研究費をどう獲得していくか、研究者にとって最大の問題です。競争が激しくなり、技術がそこそこ出揃い、かなりの部分の知見のデータベース化が進んできた今、研究界全体が、昔からある問題は難しすぎるし、新たな問題は小さすぎて意義を強調しにくい、そういう状況にあるような気がします。研究では意義がなにより大切ですから、そうすると主に生物系の人は、意義を強調しやすい疾患の治療などに直結するような研究をプロポーズするようになり、生物学の発見というより、技術開発、エンジニアリングの方面がもてはやされるようになるわけです。現在流行りのSynthetic biologyというのも、こういう傾向を反映しているのでしょう。新興雑誌であったNature Biotechnologyのインパクトファクターは、今や、本家Natureを超えているらしいです。
生物学上の疑問というのは大小、様々、残っているのです。しかし、現在の技術で簡単にやれる範囲をやり尽くしたあと、その分野そのものが注目を失い、人々は次の流行を追って目新しい所へ移っていき、人の集まるところに当然、資金は投入されるということになります。焼畑農業のようなものですね。
人々の関心のあることをする(流行しているものをする)ということは、それだけで「意義」がある程度あるわけですが、こういう傾向は、長期的視野に立てば、専門分野を深く極めていくという観点からはマイナスであろうとは思います。流行は廃れるものですから。しかし、腹は減っては戦もできず、研究費がなければ研究者は何もできませんから、「流行を追う」ことはある種の必要悪です。己のアイデンティティーを保ちつつ、ユニークな視点から流行を、その早い段階で取り入れていくことが必要です。
こんな事情で、私もこの数年以内に、私なりの新しいシステム、新しいリサーチプログラムの基礎を作り上げていかないといけないことはわかってるのですが、何をどうやるべきなのか、限りあるリソースと時間の中で、現在進行中のプロジェクトとどう折り合いをつければ良いのか、悩んでおります。あれこれ論文を読んだり、データベースを眺めたり、そんなことばかりで過ぎていく日々です。
新しいことというのは、自分の研究スタイルそのものも含みます。ノックアウトマウスを作って表現形を解析し、その分子メカニズムを探っていく、という従来のリバースジェネティクスのスタイルは、もはやマウスの作成と解析技術が汎用化されてきたために、最近はむしろネガティブな評価さえ受けるようになったような感じがします。ここ数年はpharmaco-genetics/chemical geneticsみたいな感じで、genetic toolとbiologic compoundsを組み合わせたようなスタイルで何とか、説得性のあるデータを得ることができていますが、このスタイルも別に目新しいわけでもありません。
いくら研究の知見の生物学的価値が重要なのだだと言っても、厳しい現実を生き延びていくためは、論文をそこそこのジャーナルにコンスタントに発表していかねばならず、グラントでは、予想される知見の価値以上に、そこに至るアプローチ法を買ってもらわねばならないわけです。そのためには、研究のいろいろな面でユニークさを出せないと、私のような超零細では生き延びていけません。
この週末も、そんな感じでうじうじとアイデアを求めて、コンピューターをいじっておりました。
が、気がつくと、youtubeで音楽を聴いてました。ははは。
しかし、世の中には色んな才能のある人が沢山おりますな。わが身の凡なることを改めて思い知らされます。
2年前のオランダのタレントショーからデビューした10歳のAmira WillighagenちゃんのO mio babbino caroを見つけました。正式なトレーニングは受けたことがないそうです。確かに荒いところがありますけど、表現力豊かで情熱的な歌い方はMaria Callasを思い出させますね。なぜか妙に心に響きました。
ちなみにMaria Callas版はこちら。
ついでにRenatta Scottoのベルカント
