週末は、遠方から訪ねてくれた友人と食事をしました。分野は違いますが、同時期に研修、大学院と過ごした同門の友人で、大変、楽しいひと時でした。孔子の「朋あり、遠方より来る、、、」は、学問を修めて己を高めれば、遠方の友人も求めて訪ねてきてくれる、といういう学問をすすめる言葉ですが、昔の友人と夕餉の卓を共に囲んでこうして楽しめるのも、研究(学問?)してきたおかげだな、と思います。
こうして、いろいろ経験を積んで、晩餐の肴にできるのも、年をとる楽しみの一つだろうと思いますが、一方で、肉体の老化現象を折々に実感もするようになりました。人生の有限を実感する機会も増えました。若いころから「死」について興味を持っていろいろ本を読んだりしいましたが、いずれはそれが自分にもやってきます。
この間、親知らずを抜きました。顔を出して来ていたので、予防的処置です。抜歯後、出血が止まらず、結局、夜間に緊急処置をするハメになりました。歯の出血などと軽く考えていたら、いつまでたっても止まらす、夕方頃にはふらふらし出したので、だんだん不安になってきました。もし万が一、これで出血多量で死んだりしたら、親知らずを抜いて出血死というちょっと情けない死に方で、家族に笑われるなあ、などとくだらないことを考えたりしました。人間、いつか死にますし、どんな死に方をしたところで、死んだ本人は死んでしまった以上、死に方などどうでもよいようなものですが、それでも、どうせ死ぬなら、もっと立派な(?)病気で、最後に、辞世の句でもしたためてから死にたいものだ、とこれまたくだらないことを考えました。
どこかで知った誰かの言葉に、次のようなものがあります。
自分の死というものは他人の死とは違うということなのでしょうか。それで、次のような笑い話を思い出しました。
他人の死は「死」であると理解できても、自分自身で「死」そのものを経験することはできない、というのが「死」の不思議なところです。我々が経験できるのは、いずれ来ると知っている「死」というものに対する恐れや期待、そして、自分以外の人の死に際して感じたり思ったりする、別離の悲しみ、共感であって、「死」を経験する、即ち、「死を生きる」ことは、私たちには(理屈上は)できないのです。ならば、生きている人間にとって「死」に向き合うとは、未だ来らぬ未来の自分自身の「死」や過ぎ去りし過去の自分以外の人の「死」に、「現在」のわれわれの思考が向いている状態ということです。これは、「死」だけに限りません。われわれが何かを考え、何かに反応して必要以上の感情を生み出すとき、われわれの意識はしばしば、現在に存在していません。だから、山本夏彦さんは、「人生は死ぬときまでの暇つぶし」と言ったのかも知れません。われわれの人生は暇つぶしの連続で、本当の意味で生きている時間はごくわずかなのかも知れません。
Byram Karasuという精神科医の書いた「The art of serenity」という本を、週末の楽しみにちょっとずつ読んでいます。その中の一章で、死を宣告され、その遠からぬ死への対処に悩む患者さんの話がありました。その章の中で紹介されていた次のような寓話が気に入ったので、要旨を意訳してみます。
いい話ですね。
こうして、いろいろ経験を積んで、晩餐の肴にできるのも、年をとる楽しみの一つだろうと思いますが、一方で、肉体の老化現象を折々に実感もするようになりました。人生の有限を実感する機会も増えました。若いころから「死」について興味を持っていろいろ本を読んだりしいましたが、いずれはそれが自分にもやってきます。
この間、親知らずを抜きました。顔を出して来ていたので、予防的処置です。抜歯後、出血が止まらず、結局、夜間に緊急処置をするハメになりました。歯の出血などと軽く考えていたら、いつまでたっても止まらす、夕方頃にはふらふらし出したので、だんだん不安になってきました。もし万が一、これで出血多量で死んだりしたら、親知らずを抜いて出血死というちょっと情けない死に方で、家族に笑われるなあ、などとくだらないことを考えたりしました。人間、いつか死にますし、どんな死に方をしたところで、死んだ本人は死んでしまった以上、死に方などどうでもよいようなものですが、それでも、どうせ死ぬなら、もっと立派な(?)病気で、最後に、辞世の句でもしたためてから死にたいものだ、とこれまたくだらないことを考えました。
