百醜千拙草

何とかやっています

立ち止まること

2016-04-15 | Weblog
中国ではCrispr/Cas9でヒトの胚の遺伝子操作がすでに行われました。ヒトの手で自らの遺伝子を操作するということにあまりためらいのない人は大勢います。ヒトを含む生物も交配と自然変異によって、多くの遺伝子多様性を獲得してきました。自然界がやっていることを人間が意図的にやったからといって何の問題があるのか、近年の環境の変化は凄まじく、自然が行う変異と淘汰を待っていたのでは、人間の進化は遅すぎる、積極的に遺伝子操作をすべきだ、というような意見のヒトもおります。例えば、George Churchなどはこういう立場ではないでしょうか。この、自然は(人体も含めて)コントロールするべきもの、とでも考える傲慢な西洋的自然観は、自然は人間を育んでくれる母とでも考える東洋的自然観を持つ日本人には、なかなか受け入れがたいものです。人間の浅智慧が推し量れることなど知れています。環境がどんどん変化しているのは、長期的視野を持つこともなく、その浅智慧で短期的な欲望を満たすべく、自然をどんどんと破壊してきた人間そのものの愚かな行いゆえでしょう。遺伝子操作技術で人間をどんどん人工的に進化させるなどということをシラフで言えるのは、そうした歴史への反省がないからではないのか、様々な見地から世界を見ずに、自己の立ち位置のみから主観的に物事を狭く考えてしまうからではないのか、と私は思わざるを得ません。「深いが、狭いために危険」なMad Scientistのような人というのは意外に大勢おります。

しばらく前の内田樹の研究室の中の一節から。

世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、「単純再生産」と言ってもいい。「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」というイメージはもう終わりに近づいている。別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が耐えることのできる限界を超えてしまったからである。もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る。今起きているのはそれである。「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。
そのメッセージを発信しているのは身体である。脳内幻想は世界各地で、社会集団が異なるごとにさまざまに多様化するが、生身の身体は世界どこでも変わらない。手足は二本、目や耳は一対。筋肉の数も骨の数も決まっている。一日8時間眠り、三度飯を食い、風呂に入り、運動し、酔っ払ったり、遊んだりすることを求める。それを無視し続けて、脳の命令に従わせて休みなく働かせ続けていれば、いずれ身体は壊れる。そして、いま世界中で身体が壊れ始めている。


破壊し尽くす前に世界はスローダウンしていって欲しい、と私も思います。破壊のスピードが速すぎて生身の人間ではついていけない、だからもっと遺伝子操作して人間を改造しよう、という考えに普通の人なら強い嫌悪感を抱くでしょう。東洋人であれば、その破壊の理由を考え、先人の知恵に学び、環境の変化にあわせて人間の体を変えるのではなく、その環境の変化の原因となっている人間の欲の方をなんとかしようと思うのではないでしょうか。

しかしながら、人間は欲の塊です。過去の行いを反省したところで、ほとんどの人はすでに、エネルギー高消費型、大量廃棄物産生型の「ラク」なライフスタイルに慣れ過ぎていて、環境に悪いから、江戸時代の生活に戻るという選択はしません。現実は、人間がどんどん己の欲で環境を破壊し続けて、かなり厳しい状況に追い込まれるまで行動を変えることはないのでしょう。

いずれにせよ、人間は「できることはやってしまう」という困った性質を持っております。遠からず、ヒト胚の遺伝子操作も広く行われることになるだろう、というのは世界の人々の予測です。(悲しいことながら)その時、遺伝性疾患を治すというような明らかな目的に加え、オプションとしてなんらかの形質を親の都合の良いように変えるというような目的で遺伝子操作が行われることがおこるでしょう。たとえば、眼の色を変えるというような遺伝子操作は比較的簡単にできるはずです。(ただ、今のCrispr/Cas9の技術では、最高のFidelityのシステムをつかっても、想定外の変異も導入されてしまうので危険すぎて、すぐには使えないだろうとは思いますが)

この間、とある高名な研究者の人が、もしも子供の性質を一つだけ遺伝子操作で変えることができたとしたらどう変えたいか、というアンケートを一般の人,
数百人にとったという話を聞きました。詳細は明かしてもらえませんでしたが、男女間で明らかな差があったということで、男性は「成功してほしい」という意見が多かったのに対し、女性は「良い子に育って欲しい」という意見が多かったそうです。そして、誰も、子供に「長生きして欲しい」とは願わなかったのだそうです。

明らかに目に見えるような形質ではなく、彼らの望んだのは、人間的、社会的な背景における優秀さでした。私、それが救いだろうと思います。良い子になって欲しいという願いは、肉体的、物質的なものではなく、「人間性」という人間を動物から隔てている属性に関するものです。一方で、我々ができることは、遺伝子という物質にごく初歩的な変化を加えることぐらいです。そのような技術は、「人間性」の向上には何の役に立たないでしょう。なぜなら「人間性」というのもは物質の性質ではなく、無形でかつ変化していくものだからです。(逆に、人間性を失わせるような遺伝子変異を入れることなら比較的簡単にできるのではないでしょうか。作るのは難しくとも壊すのは簡単です)

同様に、自然の破壊は簡単です。しかし、人間はそれを元に戻すのはできません。原発で有毒な廃棄物を作るのは簡単です。それを無害化することはできません。遺伝子操作を加えることは簡単です。しかし、それを戻すことは容易ではありません。突き進むことは容易です。しかし、立ち止まってじっくり考え、恐れを持って一歩を踏み出すことははるかに難しい、私はそう思います。
コメント
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