百醜千拙草

何とかやっています

悲しき司法

2016-10-04 | Weblog
半休暇中なので、変則的に更新しています。

ちょっと前に、辺野古移設に関して、国と沖縄県とが裁判で争っている件で、先の高裁の疑問の残る判決に関しての東京新聞の社説を読んで、ちょっと思いました。

その社説にあるように、「国」と「県」とが争うとはどういうことか、ということです。この場合の「県」は明らかです。沖縄県民の民意に従って選出された知事が沖縄県県民の総意に沿って行動しているのですから、「県」とはすなわち(大多数の)沖縄県民のことです。
それでは「国」とは何か。亡くなる前の野坂昭如さんが、全体主義、改憲志向のアベ政権を批判したコメントの中で、国が守るのは「国体」であって「国民」ではない、という言葉がありました。むしろこの場合は、改憲によって戦争に参加できるようにすることにより、国は国民を犠牲にして国体という実態不明のものと一部の利益集団を守るのです。

今回の「国」と「県」との争いもそうです。これは日本国民と沖縄県民の戦いではなく、そもそもグアムへ出て行くと言っていた沖縄在日米軍に取りすがり、代わりに辺野古への新基地移設を約束した売国組織、すなわち対米従属で利益を得てきた連中と、沖縄県民との戦いです。事実、野党は今回、問題となっている高江のヘリパッド強行工事に地元反対民と協力して反対してきました。

国と県の戦いといっても、日本国民の大多数の総意の元に、沖縄県民と戦っているわけではありません。しかし、選挙で勝ったから与党と政府の行動が国民の信任を得ていると強弁してきたのが、自分の頭で論理的に考えることができないアベ政権。ナチスの手口のサル真似です。沖縄県では、米軍基地の辺野古移設反対を最も大きな公約として主張してきた候補が選出されて、その公約に従って行動してきています。一方、国政で在日米軍の恒久化が主たる公約になったことはありません。国民は辺野古移設を願って投票しているわけではないのですから、国と県の争いは、国民と県民の争いではありえない、むしろ大多数の国民は、沖縄県民が戦前、戦中、戦後と被ってきた甚大な被害と差別と人権の侵害に、共感と支持をしこそすれ、在日米軍の恒久化、すなわちアメリカの植民地であり続けて、アメリカと売国奴の利益のために、国富を貢ぎ、沖縄県民に売国の犠牲を強いるべきだとは考えていないでしょう。

東京新聞、社説。辺野古裁判 最高裁は公平な審理を

 高裁では沖縄県が負けた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡る裁判は、今度は最高裁へと移る。「辺野古しかない」と決め付けず、県側の主張を十分吟味した公平な審理をすべきだ。
 天秤(てんびん)があるとする。片方には日米安保条約に基づく国策がある。もう片方には米軍基地による沖縄県民の苦痛がある。普天間飛行場が返還されれば、その分だけ苦痛が減る。だから国策が優先される-。まるで福岡高裁那覇支部の判決は、そんな理屈を使っているかのようだ。
 だが、これは国側の言い分そのものである。国策追従の姿勢があらわだ。むしろ辺野古移設に対する県民の民意は、県知事選挙や国政選挙などで明白に「反対」と表れている。苦痛はなお大きい。
 そもそも天秤に例えた利益衡量という考え方は、「国民の利益」のためにつくられた法理であって、これを「国の利益」に用いることにも疑問を持つ。
 この訴訟は辺野古移設に伴う埋め立てについて、仲井真弘多(なかいまひろかず)前知事の承認を翁長雄志(おながたけし)知事が取り消したことが根幹にある。国側は承認取り消しを撤回するよう指示した。翁長氏が従わないのは「不作為」であり違法、地方自治法に基づいて、その確認をするという国の論理を高裁は丸のみした。
 この司法判断の根拠は正しいのだろうか。仲井真氏の承認を審理の対象とし、「裁量権の行使に逸脱や乱用がない」ことを理由に適法とした。しかし、本来は翁長氏が承認取り消しをしたのだから、裁判所はその違法性を立証せねばならないのではないか。翁長氏に裁量権の逸脱や乱用がなければ、やはり適法となろう。争点が間違っていないか、最高裁はこの点を重視してほしい。
 翁長氏は「憲法や地方自治法の解釈を誤った不当判決」と述べた。確かに国防が国の任務でも、米軍基地の大半を沖縄に押しつける理由にはならない。国と県とは対等である。それが地方自治法の精神である。むろん埋め立てを認めるかどうかは知事の権限である。国が強要すれば、自治権をも侵害する。
 沖縄の苦痛は基本的人権にもかかわる。「辺野古しかない」という一方的な結論は、司法判断というより、もはや政治判断である。沖縄の軍事的な優位性も、国の主張を丸のみする-、こんな司法の姿勢がまかり通れば、「国の大義」に地方はひれ伏すことしかできなくなる。


東京新聞、ギリギリのところまで論理的に踏み込んで、今回の高裁と国のやり方を批判しています。最高裁は矜持を持って司法の独立性を守ってもらいたい。残念ながら、司法、立法の独立性など幻想に過ぎないようですが。高裁でさえ、この有様ですからね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする