賢明な人々というのは、自分の行いがもたらす結果ではなく、行いそのものを気にかけます。懸命な人々の歩む道はとても単純でまっすぐで平坦なので、進むべき方向がわからずに途方にくれるということがないのです。こうした人々のことをヒンズーの神クリシュナは「行動の結果にこだわらず行動する人」と呼び、「行為の結果を放棄した人はこの上なく善良で賢明である」と言っています。
というジェームス アレンの本の一節を思い出しながら、今回のドタバタ政治劇場(これを政治と呼ぶにはあまりにレベルが低すぎますが)を苦々しく見ています。ここに登場するメインの役者は多くの国民も含めて、上の定義からすると「賢明な人々」ではない。ほとんどが見え見えの醜い自己保身とエゴのドロドロの欲の上に薄い砂糖のコーティングを施したような見るに耐えない醜悪な食えないケーキです。
言いたいことはいろいろありますが、特に民進党と緑のたぬき新党のドタバタ。リベラルを含めた同じ党の仲間を見捨て、選挙で己が当選するために理念を捨てるというのでは、本末転倒であり人の道に外れる、というものです。
今回の奇手は小沢一郎のアイデアだろうという推測がありますが、前回の「未来の党」のことを思い出すとそうかも知れません。奇手は一局の勝負に勝つという短期的な目標には役立っても、長期的な繁栄にはマイナスです。彼は日本に二大政党制を作りたいと言い、事実、奇手を使って二度、政権交代を起こしましたが、いずれも短命であり、その後は却って一党独裁を進める結果となりました。それは「政権交代が起こるような二大政党制」という形式な結果を得るために「正当な行い」を経ずに奇手に頼った結果ではないのか、と今回のドタバタを見て、私は批判的にならざるを得ません。そもそも形だけ二大政党制となったところで、そこにいる議員が自分の当選のことばかりを気にかけ、理念は二の次というのでは何の意味もないです。和を優先し場の流れと空気で意思決定が行われる日本で二大政党制と言うやり方がそもそも馴染まないのではないか、あるいは、政治屋の質が悪すぎて、日本は民主主義に基づく立憲政治を行うこと自体を普通にできるだけの能力がない(アベを見たらそう思わざるを得ないです)のではないかと思います。
緑のたぬき新党というポピュリズムの権化に持参金つきで身売りする民進党、「名より実をとる」と前原氏は言いましたが、この行為そのものが実を捨てているように私には見えます。つまり本末転倒と言うことです。われわれの分野でいえば、研究するために研究費を貰うという建前だが(しかし研究費がもらえないと何もできないから)実際は研究費を貰うための研究をしている、というのに似ています。本音と建前は誰にでもあります。しかしながら、建前に正直であろうと努力するからその人は信用されるので、建前を軽んじ、人の道を外れるような行為を行えば、信頼失うというものです。選挙に勝たないと意味はない、と「結果のためには手段を選ばない」ことを正当化する理屈もよく見られますが、そうした態度が長期的に賢い選択であった試しはありません。冒頭の一節にあるように賢明な人々は、結果ではなく行為そのものの正しさに注意することによって、短期的には損を出しても長期的に安定した結果を出していく、そのことは古人が繰り返し伝えるところです。
二、三、ネットで見た意見を紹介します。
選別する、全員受け入れる気はさらさらないby小池百合子 から。
枝野氏、リベラル新党結成での記者会見で。
志位委員長。「希望の党」 本性はっきりしてきた から。
「大義」 "Good cause" を重んじないものは信用できません。原因 (cause) が結果を生むので、Good causeが無ければGood results は生れません。
山本太郎「小池新党の踏み絵は踏めない」から。
遠藤周作の「沈黙」では、仲間の人々の命を助けるために踏み絵を踏む宣教師が描かれます。今回の踏み絵は、逆に仲間や支持者を裏切って自分が助かるための踏み絵です。山本氏の言う通り、小池新党という「毒」でアベと言う「毒」を制すのは可能かもしれません。しかし小池新党の毒は本来、アベの毒と強い親和性を持つものです。仮にアベの毒が排除されてももっとヤバい毒が国中に回る、というのは、重大な危惧であり、そうなった時にどうするのか。また別の「毒」を探すつもりなのでしょうか?当たり前ですが「毒」には「解毒剤」を使わねばなりません。解毒剤がないのなら、そのへんの手頃な「毒」で一時しのぎするのではなく、解毒剤を開発することを考えるべきでしょう。そうで無ければ長期的な解決はありえません。
正しく見て、正しく考え、正しい信念にもとづいて正しい行いをする、当たり前のことを正直に行う、奇策を排し、正道を行うこと、ブッダも教えるとおりです。
