。内閣の危険人物、または検察当局に通じた海保の誰かが、検察批判への注意をそらす目的と日中関係悪化を図ってわざと流出させたのかもしれないと勘ぐりたくなります。(このビデオは6時間の撮影を編集したもので、カットされた5時間部分には、日本の四隻の巡視艦が、この中国漁船をいたぶるように追い込んだ所が本来映っていたらしいです)ところで、この流出した尖閣諸島の漁船衝突ビデオを見て、某東京都知事の勘違いオヤジは、「国民に広く情報が流れて、結構なことだ。尖閣諸島には自衛隊を置きたい」とか言う付ける薬のないコメントしたそうです。北方領土へのロシア大統領訪問では、挑発に乗って、ロシア大使を一時帰国させたとか。パブロフ犬並みの脊髄反射的反応をする日本政府をロシアはおちょくっているのでしょう。クレムリンでは、日本の内閣のマで始まる名前のくせにマが抜けている単純バカの人と外務省を肴に大笑いしているでしょう。
 政治家も官僚も権力闘争や保身ばかりに気をとられて、本当に有能で日本のことを考えている人々の力を奪ってきました。ここで、ロシアとの交流を続けて来た鈴木宗男氏が内閣や外務省にアドバイスできる立場にあれば、随分違ったでしょう。あるいは、そういう体制であったなら、ロシアは最初から挑発してこなかったとも思えます。

もう止めましょう。今の日本の政府、検察を例とする官僚組織、を見れば見るほど、生きているのが嫌になります。悪口を言うのも疲れました。アホウの悪口を言うよりも、もっと生産的なこと、せめて日本の民主主義のために多少なりとも役に立つことをしたいものだと思います。

最後に、The Journalの記事からの再転載(http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/11/post_694.html)ですが、「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」(http://shiminnokai.net/index.html)のサイトに掲げられているドイツの神学者マルティン・ニーメラーの言葉を紹介しておきます。
いつまでも自分の目の前の牧草のことしか興味がない牧場牛は、遠からず、殺されて喰われてしまいます。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。

そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
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