どこかで知った誰かの言葉に、次のようなものがあります。
人は死ぬということはない。なぜなら、生きている間に死を経験することはできないし、死んでしまっても、やはり、死は経験できないからだ。
自分の死というものは他人の死とは違うということなのでしょうか。それで、次のような笑い話を思い出しました。
ある男が、家族に逃げられ、会社をクビになり、資産をだまし取られた。すっかり落ち込んで、ユダヤのお坊さん(rabbi)に相談に行った。
「家族と仕事と収入と資産を一度に失ってしまいました」
お坊さんは答えて言った。
「いやいや、もっと大変な状態になっていたかも知れなかった」
男は驚いて聞き返す。
「これ以上、どんな悪い状況が考えられると言うのですか?」
お坊さん曰く。
「あなたの身に起こったことが、私自身に起っていたら、大変だった」
「家族と仕事と収入と資産を一度に失ってしまいました」
お坊さんは答えて言った。
「いやいや、もっと大変な状態になっていたかも知れなかった」
男は驚いて聞き返す。
「これ以上、どんな悪い状況が考えられると言うのですか?」
お坊さん曰く。
「あなたの身に起こったことが、私自身に起っていたら、大変だった」
他人の死は「死」であると理解できても、自分自身で「死」そのものを経験することはできない、というのが「死」の不思議なところです。我々が経験できるのは、いずれ来ると知っている「死」というものに対する恐れや期待、そして、自分以外の人の死に際して感じたり思ったりする、別離の悲しみ、共感であって、「死」を経験する、即ち、「死を生きる」ことは、私たちには(理屈上は)できないのです。ならば、生きている人間にとって「死」に向き合うとは、未だ来らぬ未来の自分自身の「死」や過ぎ去りし過去の自分以外の人の「死」に、「現在」のわれわれの思考が向いている状態ということです。これは、「死」だけに限りません。われわれが何かを考え、何かに反応して必要以上の感情を生み出すとき、われわれの意識はしばしば、現在に存在していません。だから、山本夏彦さんは、「人生は死ぬときまでの暇つぶし」と言ったのかも知れません。われわれの人生は暇つぶしの連続で、本当の意味で生きている時間はごくわずかなのかも知れません。
Byram Karasuという精神科医の書いた「The art of serenity」という本を、週末の楽しみにちょっとずつ読んでいます。その中の一章で、死を宣告され、その遠からぬ死への対処に悩む患者さんの話がありました。その章の中で紹介されていた次のような寓話が気に入ったので、要旨を意訳してみます。
ある男がジャングルで虎に遭遇した。恐怖に駆られ、男は必死に走って逃げたが、崖っぷちに追いつめられた。
男は蔓の束を掴んで、崖から跳び降り、ぶら下がった。見上げるとさっきの虎が崖の上から眺めている。
下を見ると、いつの間にか、二匹目の虎が、男を狙って見上げていた。
蔓にぶらさがったまま、回りを見ると、手を伸ばせば届くあたりに苺の実が実っているのに男は気がついた。男は片手で蔓を掴み、もう片手を伸ばして苺を取り、その実を口に入れた。
苺はとても甘く美味しかった。
男は蔓の束を掴んで、崖から跳び降り、ぶら下がった。見上げるとさっきの虎が崖の上から眺めている。
下を見ると、いつの間にか、二匹目の虎が、男を狙って見上げていた。
蔓にぶらさがったまま、回りを見ると、手を伸ばせば届くあたりに苺の実が実っているのに男は気がついた。男は片手で蔓を掴み、もう片手を伸ばして苺を取り、その実を口に入れた。
苺はとても甘く美味しかった。
いい話ですね。