この一月足らずで、ガザでの死者は1800名を越え、負傷者は1万人に達したというニュース。ガザの人口は多分200万人ぐらいでしょうから、これは、強烈な数字です。そのうち子供の死亡者は350名にも昇っています。学校を攻撃するのですから狂気です。イスラエルにはイスラエルの言い分があるのでしょうが、これでは、猫がネズミをなぶり殺しにするようなものに見えます。とにかく、学校を攻撃して子供を殺すというだけで、イスラエルに何の大義があろうとも、許されないと私は思います。イスラエル軍には、わが子が殺されることを想像するだけの想像力がないのでしょうか。楽しそうな笑顔の子供を突然殺されて失うことが、どういうことなのか、理解できないのでしょうか。
数年前にイスラエル賞を授賞した村上春樹の「卵と壁」のスピーチを思い出します。あれから、数年たっても、この東洋の一小説家の言葉は、イスラエルのシオニスト政権の心には響かず、パレスティナとの対立は深まるばかりです。しかし、われわれはヒューマニストとして、常に卵の側に立ち続けなければならない、と強く思います。いくらシオニストやナチやアベが、卵を押しつぶそうとしても、われわれは卵の側に立ちつづけなければ、それは人間をやめたのと同じことになる、と思います。ハマスのテロリストににも同じことが言えます。みずからを犠牲にして壁にぶち当たってはいけません。
話をちょっと変えて、たまには明るい話でも。
最近、自分の残りの人生のことをよく考えます。人間、いつ死ぬかわかりませんから、自分であと数十年あると思っていても、実は明日、寿命が尽きるかも知れません。人間の命に終わりがあるということを考えると、私は、苦しい登山の途中に「頂上まであとxxキロ」の表示版を見るのと同じような気分になります。私も、若い時は人並みに「死にたい」と思ったことも何度かありましたが、今では、無理して死ななくても、どうせ遠からず死ぬのだから焦らなくてもいいか、と思うようになりました。いつまでも生きていると漠然と思っているから今の苦しみが永遠に続くように感じて苦しいのではないでしょうか。一方で、死にたくない、という人もいます。死にたくないのは、多分、死ぬときのプロセスが苦痛に満ちているように見えるからではないでしょうか。だれでも苦しいのはいやです。私も苦しみながら死ぬのは、いやだなあ、と思います。
つい先日、エコノミークラスの小さな座席に10時間以上も縛り付けられるという拷問を繰り返し受けてきました。長距離の飛行機に乗ることは、多分、私の最もやりたくないことの一つですが、これも10時間ガマンすれば苦しみは終わると思って準備していったので、苦しいながらもそれなりに有意義に過ごせました。本を読んだり、音楽を聞いたり、映画を見たりしました。その合間に食事をしたり、居眠りしたり、瞑想したりしました。
人間、終わりが近いことを感じると、頑張れるそうです。終末努力というそうですが、きっとマラソンのラストスパートみたいなものでしょう。死ぬときの苦しみも終末努力で乗り越えれたらいいのですけど。
それはともかく、終わりがあることを知っていると、毎日の小さな事柄をよりよく見るようになります。それらのことに感謝の気持ちが湧いてきます。そして、しみじみしたりします。これは精神衛生上、大変よいことだと思います。
止まない雨がないように、苦しみは必ず終わります。人は必ず死ねます。その過程は苦しいかも知れませんが、それも必ず終わります。そう思っていると、毎日が楽しいです。
パレスティナ問題もいずれ終わるときがくると信じたいです。戦争は人間性に対する冒涜ですから。
数年前にイスラエル賞を授賞した村上春樹の「卵と壁」のスピーチを思い出します。あれから、数年たっても、この東洋の一小説家の言葉は、イスラエルのシオニスト政権の心には響かず、パレスティナとの対立は深まるばかりです。しかし、われわれはヒューマニストとして、常に卵の側に立ち続けなければならない、と強く思います。いくらシオニストやナチやアベが、卵を押しつぶそうとしても、われわれは卵の側に立ちつづけなければ、それは人間をやめたのと同じことになる、と思います。ハマスのテロリストににも同じことが言えます。みずからを犠牲にして壁にぶち当たってはいけません。
話をちょっと変えて、たまには明るい話でも。
最近、自分の残りの人生のことをよく考えます。人間、いつ死ぬかわかりませんから、自分であと数十年あると思っていても、実は明日、寿命が尽きるかも知れません。人間の命に終わりがあるということを考えると、私は、苦しい登山の途中に「頂上まであとxxキロ」の表示版を見るのと同じような気分になります。私も、若い時は人並みに「死にたい」と思ったことも何度かありましたが、今では、無理して死ななくても、どうせ遠からず死ぬのだから焦らなくてもいいか、と思うようになりました。いつまでも生きていると漠然と思っているから今の苦しみが永遠に続くように感じて苦しいのではないでしょうか。一方で、死にたくない、という人もいます。死にたくないのは、多分、死ぬときのプロセスが苦痛に満ちているように見えるからではないでしょうか。だれでも苦しいのはいやです。私も苦しみながら死ぬのは、いやだなあ、と思います。
つい先日、エコノミークラスの小さな座席に10時間以上も縛り付けられるという拷問を繰り返し受けてきました。長距離の飛行機に乗ることは、多分、私の最もやりたくないことの一つですが、これも10時間ガマンすれば苦しみは終わると思って準備していったので、苦しいながらもそれなりに有意義に過ごせました。本を読んだり、音楽を聞いたり、映画を見たりしました。その合間に食事をしたり、居眠りしたり、瞑想したりしました。
人間、終わりが近いことを感じると、頑張れるそうです。終末努力というそうですが、きっとマラソンのラストスパートみたいなものでしょう。死ぬときの苦しみも終末努力で乗り越えれたらいいのですけど。
それはともかく、終わりがあることを知っていると、毎日の小さな事柄をよりよく見るようになります。それらのことに感謝の気持ちが湧いてきます。そして、しみじみしたりします。これは精神衛生上、大変よいことだと思います。
止まない雨がないように、苦しみは必ず終わります。人は必ず死ねます。その過程は苦しいかも知れませんが、それも必ず終わります。そう思っていると、毎日が楽しいです。
パレスティナ問題もいずれ終わるときがくると信じたいです。戦争は人間性に対する冒涜ですから。