「美味しんぼ」の雁屋哲さんのブログをたまたま開いたら、最近の内田樹さんがアエラに発表した文章に対しての批判的エントリーが二日連続ででていました。(内田先生ご乱心、いや本心か 内田樹氏の文章について)
私は、二人ブログを愛読しておりますので、興味深く読みました。あいにく、アエラに載った内田さんの文章は読んでいないので、私は内田さんの文章に対する雁屋さんの批判に対してアレコレ言う資格はないと思いますが、二三、勝手な事を。
雁屋さんは、内田さんの書いた文章がいまいち論理的に納得しにくく、その理由を推測されているようです。そして、その理由というのが(おそらく)個人的信条に反するものであったので、激しく反応してしまった、というような感じです。
ステロタイプな決めつけになるのを承知で独断的に言いますが、内田氏は哲学の出身であり、雁屋さんは作家です。大学の哲学科というところが、生物の研究室と同じようであるとすれば、そこは「哲学する」ことを学ぶ場所ではなく、「哲学した人々の仕事」にアレコレと注釈を加えるのを仕事とする場所だと思います。ちょうど、生物研究室が、生命とはなにか、を問う場所ではなく、生命をもつ物質の性質をアレコレと探るのを仕事としているのと同じです。哲学科の出身の人は「哲学」をせず、哲学者の仕事を評論する「評論家」ではないでしょうか。評論家は誰かの仕事を批評し評論し、新しい解釈を編み出す、のが仕事でしょう。一方、作家は、その仕事を産み出すその人です。何かを作り出すことが仕事です。ある意味、「哲学する人」そのものです。
この二人の文章を読んでいるとそんな風に思います。極論すれば、内田さんは「批評家」で、雁屋さんはいわば、「批評対象を生きる人」です。内田さんが、ある「お題」について、様々な解釈の仕方を披露して、世の中の見方の幅を拡げようとする。一方、雁屋さんは、世の中そのもの、を自分の声でより直接的に伝えようとする、自ら、フクシマへ行き、first handの体験として「福島の真実」を書く。そういうスタンスの違う二人にとっての「天皇観」の差が、この雁屋さんのエントリーとなったのでしょう。思うに、内田さんの天皇観は、間接的、フラグメンタルに醸成されたものであり、雁屋さんのは、もっと直裁な個人的体験に基づくものなのかも知れません。
私は、今の天皇に対して、特に強い思いは何も持っておりませんが、悪感情は全くありません。それこそ「政治利用」され、戦争に加担することになった昭和天皇と違い、「平成」の世に天皇となり、政治とは無関係なシンボルとしてこの二十数年、天皇をされてきた方です。皇太子時代から、軽井沢のテニスコートのエピソードなどを通じて、「人」として、芸能アイドルのように親しまれてきた方です。
私の祖父の家の居間には、神棚と明治からの天皇、皇后の写真が飾られていました。かつて、天皇は「現人神」として「偶像崇拝」の対象であり、政治の道具として利用されてきました。そこに「天皇の戦争責任」を問う根拠があるのだろうと思います。対して、現在の天皇は、国のシンボルとしての役割をただただ果たして来たと思います。天皇の生活が気楽なはずはないでしょう。でも、常に笑みを絶やさず、国事に参加される姿を見て、好感をもつ国民は多いであろうことは、想像できます。私もその一人です。
しかるに、アベ氏が既得権保持者の操り人形として、使われているのが分かっていても、一般国民は、この人にしか怒りをぶつける対象を見いだせないのと同様、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」との言葉に、かつては共に落涙したものの、戦争で殺された我が子を思い、その後、連綿と続く占領軍による搾取に晒されると、「戦争責任」を誰か特定の人間に求めたくなるのも人情です。そうした社会を生きてきた人、今も敗戦の屈辱を日々に味わっている人々が「天皇」といういう言葉に抱く感情はそれなりのものがあるでしょう。そんな人々が天皇に根拠の薄い思慕を寄せる人々に批判的になるのはやむを得ないだろうと思います。
この雁屋さんのエントリーから、抜き書きしておきます。
雁屋さんは、天皇に対する恋闕の情を抱き、もって偶像崇拝の対象とし、天皇を政治利用する青年将校、を思い出して、「口にするのもおぞましい」と言われたのでしょう。また、2.26事件を過去の歴史、あるいは批評の対象として認識する人と、その事件のエッセンスが現在社会にも受け継がれていることを直に感じている人間では、対象に対する危機感は違うでしょう。
続く二日目のエントリーでは、下のようなことが書かれています。
私も雁屋さんに同意します。雁屋さんは原発再稼働、TPP、秘密保護法など、自己破壊の道を選ぶ政権に「強い憤懣と、深い絶望感を懐いて」いる「今の社会を直に生きている」人です。「良心にしたがって立ち上がる精神」を尊ぶ人です。日本の思想に欠けているものは、直接的な行動性です。思想家が思想の領域、批評家が批評の領域のみに留まって自己完結してしまうことが短所だと言っています。日本的「奥ゆかしさ」といえば、そうかも知れませんが、それが園遊会で手紙を渡すことでさえ批判の対象とするというのでは、あまりに情けなくもみみっちい、と私は思います。
雁屋さんは、内田氏に批評の領域から危険を押して一歩を踏み出して欲しいと願っているのかも知れません。
私も、内田さんの折々の政権批判には深くうなづきますが、では「誰にその責任を求め、どう改善すべきか」という肝心の項目が議論されないことに不満を持っています。また、なぜかフクシマ原発事故という(私の意見では)現代日本でもっとも重要な事件について発言を余りされないことが不満です。「身が危ない」のでしょうが、どうせ、その内、人間は寿命が来て、死んで行くのですから、こういう影響力のある言論人の人にこそ、ズバリと核心をついてもらいたい、と私は期待しているのですが。
