百醜千拙草

何とかやっています

排除と寛容

2017-10-17 | Weblog
先日、イギリスで研究室を持っている大学の先輩と久しぶりに会う機会がありました。20年前から折につけいろいろお世話になっている方です。
誰でもいろいろ辛い経験をしてキャリアを積んでいくわけで、私もどうしてこうも辛いのかと嘆きたくなる経験をしながら、なんとか研究をメシの種として生きてきました。今、思えばそれだけで十分、幸運なことで、辛い経験を嘆いてはバチが当たるとういうものです。
その先輩、いろいろな障害や困難の多い研究人生で、大変な苦労人なのですが、永久職であるはずの現在の大学で、しばらく前から再び新たな困難に見舞われているという話を聞きました。
どこでもある話のようですが、学問を追求する場である大学も、そこに関わる人間の中には、真の目的は、カネであったりパワーゲームに勝つことであったり、という場合が多々あります。経営者にとってはカネ、それから理想、大学の名誉、などなど、学問以上に大切なものがあります。
近年、研究資金配分や大学経営がネオリベ的競争原理とマーケットの論理に翻弄されるようになってきたことが、嘆かれていますが、何処も同じで、地獄の沙汰もカネ次第、長期の繁栄やヒューマニティーの促進、大学の使命、そんなことよりも、目先のカネが大学の教育も研究も運営も決めるようになってきているようです。
その先輩の所属する大学でも、どうも大学側が、コスト削減のために教員を減らそうとしているらしく、外国人、特に東洋系がターゲットにされているとのこと。すでに数人は他大学や他の施設に移ったりしている様子。その方は複数のグラントを保持してアクティブな活動をしているにもかかわらず、ターゲットにされているようで、大学側は、将来性の少ない研究分野を廃止すると言う名目で研究室潰しを進めようとしているらしいですが、フタを開けてみれば、それはことごとく外国人PIの研究室だったという露骨な人種、民族差別。グラントを複数獲得し間接経費で大学にも貢献している人を追い出すためにグラントを返却さえ迫る大学というのはかなり狂っています。労働組合が支援してくれているのはいいが、矢面に立たされて、大学との対立は深まる一方らしく、研究に専念するのも容易ではないという気の毒な話。これには、本当に同情しました。ただでさえ日々、研究に専念していないと生き残っていけないような業界なのに、本来、研究者を守るべき大学や研究施設が逆に対立してきて貴重な時間を奪われるというのは研究者にとっては死活の問題です。もちろん、私はそんな大学はさっさとやめて、別の場所に移るべきだと言いましたが、言うは易し行うは難しなのは私もわかっているわけで、複雑な気分。ポジションを探してまた一から研究室を立ち上げて軌道に乗せるまで、多分1年以上のロスが出ます。このご時世、グラントを持っていてもポジションが見つかるかどうかもわかりません。これが私のような超弱小研究室であればこの時間のロスは十分、致命傷になりえます。加えて、それまで長年の生活の基盤をいろいろな意味で失うことになるわけですからね。

Brexitやトランプのアメリカファーストに見られるように、己が不幸を外国人に転嫁し、その「敵」を排除すれば、生活が向上する、と言う幼稚な心理が跋扈する近年、世界的に不況になり余裕がなくなってきている証拠だと思います。人々がまだ理性を維持できてブレーキをかけることができるのなら良いのですが、これが集団化したり権力者が声高に叫ぶと、ナチスなみに厄介なことになります。

異質なものを排除すれば、やりやすい組織や社会になる、と考えるのは幼稚すぎるというものです。本来なら、異質なもの、合わないものとなんとか折り合いをつけてやっていくことを学ぶのが人間の個人として、そして社会としての成熟であり、合わない物を「排除」する、極端には殺してしまおう、と思うこと、ましてそれを口にすると言うのは、自分が如何に幼稚であるかということを公言しているようなものです。

そして、国民の多くが幼稚であれば、それを支持してしまう。衆愚政治の恐ろしさは付和雷同する多数の未熟な人間の操作された総意の方が少数のより賢明な意見よりも優先することです。
選挙の自民党の大勝を予想するニュース結果には暗澹たる気持ちになりますが、あれほど嘘とゴマカシ、無責任、責任転嫁、大失敗の経済政策で成果ゼロ、己の犯罪の追求が怖くて衆院を解散するような党を、信任するというのは、一体、どういう病理でしょうか。ただ、「排除の論理」で一気に支持を失った緑狸党をみると、まだ国民の多くは成熟した判断力を持っているとも私は感じます。

今回の選挙は、予想外の興味深いことが起きています。保守、改憲派の漫画家である小林よりのり氏が、「自民党は保守ではなく、単なる対米隷属党だ」と言って立憲民主党の応援演説に立ちました。また、右翼の一水会の鈴木邦男氏も立憲民主党の応援演説したとのこと。

兵頭正俊 @hyodo_masatoshiツイート
一水会の鈴木邦男が立憲民主党を応援。もう状況は、右も左もない。戦争か平和かの闘いです。偽物か本物かの闘い。売国奴か愛国者かの、そして底なしのバカか、未来を想像できる利口者かの闘いになっている

つまり日本がアベによってここまでひどい状況に追い込まれてしまったことに強い危機感を持った人々が、右翼左翼、保守リベラルという軸での立ち位置を離れて、共闘する状況になっています。

10月13日の共産党の小池さんのツイート
岩手県庁前をぎっしり埋めた聴衆の皆さんに「岩手3区は小沢一郎さんを!」って呼びかけた時、ちょっとふるえました。こういう日が来るとは。感無量です。

元をだ出せば、小沢一郎はかつては自民党の若きエース。共産党が自民党出身の候補者の応援に入るという快挙。

かつての自民党は良識のある本物の保守がいましたが、今は己が保身と党利党略のために正常な判断力と良識を貫く人がいなくなってしまい、北朝鮮労働党と大差なくなってしまいました。

話がずれました。異質なものを排除するという話でした。結局、自分が一番なのは誰でも同じ、しかし、その上で自分と異なる人、利害が対立する相手にでさえ思いやりを持つこと、が社会を営む人間としての成熟に他なりません。ダライ・ラマも教える通りです。

イギリスでもアメリカでも日本でも、己の不幸を異質な者に転嫁する、これは安易な解決法でありますが、実は何の解決も生みません。他人に責任転嫁すれば、自分は努力して向上する必要がないわけですからね。そういう連中に限って逆に競争の原理を振りかざし、恣意的な基準によって己に邪魔な者を排除しようとするのだからタチが悪いです。Diverseな環境を維持していくことの有意義さは過去のアメリカの成功からも明らかです。逆にピューリタニズムが招く弊害、特に学問の分野において、はいうまでもありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする