前回の続きみたいなものですが。
グラント書いていて、鬱になりそうです。期待していたデータもちょっとインパクトに欠けるし、共同研究者の人とは連絡とれないし、後、実質一ヶ月ちょっとしかないのに、確かな手応えの感覚がまだなく、ふわふわしています。しかたがないので、とにかくゴリゴリやってみて、その間にしっかりした形が見えてくるだろうと言い聞かせながらやっています。
やっぱり、グラントを書くというのは、いくらデータに基づいているとは言っても、半分はフィクションですから、現実の手触りに欠けます。グラントで展開する話にうまく現実の力強さを盛り込めるとゴジラの特撮のような臨場感がでるのでしょうが、これはデータ次第です。ま、できるだけのことをやるしかありません。
一休和尚の究極のアドバイス、「なんとかなる」を唱えながら、やってます。
私は、昔から傷つきやすい上に、物事をペシミスティックに見る傾向が強く、「パンを落とすとバターの付いた方が必ず下になって床に落ちる」タイプの人間でした。しかし、長年、そういう経験や思考指向性を通じて、多少の図太さと楽観性を獲得してきました。最近になって実感をともなって理解できるようになりましたが、誰でも「そのうち死ねる」という事実は私にとってその楽観性のもっとも強い基本です。「誰でもそのうち死ぬ」ことを実感することは「生きてるだけで幸運だ」、「死ぬこと以外は軽症だ(ロッキー青木)」と考えるのと、本質的に同じだと思います。
いずれにしても、あと数十年もすれば、友人、先輩の少なからずがこの世を去り、自分もあっちにいってしまいます。残された時間はわずかです。そう思うと、くだらないことにかかわっている時間は、私にも世の中の誰にもないのです。もうこれからは、人間としてもっとも大切なことに集中しないと、死ぬ間際に後悔するかも知れません。そして、私には、一度きりしかない人生で最も大切なことが、人類同胞を利用したり、盗んだり、殺したり、破壊したりして、カネもうけしたり名誉や地位を手に入れるというようなことであるはずがない、と確信しておるわけです。戦争は絶対悪であり、どんな大義もそれを正当化しません。
「キレイごとを言うな、自分の身や国を自分で守るのは当然だ」という意見もありますね。そういう意見の方が多いでしょう。最近の中村先生の論調を見ても思います。私も日本人は平和ボケしているとは思いますけど、最近はそれでもよいのではないかなと思います。(皮肉な言い方ですが、そもそも外国との戦争になる前に、だいたいまず政府は自分の国民に対して戦争を始めるのです。戦争は防衛という建前で、自国民も含めた他人の命と財産を賭けて、やるビジネスにしかすぎません。どの国も「戦争する」と言い出したものがまず最前線に行くというルールを作れば、戦争は確実になくなるでしょう)
それはともかく、そもそも、そうまでして本当に守るものなどありますか?盗まれまい、殺されまい、と戦々恐々として、人をみれば泥棒と思い、他人の親切は信用せず、自己責任で自分一人で死んで行く、それで満足な人生でしょうか。裏切られて、たとえ殺されても、いきている間はお互いの善意を信用して生活する方が余程、毎日は楽しいと思います。それで人の良さにつけこんで悪人がやってきて盗み、殺されることになるかも知れませんけど、それがそんなに大変なことでしょうか?そのような「恐れ」に支配されて、毎日の幸せを犠牲にして、盗まれまい、殺されまい、と気を抜く事なく、他人の悪意に気を配って生きて、多少の財産なり命なりを守ったところで何なのでしょう、どうせ誰でもそのうち死んで裸であの世にいく事になるのに、と思います。
スリランカ仏教では、たとえ殺されても、怒ってはいけないと教えるそうです。怒ることは恐れに支配されていることであり、それはすでに自分で自分を殺しているようなものだということなのでしょう。
聖書の「汝、復讐するなかれ、復讐は神の怒りに任せよ。復讐するは神の仕事である」というローマ人の手紙の句は私の好きな一節です。怒り、恨みは「恐れ」から来ています。何かを失うことに対する恐れです。でも人間には失うものなど最初から大して何もないのです。裸で生まれて、裸で死んで行くだけのことです。それどころか、恐れた瞬間、怒った瞬間に、われわれは既に、自分の人生の幸福を失うのです。 (追記、神の怒り、"wrath"は、われわれが恐れの感情をもと反応的に怒るようなものとは異なる上から下す絶対的な怒りであると解釈しておきます)
「恐れ」に支配されず、愛と善意に注意を向けて、残りの限られた日々を生きたいものです。(と、自分に言い聞かせております)