私は、二人ブログを愛読しておりますので、興味深く読みました。あいにく、アエラに載った内田さんの文章は読んでいないので、私は内田さんの文章に対する雁屋さんの批判に対してアレコレ言う資格はないと思いますが、二三、勝手な事を。
雁屋さんは、内田さんの書いた文章がいまいち論理的に納得しにくく、その理由を推測されているようです。そして、その理由というのが(おそらく)個人的信条に反するものであったので、激しく反応してしまった、というような感じです。
ステロタイプな決めつけになるのを承知で独断的に言いますが、内田氏は哲学の出身であり、雁屋さんは作家です。大学の哲学科というところが、生物の研究室と同じようであるとすれば、そこは「哲学する」ことを学ぶ場所ではなく、「哲学した人々の仕事」にアレコレと注釈を加えるのを仕事とする場所だと思います。ちょうど、生物研究室が、生命とはなにか、を問う場所ではなく、生命をもつ物質の性質をアレコレと探るのを仕事としているのと同じです。哲学科の出身の人は「哲学」をせず、哲学者の仕事を評論する「評論家」ではないでしょうか。評論家は誰かの仕事を批評し評論し、新しい解釈を編み出す、のが仕事でしょう。一方、作家は、その仕事を産み出すその人です。何かを作り出すことが仕事です。ある意味、「哲学する人」そのものです。
この二人の文章を読んでいるとそんな風に思います。極論すれば、内田さんは「批評家」で、雁屋さんはいわば、「批評対象を生きる人」です。内田さんが、ある「お題」について、様々な解釈の仕方を披露して、世の中の見方の幅を拡げようとする。一方、雁屋さんは、世の中そのもの、を自分の声でより直接的に伝えようとする、自ら、フクシマへ行き、first handの体験として「福島の真実」を書く。そういうスタンスの違う二人にとっての「天皇観」の差が、この雁屋さんのエントリーとなったのでしょう。思うに、内田さんの天皇観は、間接的、フラグメンタルに醸成されたものであり、雁屋さんのは、もっと直裁な個人的体験に基づくものなのかも知れません。
私は、今の天皇に対して、特に強い思いは何も持っておりませんが、悪感情は全くありません。それこそ「政治利用」され、戦争に加担することになった昭和天皇と違い、「平成」の世に天皇となり、政治とは無関係なシンボルとしてこの二十数年、天皇をされてきた方です。皇太子時代から、軽井沢のテニスコートのエピソードなどを通じて、「人」として、芸能アイドルのように親しまれてきた方です。
私の祖父の家の居間には、神棚と明治からの天皇、皇后の写真が飾られていました。かつて、天皇は「現人神」として「偶像崇拝」の対象であり、政治の道具として利用されてきました。そこに「天皇の戦争責任」を問う根拠があるのだろうと思います。対して、現在の天皇は、国のシンボルとしての役割をただただ果たして来たと思います。天皇の生活が気楽なはずはないでしょう。でも、常に笑みを絶やさず、国事に参加される姿を見て、好感をもつ国民は多いであろうことは、想像できます。私もその一人です。
しかるに、アベ氏が既得権保持者の操り人形として、使われているのが分かっていても、一般国民は、この人にしか怒りをぶつける対象を見いだせないのと同様、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」との言葉に、かつては共に落涙したものの、戦争で殺された我が子を思い、その後、連綿と続く占領軍による搾取に晒されると、「戦争責任」を誰か特定の人間に求めたくなるのも人情です。そうした社会を生きてきた人、今も敗戦の屈辱を日々に味わっている人々が「天皇」といういう言葉に抱く感情はそれなりのものがあるでしょう。そんな人々が天皇に根拠の薄い思慕を寄せる人々に批判的になるのはやむを得ないだろうと思います。
この雁屋さんのエントリーから、抜き書きしておきます。
このように、今回内田先生がAERAに書かれた文章は語句に分解して意味を理解しようとしても、理解するのが私には難しい。
だが、一本補助線を引くことで、するすると意味が分かる。
その補助線とは、ああ、口にするのもおぞましいので、それは後回しにする。
、、、
「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」
国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。
、、、
とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。
聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。
突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。
このような言葉は、以前に聞いたことがある。
2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。
内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか。
氏は、2.2.6事件の青年将校たちと同じように、天皇に対する恋闕の思いを強く抱いているようだ。
前に書いた、氏の文章を理解するための補助線とは、この、「天皇に対する恋闕の情」だと私は思う。
