百醜千拙草

何とかやっています

霞ヶ関折伏

2015-05-26 | Weblog
先日、とある研究機関の年に一度の一日シンポジウムがありました。去年に参加した時に比べ、規模が3割ぐらいは縮小したような感じです。去年は顔を見た有名研究者の人々も半数位は欠席していたような感じで、景気の悪さを感じました。研究費を貰った関係で一分でスライド一枚で研究内容を発表するようにと言われました。一分で分野外の人にバックグランドと目的と結果を説明するのは無理です。それでも何とか一分の発表スライドを作りました。理解してもらうためには早口でしゃべるわけにはいきませんから、時間を節約するにはムダを省いてシンプルにするしかありません。加えて、言い間違いしたり、つまったりすれば、時間超過していまうのは確実です。「あー」とか「えー」とか言っている余裕もありません。間違いをする余裕がないというのはかなりのプレッシャーです。お陰で、しゃべる技術が多少あがったような気がします。

人の発表を聞いていると、「あー」、「えー」とかのムダな言葉がどれ位少ないかで、発表者の優秀さがだいたい予測できます。「あー」、「えー」は、無意識につい出てしまう言葉なので、それが少ない人というのは、自分の発表を客観的に見ることができて、その構成やプレゼンテーションに十分、気を配っているということです。随分前、テニスは強いが、頭の方は疑問視されていた世界ランク一位だったこともあるアメリカ人女子テニスプレーヤーがいましたが、彼女が記者会見中に「You know」とか「I mean」とかの意味のない間投句をどれぐらい使うかということが話題になったことがあり、確か最高で一分間に40回以上口にしたという話を聞いた覚えがあります。確かにそれでは内容のある話はできないでしょう。

内容のある話ができないのは、政治家や官僚の答弁でよくあります。答弁が「言語明瞭、意味不明瞭」と言われた首相もおりました。あの手の答弁を聞いているとそうとうイライラしますが、現首相に至っては、更に滑舌悪く、言語も意味も不明瞭であるのに加え、しばしば無知と無教養をさらけ出して、自爆することでも有名になりました。

最近の自爆は、国会質疑での「ポツダム宣言はマトモに読んだことがない発言」で、ご存知の通り、ネットや新聞で、散々、叩かれまくられています。もしこれをアメリカ議会の演説で言っていたらそのバカぶりを笑われるだけでなく、中国は本気で怒っていたでしょう。本人が目指す「戦後レジームからの脱却」の「戦後レジーム」とやらが、アメリカ流民主主義を看板にした間接支配のことを指すのであれば、米英中の戦勝国が出したポツダム宣言こそが、その始まりです。それをマトモに読んでさえもいないのに、戦後レジームから脱却すると息巻くというのは、笑えないギャグです。

それはともかく、無条件降伏を要求するこの宣言、改めて読めば、屈辱的です。その屈辱が今も続いているという点においてはその通りです。「日米地位協定」というのがいまだにあるわけですから。力でねじ伏せられた悔しさというのは私もわかります。ならば、戦後レジームからの脱却とは、もう一度戦争してアメリカに勝つ、もしくは日本からアメリカを追い出し、間接支配をやめさせることであるとしか考えられません。つまり、「戦後レジーム」の脱却とやらは、どう考えても、戦争で米英中にコテンパンに負けたことに対する「恨み」を晴らすという「感情的なもの」があってこその言葉です。思うに、アベ氏が「戦後レジーム」の脱却とやらにこだわるのは、屈辱的に巣鴨プリズンで命を助けられて、それこそ「戦後レジーム」の確立のために使われた自分の祖父の屈折した思いを個人的に受け継いでいるからではないのでしょうか。

しかし、一般国民の誰が「戦後レジーム」とやらからの脱却を望んでいるのでしょう?アベ氏と異なり、そんな昔の「恨み」にいつまでも拘泥して国益を損ねることも辞さずと思うほど、国民は幼稚ではないのです。戦後の日本は、その耐え難き屈辱を忍んで、名を捨てて身をとってきたのです。そもそも、日本は明治維新で、力ずくで開国させられ、不平等な貿易協定をむすばされ、最初の敗戦を喰らっているのです。欧米による支配の屈辱を晴らすための「戦後レジームの脱却」云々というならば、少なくとも江戸時代まで戻ってからやり直すのがスジであろう、と私は思います。

アベ氏の支離滅裂な言動と行動を考えると、これは祖父から聞かされたであろうアメリカに対する屈折した恨みに対米従属主義のの官僚方針という反する性質のものが混じり合っているのではないかと想像されます。日米同盟にしてもTPPにしても、アメリカの利益のために日本を売り飛ばすことは平気でやるのに、その一方で、靖国参拝してみたり、改憲しようとしたり、中韓を挑発してみたりとアメリカの嫌がることをする。この分裂病的行動は、国益増大を意図した一国のリーダーの理性的な動機から生じているはずだという点から理解しようとしても難しいですが、個人的な恨みと官僚政治という背景を加えると実は、レベルの低い単純な話ではないのかと思われます。

いずれにしても、不幸なのは国民です。アベ氏の支離滅裂が、官僚の振り付けと、先祖からの個人的な恨みが混ざったために起こっているのであれば、国民も沖縄県民もそこには全く不在です。そして、おそらくこの人は、自分が何者なのか、何をしているのか、その意味も善悪も理性的には判断することができないのです。

しかし、アベ氏をいくら叩いても本当のところは何もかわりません。アベ氏の代わりに使い捨てにできる人間はいくらでもいます。使えなくなれば取り替えれば済むだけの話です。むしろ使う方は使えなくなるなるぐらいまで使ってから取り替えた方が国民は騙されるとでも思っているでしょう。

先日、創価学会の人とちょっと雑談する機会がありました。建前上、公明党は、野党では何の力もないので、与党になることで内部から自民党の暴走を止めて、平和を実現するという理屈で自民と連立していることになっています。しかし、かりにそれが本音であったとしても、結局は政治に参加して与党に入ったところで、官僚が仕切っている日本の世の中は根本的には変わらないだろうと私は思います。政権交代後の民主党がいい例です。

その雑談中に、今の官僚政治を変える一つの方法は、官僚組織の内部に入って内側からそれを変えていくことではないかという話になりました。三権分立というものが事実上存在しないのですから、政治を通じて外から官僚組織をどうにかするのは不可能です。官僚組織に入っても、組織に染められずに、内部から官僚組織を改革できる者がいるとしたら、それは強い絶対的な行動基準をもつ人々です。ならば創価学学会員は、ひょっとしたら適任ではないかと思いました。創価学会が学業優秀な若い学会員を支援して、東大法学部に進ませて、官僚組織に送り込み、日蓮の教えによって霞ヶ関の闇に潜む悪を折伏するのです。どうでしょうか?

(この作戦がうまくいくと、長期的には日本がイスラム革命後のイランのような宗教国家になってしまう可能性もあるのですが、それでも、現状に比べればマシではないでしょうか)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする