熊本の地震は5年前の悪夢を思い出させます。今回の地震が熊本から中央構造線に沿って東へと広がったことが、今後もあるかもしれない余震、本震が、その先にある伊方原発それから同線の逆方向にある現在稼働中の川内原発へ与え得る影響を想像すると戦慄するばかりです。
世の中、嫌なこと、起こってほしくないこと、心が傷むことに満ちあふれております。そんな苦しみに満ちた人生を高い山に登るかのように、だんだんと薄くなる空気の中を、一歩一歩、その終わりに向けて歩むのが人間です。それは頭ではわかってはいるのですが、突然の厄災にみまわれた時、人は、苦しみや悲しみに打ちひしがれることを避けることはできません。
遠藤周作氏の「イエスの生涯」を古本屋で見つけて、しばらく前に読みました。幼いころに着せられたキリスト教という「ダブダブの洋服」を脱ぐのをやめて和服に仕立て直すことにした、と言った遠藤氏にとってキリスト教は大きなテーマで、「イエスの生涯」でも、人間としてのイエスその弟子の心情を正面から深く考察してあります。
世界中でベストセラーになった氏の「沈黙」は、キリスト教での大きなテーマである「神の沈黙」がモチーフです。信仰厚い人々が理不尽な苦難に見舞われるとき、助けを求める声に対して、神はしばしば沈黙します。どうして熊本や福島で大勢の罪のない人々が死ななければならないのか、どうして神は彼らを助けなかったのか、という問いです。
ウィキペディアには、遠藤周作しの晩年に関して次のような記載があります。
ヨブ記は聖書の中でも最も不可解であると言われます。この信仰厚い善良な男に神が与えた理不尽な厄災の数々を読むと、なんと神とは意地の悪い存在なのか、と思ってしまいます。
しかし、ヨブ記の評論を書くと決心してから泣き言を言わなくなったというこの遠藤氏のエピソードは、人はたとえ苦難に満ちたものであっても与えらえた人生を拒否するのではなく前向きに受け入れるという選択しかない、ということを示しているように感じます。
聖書には、「柔和なるもの(従順なるもの; the meak)は幸いである、彼らは地を引き継ぐであろう」ともあります。この柔和なるものについて、検索したところ、
という解説を見つけました。
イエスは処刑されるにあたり、最後に「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と言ったといいます。私はながらくその意味がわかりませんでした。
遠藤氏の本を読んで、これが実はイエスの心情を表した言葉ではなく、旧約聖書の詩編の冒頭の句であり、この詩が神を讃え信頼する詩であるということを知って、その意味がようやくわかりました。生来、鉄のような固い意志を持ちながらも神の力によってコントロールされている者、即ち柔和なる者、がイエスでありヨブであるというだったということなのでしょう。
晩年の遠藤氏がヨブのような柔和な者となることを選択したように、様々な苦しみや厄災に際して、固い意志を持ちつつも天を信頼し、その意志に任せる、そのような人間でありたいと私も思います。
被災された人々の心にも遠からず平安が訪れることを願います。
世の中、嫌なこと、起こってほしくないこと、心が傷むことに満ちあふれております。そんな苦しみに満ちた人生を高い山に登るかのように、だんだんと薄くなる空気の中を、一歩一歩、その終わりに向けて歩むのが人間です。それは頭ではわかってはいるのですが、突然の厄災にみまわれた時、人は、苦しみや悲しみに打ちひしがれることを避けることはできません。
遠藤周作氏の「イエスの生涯」を古本屋で見つけて、しばらく前に読みました。幼いころに着せられたキリスト教という「ダブダブの洋服」を脱ぐのをやめて和服に仕立て直すことにした、と言った遠藤氏にとってキリスト教は大きなテーマで、「イエスの生涯」でも、人間としてのイエスその弟子の心情を正面から深く考察してあります。
世界中でベストセラーになった氏の「沈黙」は、キリスト教での大きなテーマである「神の沈黙」がモチーフです。信仰厚い人々が理不尽な苦難に見舞われるとき、助けを求める声に対して、神はしばしば沈黙します。どうして熊本や福島で大勢の罪のない人々が死ななければならないのか、どうして神は彼らを助けなかったのか、という問いです。
ウィキペディアには、遠藤周作しの晩年に関して次のような記載があります。
1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。
ヨブ記は聖書の中でも最も不可解であると言われます。この信仰厚い善良な男に神が与えた理不尽な厄災の数々を読むと、なんと神とは意地の悪い存在なのか、と思ってしまいます。
しかし、ヨブ記の評論を書くと決心してから泣き言を言わなくなったというこの遠藤氏のエピソードは、人はたとえ苦難に満ちたものであっても与えらえた人生を拒否するのではなく前向きに受け入れるという選択しかない、ということを示しているように感じます。
聖書には、「柔和なるもの(従順なるもの; the meak)は幸いである、彼らは地を引き継ぐであろう」ともあります。この柔和なるものについて、検索したところ、
しかし、新約聖書ギリシャ語の「柔和な」(プラウス)と言う言葉は、飼いならされ、調教によって、以前野生の手に負えない性格が、従順になった時、その動物は「プラウスである」(柔和である)と言われるのです。従って、聖書が言う「柔和な人」とは、生来が鉄のような固い意志を持ちながらも、神の力によって完全にコントロールされている人を指します。
という解説を見つけました。
イエスは処刑されるにあたり、最後に「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と言ったといいます。私はながらくその意味がわかりませんでした。
遠藤氏の本を読んで、これが実はイエスの心情を表した言葉ではなく、旧約聖書の詩編の冒頭の句であり、この詩が神を讃え信頼する詩であるということを知って、その意味がようやくわかりました。生来、鉄のような固い意志を持ちながらも神の力によってコントロールされている者、即ち柔和なる者、がイエスでありヨブであるというだったということなのでしょう。
晩年の遠藤氏がヨブのような柔和な者となることを選択したように、様々な苦しみや厄災に際して、固い意志を持ちつつも天を信頼し、その意志に任せる、そのような人間でありたいと私も思います。
被災された人々の心にも遠からず平安が訪れることを願います。