だが、一本補助線を引くことで、するすると意味が分かる。
その補助線とは、ああ、口にするのもおぞましいので、それは後回しにする。
、、、
「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」
国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。
、、、
とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。
聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。
突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。
このような言葉は、以前に聞いたことがある。
2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。
内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか。
氏は、2.2.6事件の青年将校たちと同じように、天皇に対する恋闕の思いを強く抱いているようだ。
前に書いた、氏の文章を理解するための補助線とは、この、「天皇に対する恋闕の情」だと私は思う。
雁屋さんは、天皇に対する恋闕の情を抱き、もって偶像崇拝の対象とし、天皇を政治利用する青年将校、を思い出して、「口にするのもおぞましい」と言われたのでしょう。また、2.26事件を過去の歴史、あるいは批評の対象として認識する人と、その事件のエッセンスが現在社会にも受け継がれていることを直に感じている人間では、対象に対する危機感は違うでしょう。
続く二日目のエントリーでは、下のようなことが書かれています。
原発再稼働、憲法壊変、多国籍企業の支配するコーポラティズムに日本を組込むためのTPP加入、政府に具合の悪い情報はすべて国民に見えなくする秘密保護法の策定、など、安倍政権になってからの日本は、自己破壊の急坂を転がり落ちている。
そのことに対して私は、強い憤懣と、深い絶望感を懐いている。
そのときだからこそ、私は内田樹氏の文章を期待して読んだのである。我々に進むべき道を指し示して下さるのではないかという期待を持って。
それが、「天皇の言葉」だったので、驚愕し、逆上し前回の文章になってしまったのである。
亡くなってしまわれたが、元東京大学教授の五十嵐顕氏は、亡くなる前に、
「日本の思想にもっとも欠けているものは、良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神です」
と書残している。(安川寿之輔「福沢諭吉の教育論と女性論」高文研、P109)
五十嵐顕氏は、戦争中に南方軍幹部候補生徒区隊長として積極的に侵略戦争を担ったことを反省して、戦後は平和と民主主義の教育のために働いてきた人である。
私は、今この時の日本にあって必要なのは、五十嵐顕氏の言う
「良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神」
だと思う。
そのことに対して私は、強い憤懣と、深い絶望感を懐いている。
そのときだからこそ、私は内田樹氏の文章を期待して読んだのである。我々に進むべき道を指し示して下さるのではないかという期待を持って。
それが、「天皇の言葉」だったので、驚愕し、逆上し前回の文章になってしまったのである。
亡くなってしまわれたが、元東京大学教授の五十嵐顕氏は、亡くなる前に、
「日本の思想にもっとも欠けているものは、良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神です」
と書残している。(安川寿之輔「福沢諭吉の教育論と女性論」高文研、P109)
五十嵐顕氏は、戦争中に南方軍幹部候補生徒区隊長として積極的に侵略戦争を担ったことを反省して、戦後は平和と民主主義の教育のために働いてきた人である。
私は、今この時の日本にあって必要なのは、五十嵐顕氏の言う
「良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神」
だと思う。
私も雁屋さんに同意します。雁屋さんは原発再稼働、TPP、秘密保護法など、自己破壊の道を選ぶ政権に「強い憤懣と、深い絶望感を懐いて」いる「今の社会を直に生きている」人です。「良心にしたがって立ち上がる精神」を尊ぶ人です。日本の思想に欠けているものは、直接的な行動性です。思想家が思想の領域、批評家が批評の領域のみに留まって自己完結してしまうことが短所だと言っています。日本的「奥ゆかしさ」といえば、そうかも知れませんが、それが園遊会で手紙を渡すことでさえ批判の対象とするというのでは、あまりに情けなくもみみっちい、と私は思います。
雁屋さんは、内田氏に批評の領域から危険を押して一歩を踏み出して欲しいと願っているのかも知れません。
私も、内田さんの折々の政権批判には深くうなづきますが、では「誰にその責任を求め、どう改善すべきか」という肝心の項目が議論されないことに不満を持っています。また、なぜかフクシマ原発事故という(私の意見では)現代日本でもっとも重要な事件について発言を余りされないことが不満です。「身が危ない」のでしょうが、どうせ、その内、人間は寿命が来て、死んで行くのですから、こういう影響力のある言論人の人にこそ、ズバリと核心をついてもらいたい、と私は期待しているのですが。