というジェームス アレンの本の一節を思い出しながら、今回のドタバタ政治劇場(これを政治と呼ぶにはあまりにレベルが低すぎますが)を苦々しく見ています。ここに登場するメインの役者は多くの国民も含めて、上の定義からすると「賢明な人々」ではない。ほとんどが見え見えの醜い自己保身とエゴのドロドロの欲の上に薄い砂糖のコーティングを施したような見るに耐えない醜悪な食えないケーキです。
言いたいことはいろいろありますが、特に民進党と緑のたぬき新党のドタバタ。リベラルを含めた同じ党の仲間を見捨て、選挙で己が当選するために理念を捨てるというのでは、本末転倒であり人の道に外れる、というものです。
今回の奇手は小沢一郎のアイデアだろうという推測がありますが、前回の「未来の党」のことを思い出すとそうかも知れません。奇手は一局の勝負に勝つという短期的な目標には役立っても、長期的な繁栄にはマイナスです。彼は日本に二大政党制を作りたいと言い、事実、奇手を使って二度、政権交代を起こしましたが、いずれも短命であり、その後は却って一党独裁を進める結果となりました。それは「政権交代が起こるような二大政党制」という形式な結果を得るために「正当な行い」を経ずに奇手に頼った結果ではないのか、と今回のドタバタを見て、私は批判的にならざるを得ません。そもそも形だけ二大政党制となったところで、そこにいる議員が自分の当選のことばかりを気にかけ、理念は二の次というのでは何の意味もないです。和を優先し場の流れと空気で意思決定が行われる日本で二大政党制と言うやり方がそもそも馴染まないのではないか、あるいは、政治屋の質が悪すぎて、日本は民主主義に基づく立憲政治を行うこと自体を普通にできるだけの能力がない(アベを見たらそう思わざるを得ないです)のではないかと思います。
緑のたぬき新党というポピュリズムの権化に持参金つきで身売りする民進党、「名より実をとる」と前原氏は言いましたが、この行為そのものが実を捨てているように私には見えます。つまり本末転倒と言うことです。われわれの分野でいえば、研究するために研究費を貰うという建前だが(しかし研究費がもらえないと何もできないから)実際は研究費を貰うための研究をしている、というのに似ています。本音と建前は誰にでもあります。しかしながら、建前に正直であろうと努力するからその人は信用されるので、建前を軽んじ、人の道を外れるような行為を行えば、信頼失うというものです。選挙に勝たないと意味はない、と「結果のためには手段を選ばない」ことを正当化する理屈もよく見られますが、そうした態度が長期的に賢い選択であった試しはありません。冒頭の一節にあるように賢明な人々は、結果ではなく行為そのものの正しさに注意することによって、短期的には損を出しても長期的に安定した結果を出していく、そのことは古人が繰り返し伝えるところです。
二、三、ネットで見た意見を紹介します。
選別する、全員受け入れる気はさらさらないby小池百合子 から。
今回の総選挙、前原は、どんな手を使っても安倍政権を終わらせると言っている。その考えには共鳴できるし、一見よさげに見えるが、除籍処分した人達に頭を下げて入れてください。と言うのか。そして安保法制や憲法に関しても、自分たちの信念を曲げてまでも、希望の党に沿うような姿勢を示さなければ、冷徹に切られる。
公党としてその旗の元に集うって来た党員を、代表が希望の党に合流する宣言して、身売りするような事を平気でする。しかも、持参金付きで、組織まで差し出して。。。
仲間のリベラル派議員は身ぐるみ剥がされかねないのに?信念・理念からして、合流できるわけがない。、、、、右寄りの議員が希望の党に合流するのは良いとしても、仲間をないがしろにするのは、いかがなものか。、、、
公党としてその旗の元に集うって来た党員を、代表が希望の党に合流する宣言して、身売りするような事を平気でする。しかも、持参金付きで、組織まで差し出して。。。
仲間のリベラル派議員は身ぐるみ剥がされかねないのに?信念・理念からして、合流できるわけがない。、、、、右寄りの議員が希望の党に合流するのは良いとしても、仲間をないがしろにするのは、いかがなものか。、、、
枝野氏、リベラル新党結成での記者会見で。
、、、結論として残念ながら、希望の党の理念や政策は私たちが積み重ねてきた、私たちの目指す理念や政策の方向性とは異なるものだと判断をせざるを得ない。政治家にとって、理念や政策は何物にも代え難い、譲ってはならない筋だ。そして、これまでこの総選挙を目指して、地域の中で準備を進めてきた仲間が今回、どうしても選挙に出るなら無所属での出馬、あるいは残念ながら私から見れば、理念や政策が私たちとは異なる政党からの出馬を余儀なくされている。
志位委員長。「希望の党」 本性はっきりしてきた から。
