百醜千拙草

何とかやっています

良心に基づいて立ち上がる

2013-11-26 | Weblog
「秘密保護法」に反対して、各地でデモ、日比谷で一万人以上をこえるデモがありました。
本来、国民の代表であるべき政治家は官僚の手先となって、国民を裏切ります。国民が自らを守るためには、自ら行動しなければならない世の中となりました。政治に対する信頼というものは落ちる所まで落ちたという感じですね。

この法案のため、影響力のある反体制ブログは閉鎖宣言をし始め、「地下」に潜り始めました。個人が発信するブログという媒体ですから、摘発、逮捕は簡単です。国家権力が力をもたない個人を弾圧に来るのですから、名前を晒して体を張って「言論の自由」に基づいて発言してきた人々は、真っ先にやられるでしょう。
 おそらく、今後は個人運営でない告発サイトのような場所で、ゲリラ的に発言するしかなくなるのではないでしょうか。すでに体制側に自由を奪われて、国民洗脳の手先としてしか機能してこなかったマスコミですが、さすがに力づくでの「言論封鎖」に、ジャーナリストの良心の一片でも残っていたのか、珍しく、朝日新聞を含む各紙が、「秘密保護法」批判の社説。(あるいは、只のポーズでしょうか)もう遅いです。

話題転換。前回の雁屋さんの内田文章に対する批判的エントリーに関して、同じ事を繰り返すようですが、もう一言だけ。

雁屋さんのエントリーの中で、

「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」


という内田氏の文章に対して、雁屋さんは次のように書いています。

国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。
、、、
とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。
聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。
突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。
このような言葉は、以前に聞いたことがある。
2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。


これまでの日本の政治を見てきた人なら、「日本の社会をよくしたい」というのは政治家本人にとっては優先順位の低いアジェンダであり、彼らがもっとも気にしているのは、議員としての地位であり、己と党の権力であり、利権の確保です。誰でも自分がもっとも大切ですから、自己利益の増大を意図することそのものは悪い事ではないと思います。しかし、自己利益の増大のために、選挙前には「シロアリを退治」して「国民の生活が第一」の社会を実現するとか、適当な事をいっておきながら、選挙に通ったら手のひらを返したように、人々の信頼を裏切り、公約を破棄し、消費税を増税し、原発事故を隠蔽する、そして、国民から取れるものだけ取って、省みない、のであれば、それはぼったくりバーと同じです。残念ながら、これまでの日本の政治家は、国民の代表といいながら、権力をもった瞬間から、その権力の維持と増大のために、国民を裏切ることを躊躇わず、官僚の言うがままに国を売り飛ばすことをを厭わない人々ばかりでした。政治というものが国民生活の安定と安全を守り、平和で平等な社会を実現する、という民主主義国家の目的を目指したことは、(おそらく)一度もありません。政治家、行政、司法、統治システムに係わる人々の最大の関心は、自己利益の増大であり、いかに国民からうまく税金を取って、それを自分の利益に変換するか、いかにより権力の強いポジションを確保するか、に苦心してきました。そして、日本の社会の未来とその改善を真剣に考えてきたのは、力のない市井の人々でした。

だから、内田氏が、自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が(天皇の)他に見当たらない、と言ったことは、よく理解できます。だから天皇の意見を聞いてみたい、という気持ちはよく分かるし、私も天皇が何を思っているのか知りたいと思います。そこには、雁屋さんが指摘しているように、「正しい答え」を天皇が教えてくれるだろう(なぜなら、天皇は自己利益を追求することなく国の安寧を願っている唯一の公人だからだ)という「根拠の薄い」期待があります。

しかし、天皇が自己利益を考えず国民の安寧を配慮できる立場であるからと言って、天皇が「正解」を知っているという保障はないし、そもそも、天皇が「国民の安寧」を優先的に配慮しているというのも、単なる希望的な推測に過ぎないかも知れません。あくまで議論のための可能性として言えば、ひょっとしたら、天皇は毎日食べる自分のご飯のおかずの内容や趣味の研究にしか興味がなく、美味しいご飯が食べれて趣味が充実していさえすれば、「国民の安寧」など、どうでもよいと考えている可能性だってあります。いくら国民の安寧を願ったとしても、自分にそれを実現するための何の力もないことが分かっていたら、その興味を維持し続けるのは易しいことではないと思います。しかも、われわれは天皇の「実力」を知らないのです。天皇は政治に係わることを禁じられてきたのですから。その実力がわからない人の意見を、天皇という立場であるからという理由だけで、国民の安寧を自己利益と無関係に願っている(はずだ)、だから正解を教えてくれるに違いない、と推測するのは、飛躍があると私は思います。

理屈はよく理解できます。つまり、自己利益の増大を思わず、公平無私にひたすら日本の国民のことを考えれる人間にしか真に日本の「正しい」政治のあり方は理解できないであろう、しかし、それに当たる公人というのは、天皇しかいない、正しい答えを知っている(可能性のある)人がいるとしたら、それは天皇しかいない、ということですね。そして、そこから天皇が正しい答えを知っていて欲しい、いや、知っている筈だ、という願望があって、その結果、おそらくちょっとした勇み足で、天皇が正しい答えを知っている(かもしれない)という括弧の中の言葉を省いてしまったのだろう、と想像します。

これは、「批評家」が机上で社会評論する限りにおいて、大した問題ではないと私は思います。私も天皇がどう考えているか聞いてみたい、と思います。しかし、雁屋さんは、批評家ではありません。社会というものをじかに触っている人です。「天皇の意見を聞いて、その意見を知ったら、何が起こり得るのか」にまで、自然と頭が回る人です。だから、逆上してしまったのではないでしょうか。机上の批評の限りにおいて、私は、内田氏の言うことが十分理解できます。しかし、政治的発言は、読み捨ての雑誌の娯楽記事ではなく、それにしばしば、行動が伴うことになります。雁屋さんは、それをじかに知っており、過去の歴史に鑑んで、肌で危惧を察したのでしょう。

前回と同じことを繰り返すようですが、内田氏は批評家としての立場から、思想という限定枠の中で、日本の政治と天皇について言及したということでしょう。一方、雁屋さんは、その思想の限定枠というものは危ういもので、現実世界に容易に流れ出て実質的な影響を及ぼす可能性があることを知っているのだと思います。大げさに言えば、思想を生きる行動する哲人と言えるかも知れません。

思想と行動は一致するべきだと私は思います。だから思想家もできる範囲で行動をしていくことは大切だと思います。研究で言えば、実験と理論、仮説と観察結果、両方があって初めて科学研究が成り立ちます。例えば、チョムスキーは社会活動家として有名ですが、そのため言語学を研究したのではありません。彼自身がいうように、彼の社会的活動の多くは彼の偉大な学問の成果とは全く無関係でした。ただ、常に考え、考えにそってできる範囲で行動してきた結果が、アメリカ構造言語学の祖としての学者のチョムスキーとは別に、社会活動家としてのチョムスキーを作っただけのことでした。

自分の言葉に責任を持ち、できる範囲内で行動する、それが日本の思想家に欠けていることだ、との言葉が、雁屋さんのエントリーの中に引かれていました。「良心に基づいて立ちあがる精神」です。日本人の良心を私は信じております。あとは立ち上がるだけのことです。一人一人が出来る範囲で少しずつでも行動することの積み重ねが社会を動かすと信じております。



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