先週は、女性で初のフィールズ賞授賞が話題になりました。女性にとっては女性がフィールズ賞を授賞することはうれしいことのようです。アカデミアやビジネスでかつても今も女性の地位が男性よりも不当に低いという話はよく聞きます(が、私の周辺では別に感じません)。そのような世界で生きて行きたいと思う女性がいるのですから、男女平等であるべきだと私も思います。かつて、アメリカ政府はウーマンリブを密かに後押しした、という話を聞きました。女性が家から出て仕事を持てば、政府の税収が上がるからという理由だそうです。本当かどうか知りませんけど、現在、世の中で社会や仕事の機会は男女平等であるべきだというルールがある以上、男女が同様の機会を享受できて、同様の成果を出していくことが当然の世の中になるべきでしょう。しかるに、女性がフィールズ賞を授賞するということが喜ばしいニュースになるということは、裏返せば、まだまだ男女の不平等があるということでしょう。それが機会の不平等なのか、偏見なのか、あるいは生物学的な差によるのか、本当のところはわかりません。そのうち、女性が授賞しようと男性が授賞しようと、性差や人種のことが話題にならないような時代になってもらいたいものです。私は"Affirmative action" と呼ばれる人種や性に関する優遇措置が、どうも理解できません。おそらく、教育や雇用機会が一般に低いと考えられている特定の人種や性に属する人を優遇することにより、「同化」をすすめて、性、人種間のコンフリクトを減らそうという政治的意図に従ったものでしょうけど、ま、一種の差別です。アメリカの一流大学ではアジア人の入学を制限しているという話も聞きました。(一般にアジア人が優秀なので、学力だけで審査すると学生がアジア人だらけになるからだそうです。もちろんこれはステレオタイプだし、おそらく同様の理由でユダヤ系学生への差別もあるのでしょう)
さて賞とは無縁の私の日常、再び、グラント書きに苦しんでおります。例によって、ここ一月弱、最初のページにかかり切りになっていました。ある日、ひらめいて書けたと思ったら、翌日読み返してボツにするということを延々と繰り返して、ようやく何とか形が見えてきました。最初のページが出来さえすれば、残りは推敲を含めて一ヶ月で何とかなるのではないかと考えていますが、この間に学会があり、論文投稿原稿と実験があるので余り余裕はありません。加えて、もう一つ重要なデータがまだでていません。そのデータが正否のカギを握るような気がします。それにしても、自分で選んだ仕事とはいうものの、今年は何かと忙しく、仕事以外の面でもいろいろあり、体力と記憶力は衰え、精神的にも肉体的にもつらい年です。これも修行のうち、あと長くても二十年ぐらいだろう、それぐらいは辛抱しようと言い聞かせて毎日、勤めております。
これまで、「人生は修行」と思って辛い事も乗り越えようとしてきた訳ですが、そう考えても辛いものは辛いのです。最近、もっと良い比喩を見つけました。「人生は実験」です。これはいいです。実験だからうまく行くこともあるし、失敗することもあります。とにかくいろいろ考えて実験してみて、その結果を見て、次の仮説を立てて実験を繰り返す。これ以上に適切な人生の比喩はないと感じました。仮説のもとに正しく組み立てられた実験であれば、何らかの結論が得られます。失敗しても何かを学べます。失敗は予備実験の条件検討だと思えば良いのです。「実験」と考えるだけで、何となく自分の人生、第三者の目から眺めることができるような気がします。冷静に論理的に見れるようになるように思います。そうなれば、「人ごと」ですから、感情の問題が薄まります。辛いこともあまり辛いような気がしないような感じがします。
理研のS氏もロビン ウィリアムスも、人生は実験だから、だめだったらまたやり直すなり、別の実験に切り替えればいいや、ぐらいの軽い気持ちでいるわけにはいかなかったのでしょうか。その実験に文字通り命をかけてしまったのですね。そこまで追い込まれる前に、一歩下がって、実験は問いに対する解答を見つけ出すという目的のための単なる手段にしか過ぎないと考えて、手段と目的を切り離してみることはできなかったのだろうか、と思ってしまいます。
さて賞とは無縁の私の日常、再び、グラント書きに苦しんでおります。例によって、ここ一月弱、最初のページにかかり切りになっていました。ある日、ひらめいて書けたと思ったら、翌日読み返してボツにするということを延々と繰り返して、ようやく何とか形が見えてきました。最初のページが出来さえすれば、残りは推敲を含めて一ヶ月で何とかなるのではないかと考えていますが、この間に学会があり、論文投稿原稿と実験があるので余り余裕はありません。加えて、もう一つ重要なデータがまだでていません。そのデータが正否のカギを握るような気がします。それにしても、自分で選んだ仕事とはいうものの、今年は何かと忙しく、仕事以外の面でもいろいろあり、体力と記憶力は衰え、精神的にも肉体的にもつらい年です。これも修行のうち、あと長くても二十年ぐらいだろう、それぐらいは辛抱しようと言い聞かせて毎日、勤めております。
これまで、「人生は修行」と思って辛い事も乗り越えようとしてきた訳ですが、そう考えても辛いものは辛いのです。最近、もっと良い比喩を見つけました。「人生は実験」です。これはいいです。実験だからうまく行くこともあるし、失敗することもあります。とにかくいろいろ考えて実験してみて、その結果を見て、次の仮説を立てて実験を繰り返す。これ以上に適切な人生の比喩はないと感じました。仮説のもとに正しく組み立てられた実験であれば、何らかの結論が得られます。失敗しても何かを学べます。失敗は予備実験の条件検討だと思えば良いのです。「実験」と考えるだけで、何となく自分の人生、第三者の目から眺めることができるような気がします。冷静に論理的に見れるようになるように思います。そうなれば、「人ごと」ですから、感情の問題が薄まります。辛いこともあまり辛いような気がしないような感じがします。
理研のS氏もロビン ウィリアムスも、人生は実験だから、だめだったらまたやり直すなり、別の実験に切り替えればいいや、ぐらいの軽い気持ちでいるわけにはいかなかったのでしょうか。その実験に文字通り命をかけてしまったのですね。そこまで追い込まれる前に、一歩下がって、実験は問いに対する解答を見つけ出すという目的のための単なる手段にしか過ぎないと考えて、手段と目的を切り離してみることはできなかったのだろうか、と思ってしまいます。