、、、(希望の党が、民進党出身の候補を公認するかどうかについて)露骨な選別を始めたわけです。その基準は安保法制と9条を含む憲法改定に賛成することです。一番要のところで自民党の補完勢力としての姿がはっきり出てきたということだと思います。、、、希望の党は維新の会との連携も言い始めました。しかし、維新の会が果たしてきた役割は文字通り自民党の補完勢力です。
、、、(今度の総選挙が「自民か希望か」の政権選択選挙といわれていることについて)「自民か希望か」といっても中身は変わりません。一番の中心点、安保法制の問題や憲法の中身は変わらない。ですからこれは偽りの対決だと思います。どっちが勝ってもいまの悪い政治が続きます。
、、、いまの希望の党への合流の動きとは一線を画して、本当の共闘の道を進み、安倍政権と正面から対決する姿勢をしっかり貫こうとする方々、安保法制を廃止し、立憲主義を回復するという共闘の「1丁目1番地」の大義にたって行動しようというみなさんが新しい流れをつくるのだとすれば、私たちは歓迎です。
、、、(今度の総選挙が「自民か希望か」の政権選択選挙といわれていることについて)「自民か希望か」といっても中身は変わりません。一番の中心点、安保法制の問題や憲法の中身は変わらない。ですからこれは偽りの対決だと思います。どっちが勝ってもいまの悪い政治が続きます。
、、、いまの希望の党への合流の動きとは一線を画して、本当の共闘の道を進み、安倍政権と正面から対決する姿勢をしっかり貫こうとする方々、安保法制を廃止し、立憲主義を回復するという共闘の「1丁目1番地」の大義にたって行動しようというみなさんが新しい流れをつくるのだとすれば、私たちは歓迎です。
「大義」 "Good cause" を重んじないものは信用できません。原因 (cause) が結果を生むので、Good causeが無ければGood results は生れません。
山本太郎「小池新党の踏み絵は踏めない」から。
「原発反対」を貫いたために住み慣れた芸能界を追われた男、山本太郎。政変にあっても信念を貫くようだ。
、、、山本は「親方(小沢一郎・自由党代表)から、まだ方針が示されていないからなあ」としながらも「(小池新党の)踏み絵は踏めない」と きっぱり 答えた。「憲法、安保法制、沖縄の踏み絵は踏めない」と繰り返した。、、、山本は辺野古や高江で体を張って米軍基地建設反対を訴えている。国会では安保法制に反対の立場を貫いてきた。選挙で勝ちやすいからと言って、希望の党に行くわけにいかないのである。、、、しかし「安倍政権を倒すためには(野党は)大きくならないといけない」と苦悩の表情を浮かべた。とはいえ「毒をもって毒を制す。だけど毒が国中に回ってしまったらどうしようもない」。、、、「(もし希望の党に入ったら)トンデモ法案に賛成しなければならなくなる。自分に入れてくれた人への責任があるから、それはできない」。山本は続けた。
、、、山本は「親方(小沢一郎・自由党代表)から、まだ方針が示されていないからなあ」としながらも「(小池新党の)踏み絵は踏めない」と きっぱり 答えた。「憲法、安保法制、沖縄の踏み絵は踏めない」と繰り返した。、、、山本は辺野古や高江で体を張って米軍基地建設反対を訴えている。国会では安保法制に反対の立場を貫いてきた。選挙で勝ちやすいからと言って、希望の党に行くわけにいかないのである。、、、しかし「安倍政権を倒すためには(野党は)大きくならないといけない」と苦悩の表情を浮かべた。とはいえ「毒をもって毒を制す。だけど毒が国中に回ってしまったらどうしようもない」。、、、「(もし希望の党に入ったら)トンデモ法案に賛成しなければならなくなる。自分に入れてくれた人への責任があるから、それはできない」。山本は続けた。
遠藤周作の「沈黙」では、仲間の人々の命を助けるために踏み絵を踏む宣教師が描かれます。今回の踏み絵は、逆に仲間や支持者を裏切って自分が助かるための踏み絵です。山本氏の言う通り、小池新党という「毒」でアベと言う「毒」を制すのは可能かもしれません。しかし小池新党の毒は本来、アベの毒と強い親和性を持つものです。仮にアベの毒が排除されてももっとヤバい毒が国中に回る、というのは、重大な危惧であり、そうなった時にどうするのか。また別の「毒」を探すつもりなのでしょうか?当たり前ですが「毒」には「解毒剤」を使わねばなりません。解毒剤がないのなら、そのへんの手頃な「毒」で一時しのぎするのではなく、解毒剤を開発することを考えるべきでしょう。そうで無ければ長期的な解決はありえません。
正しく見て、正しく考え、正しい信念にもとづいて正しい行いをする、当たり前のことを正直に行う、奇策を排し、正道を行うこと、ブッダも教えるとおりです。