グラント書いていて、鬱になりそうです。期待していたデータもちょっとインパクトに欠けるし、共同研究者の人とは連絡とれないし、後、実質一ヶ月ちょっとしかないのに、確かな手応えの感覚がまだなく、ふわふわしています。しかたがないので、とにかくゴリゴリやってみて、その間にしっかりした形が見えてくるだろうと言い聞かせながらやっています。
やっぱり、グラントを書くというのは、いくらデータに基づいているとは言っても、半分はフィクションですから、現実の手触りに欠けます。グラントで展開する話にうまく現実の力強さを盛り込めるとゴジラの特撮のような臨場感がでるのでしょうが、これはデータ次第です。ま、できるだけのことをやるしかありません。
一休和尚の究極のアドバイス、「なんとかなる」を唱えながら、やってます。
私は、昔から傷つきやすい上に、物事をペシミスティックに見る傾向が強く、「パンを落とすとバターの付いた方が必ず下になって床に落ちる」タイプの人間でした。しかし、長年、そういう経験や思考指向性を通じて、多少の図太さと楽観性を獲得してきました。最近になって実感をともなって理解できるようになりましたが、誰でも「そのうち死ねる」という事実は私にとってその楽観性のもっとも強い基本です。「誰でもそのうち死ぬ」ことを実感することは「生きてるだけで幸運だ」、「死ぬこと以外は軽症だ(ロッキー青木)」と考えるのと、本質的に同じだと思います。
いずれにしても、あと数十年もすれば、友人、先輩の少なからずがこの世を去り、自分もあっちにいってしまいます。残された時間はわずかです。そう思うと、くだらないことにかかわっている時間は、私にも世の中の誰にもないのです。もうこれからは、人間としてもっとも大切なことに集中しないと、死ぬ間際に後悔するかも知れません。そして、私には、一度きりしかない人生で最も大切なことが、人類同胞を利用したり、盗んだり、殺したり、破壊したりして、カネもうけしたり名誉や地位を手に入れるというようなことであるはずがない、と確信しておるわけです。戦争は絶対悪であり、どんな大義もそれを正当化しません。
「キレイごとを言うな、自分の身や国を自分で守るのは当然だ」という意見もありますね。そういう意見の方が多いでしょう。最近の中村先生の論調を見ても思います。私も日本人は平和ボケしているとは思いますけど、最近はそれでもよいのではないかなと思います。(皮肉な言い方ですが、そもそも外国との戦争になる前に、だいたいまず政府は自分の国民に対して戦争を始めるのです。戦争は防衛という建前で、自国民も含めた他人の命と財産を賭けて、やるビジネスにしかすぎません。どの国も「戦争する」と言い出したものがまず最前線に行くというルールを作れば、戦争は確実になくなるでしょう)
それはともかく、そもそも、そうまでして本当に守るものなどありますか?盗まれまい、殺されまい、と戦々恐々として、人をみれば泥棒と思い、他人の親切は信用せず、自己責任で自分一人で死んで行く、それで満足な人生でしょうか。裏切られて、たとえ殺されても、いきている間はお互いの善意を信用して生活する方が余程、毎日は楽しいと思います。それで人の良さにつけこんで悪人がやってきて盗み、殺されることになるかも知れませんけど、それがそんなに大変なことでしょうか?そのような「恐れ」に支配されて、毎日の幸せを犠牲にして、盗まれまい、殺されまい、と気を抜く事なく、他人の悪意に気を配って生きて、多少の財産なり命なりを守ったところで何なのでしょう、どうせ誰でもそのうち死んで裸であの世にいく事になるのに、と思います。
スリランカ仏教では、たとえ殺されても、怒ってはいけないと教えるそうです。怒ることは恐れに支配されていることであり、それはすでに自分で自分を殺しているようなものだということなのでしょう。
聖書の「汝、復讐するなかれ、復讐は神の怒りに任せよ。復讐するは神の仕事である」というローマ人の手紙の句は私の好きな一節です。怒り、恨みは「恐れ」から来ています。何かを失うことに対する恐れです。でも人間には失うものなど最初から大して何もないのです。裸で生まれて、裸で死んで行くだけのことです。それどころか、恐れた瞬間、怒った瞬間に、われわれは既に、自分の人生の幸福を失うのです。 (追記、神の怒り、"wrath"は、われわれが恐れの感情をもと反応的に怒るようなものとは異なる上から下す絶対的な怒りであると解釈しておきます)
「恐れ」に支配されず、愛と善意に注意を向けて、残りの限られた日々を生きたいものです。(と、自分に言い聞かせております)