百醜千拙草

何とかやっています

死は終わりでも解決でもないと思う

2014-08-08 | Weblog
死は人の終わりではなく、連続する生の区切りのイベントの一つに過ぎないと私は思っているのですけど、日本では死は忌むもので、死んだばかりの人について、あれこれ言うのは不謹慎というように考える人も多いでしょうから、どうも、自殺の話は話題にしにくいですね。

先日、理研エリート研究者、S氏の自殺というショッキングなニュースがありました。自身の医学研究キャリアの始まりであった神戸中央市民病院に運び込まれて死亡が確認されたとのこと。何とも痛ましいことです。

私は直接知りませんが、一緒に研修をした知り合いの人は、自信にあふれた秀才だったと言っていましたから、少なくとも仕事上では順調に成功を積み重ねた人だったのでしょう。ところが、IPSの大発見で再生医療研究での日本の第一人者という立ち位置が揺らぎはじめ、そして一発大逆転だったはずのSTAPで大チョンボをやってしまい、その後のメディアによる過度のいじめが追い打ちをかけた、ということだと想像しますが、悲しいことです。

下種な言い方をすれば、S氏はSTAPの言わば興行主、大花火を打ち上げるはずが、ガセネタをつかまされ、しかもそれを見抜けずに、大スキャンダルに発展してしまったのですから、落込むのもわからないではありません。加えて、おそらく責任感の強い方だったのでしょう。それで追いつめられたのでしょう。水に落ちた犬を叩きまくる日本のマスコミ、過ちを許さない日本人の偏狭さがこの人を追いつめたのは間違いないでしょう。当初、割烹着パフォーマンスなどでマスコミを利用したのが、最後には売るためにはヤラセでも偏向報道でも何でもアリのマスコミに逆に追いつめられる結果となりました。私も普段からマスコミは日本の害毒の最たるものだと思っておりますが、この件に関しては、(同じくマスコミの餌食にされそうになった研究者として)中村先生のコメントに強く同意します。知らない間にシカゴに移っておられたのですね。ご本人は自分のことを「雑草」と言っておられますが、中村先生が雑草なら、われわれ凡人研究者は何なのでしょう?カビ?ぐらいでしょうか?その辺、へりくだる時には、もっと下々の人間のことを考えて比喩表現を工夫してもらいたいと思います。

一方、Knoepflerブログに寄せられたコメントを読むと、悲劇であるとの一致した意見の一方で、自殺することによって問題解決を図る日本の伝統的風習に対して批判的コメントもありました。確かに、死んだところで自殺者自身の問題しか解決されませんから、むしろ自殺するというのは無責任な行為だと考えるのは論理的です。日本では「死んでお詫びする」伝統があり、逆に言えば「死ねば許される」というような感じがありますが、(この件に関しては、多分S氏は「死んでお詫び」というのではなく、精神的に追いつめられしまった結果の行動であろうとおもいますけれども)私、これは捨て去るべきメンタリティーと思います。政府閣僚などでも、失敗の責任を取って辞める、という選択があるのが、昔から私は違和感を感じます。責任を取るとは、問題の尻拭いをして最善を尽くすことだろうと私は思うのですが、逆に、辞任して、自分が作った問題を他人に丸投げして逃げることのがどうして責任をとることになるのか、大変不思議です。

遺書には「STAPを再現して下さい」との言葉があったそうですが、この真意は何なのでしょうか。理性ではSTAPはウソだと考えてはいても心情的には存在していて欲しいという矛盾した願望のあらわれなのでしょうか。死の間際に当てつけとも思えませんし。いずれにしても、本来ならばSTAPの検証実験が始まっている以上、その帰趨を見守るのが本来の責任でしょうが、S氏は本当に追いつめられてしまっていたのでしょう。死ぬ間際のこの言葉は、残されたOさんに宛てられたものと読み取れます。Oさんにとってみれば、これはもう呪いの言葉ですね。
思うに、理研ももうこれで、STAP検証実験などというバカげたことはやめて、Oさんを解雇して幕引きした方がいいでしょう。そうでなければ、更なる自殺者が出かねません。「メディア殺人」という言葉があるように、たとえ本人が自殺を選んだとしても、そこまで追い込んだのはメディアだろうと思います。彼らほど反省という言葉の意味を知らない無責任な連中はいません。彼らには何を言っても無駄でしょう。自覚がないのですから。

自殺は心の病です。病気だったのですから、何を言っても難しいのですけど、今、死ななくてもそのうち死ぬのだから、辛くてもとにかくダラダラと生きていれば良かったのに、とやっぱり思ってしまいます。人生、研究の世界が全てではないし、世の中は広いのですから、イヤになったらスッパリやめて別のことをやるとかすればよかったのではないか、秀才なのだから、視野狭窄に陥って恐怖に捕われて自殺にまで追いつめられてしまう前に、何か自分自身を救う方法を見つけることはできなかったのか、と思います。

研究者を長年やっていると、研究に限らず、世の中のものの殆どはマヤカシであることに気がつきます。再生医療研究の第一人者であれ、ノーベル賞受賞者であれ、学会長であれ、総理大臣であれ、そのような肩書きや地位はただのクソです。実体のないものです。カネもそうです。そんなものにこだわるのはバカらしいことです。普通の人ならそう思えるのに、優秀な人ほどそうしたワクや世間の評判に捕われてしまうのは不思議なものです。そうして固定した対象に向かってマスコミは集団リンチを加えるのです。日本偏向報道協会(NHK)やアホ日やゴミ売りのようなマスコミもただのクソだとわかっていたら多少は違っていたのでしょうか。わかりません。たとえクソでもクソにボロクソに言われ続けるとそれなりにダメージはありますからね。(汚い言葉ですいません)
コメント
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