もう一つ、若い人の才能はうらやましい。同じく10歳の時の高尾奏之介くん。この2年ほど、私が自己流で週末に練習しているPartita 2番です。Sinfoniaは三部構造で最後のアレグロのフーガの部分は、Partita2番全曲の中では、最も難しい部分の一つかと思いますが、奏之介くんの演奏には、大変、感心しました。正確なリズムを刻みながら、豊かな表現力を持って右と左のメロディーラインが奏でられています。グレングールドの演奏よりも私は好きです。いつか奏之介くんのように弾ければいいのになあと思いますが、音楽には練習では越えられないものがありますからね。
生物学上の疑問というのは大小、様々、残っているのです。しかし、現在の技術で簡単にやれる範囲をやり尽くしたあと、その分野そのものが注目を失い、人々は次の流行を追って目新しい所へ移っていき、人の集まるところに当然、資金は投入されるということになります。焼畑農業のようなものですね。
人々の関心のあることをする(流行しているものをする)ということは、それだけで「意義」がある程度あるわけですが、こういう傾向は、長期的視野に立てば、専門分野を深く極めていくという観点からはマイナスであろうとは思います。流行は廃れるものですから。しかし、腹は減っては戦もできず、研究費がなければ研究者は何もできませんから、「流行を追う」ことはある種の必要悪です。己のアイデンティティーを保ちつつ、ユニークな視点から流行を、その早い段階で取り入れていくことが必要です。
こんな事情で、私もこの数年以内に、私なりの新しいシステム、新しいリサーチプログラムの基礎を作り上げていかないといけないことはわかってるのですが、何をどうやるべきなのか、限りあるリソースと時間の中で、現在進行中のプロジェクトとどう折り合いをつければ良いのか、悩んでおります。あれこれ論文を読んだり、データベースを眺めたり、そんなことばかりで過ぎていく日々です。
新しいことというのは、自分の研究スタイルそのものも含みます。ノックアウトマウスを作って表現形を解析し、その分子メカニズムを探っていく、という従来のリバースジェネティクスのスタイルは、もはやマウスの作成と解析技術が汎用化されてきたために、最近はむしろネガティブな評価さえ受けるようになったような感じがします。ここ数年はpharmaco-genetics/chemical geneticsみたいな感じで、genetic toolとbiologic compoundsを組み合わせたようなスタイルで何とか、説得性のあるデータを得ることができていますが、このスタイルも別に目新しいわけでもありません。
いくら研究の知見の生物学的価値が重要なのだだと言っても、厳しい現実を生き延びていくためは、論文をそこそこのジャーナルにコンスタントに発表していかねばならず、グラントでは、予想される知見の価値以上に、そこに至るアプローチ法を買ってもらわねばならないわけです。そのためには、研究のいろいろな面でユニークさを出せないと、私のような超零細では生き延びていけません。
この週末も、そんな感じでうじうじとアイデアを求めて、コンピューターをいじっておりました。
が、気がつくと、youtubeで音楽を聴いてました。ははは。
しかし、世の中には色んな才能のある人が沢山おりますな。わが身の凡なることを改めて思い知らされます。
2年前のオランダのタレントショーからデビューした10歳のAmira WillighagenちゃんのO mio babbino caroを見つけました。正式なトレーニングは受けたことがないそうです。確かに荒いところがありますけど、表現力豊かで情熱的な歌い方はMaria Callasを思い出させますね。なぜか妙に心に響きました。
ちなみにMaria Callas版はこちら。
ついでにRenatta Scottoのベルカント
もう一つ、若い人の才能はうらやましい。同じく10歳の時の高尾奏之介くん。この2年ほど、私が自己流で週末に練習しているPartita 2番です。Sinfoniaは三部構造で最後のアレグロのフーガの部分は、Partita2番全曲の中では、最も難しい部分の一つかと思いますが、奏之介くんの演奏には、大変、感心しました。正確なリズムを刻みながら、豊かな表現力を持って右と左のメロディーラインが奏でられています。グレングールドの演奏よりも私は好きです。いつか奏之介くんのように弾ければいいのになあと思いますが、音楽には練習では越えられないものがありますからね。