百醜千拙草

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英語について 1

2019-11-22 | Weblog
ちょっと前、現在日本で、会話重視の早期からの英語教育がなぜか重要視されつつあり、それに対して、私は利よりもはるかに害の方が大きいと思っている、ということを述べたので、その続きを。

理由は複数ありますけど、日本の英語教育が、「聞いて理解でき、話して通じる英語」を身につけることを重要視していることが、第一に、私はおかしいと思います。すでに、自動翻訳機がかなりの精度になっている、という指摘もある通り、意志の疎通を目的とした会話程度の英語なら機械で十分ですし、そもそも、その目的なら、いくつかの単語と身振り手振りで大抵、通じます。そんなレベルを目指して、多大な時間と労力を割くわけではもちろんないでしょう。

それなら、「聞いて理解でき、話して通じる」英語が、知的交流や交渉などの高度のコミュニケーションで使い物になるというレベルを目指しているのなら、小学校から英語環境にすればそれが身につくと思うのはあまりにナイーブだろうと言わざるを得ません。
毎日、英語を使って生活している英語圏の小中学校でも、長年にわたって英語の授業で英語の基礎と応用を教育し、生徒は苦労して単語を覚え、文法を覚えて、英語を身につけていくわけです。日常会話のレベルではそのような努力は必要ありません。アメリカでは幼稚園前の子供でも英語で意思疎通していますからね。

無論、日本人が英語を学ぶのは幼稚園レベルの会話ができるようになるため、という理由ではないでしょう。日本人にとって英語を学ぶ目的は、英語を通じて何らかの新しい知識を、外国の人々と伝え合うためでしょう。そうした知的に高度な英語での議論が理解できてかつ発信できるためには、単に英語をよく知っているというだけでは無理です。言語によって伝えるものの概念の理解、論理的思考の基礎がなくてはなりません。加えて、そのレベルの英語を「聞いて理解し伝える」には、それなりの語彙力と文法の理解が必要です。極端な話、伝えるのは身振りでも単語でも絵を描くとかの方法でなんとかなるかも知れませんが、「聞いて理解できる」ためには、少なくとも話者の使う英単語と言い回しと文法をあらかじめ知っておく必要があります。
それは、アメリカ人の子供が苦労して学ぶのと同じで、英語環境にしたからと言って簡単に身につくものではないでしょう。逆に言えば、語彙力としっかりとした文法の理解があれば、「聞いて理解し、喋って通じる」のは単なる慣れの問題ですから半年もあれば十分でしょう。

私は、時々、科学雑誌のフロントページをパラパラ見ますけど、そこに比較的平易な英語で書かれている一般向けの記事をストレスなく読むためには、多分、高校までで習う英語の数倍の語彙が必要だと思います。加えて、文化的背景の理解がなければ、しばしば平易な英語であっても理解は困難です。つまり、かなりの意識的な努力によって、語彙力と文法、文化背景のの理解を積み上げることなしに、高いレベルの有意義なコミュニケーションを英語で図るのは困難であるだろうと思います。

英語力は「語彙力と文法」だというのは、かつて、T大出の非常に優秀な人が英語を使って研究発表するのを見て、つくづく感じました。この方は過去に英語圏に留学した経験も日常的に英語を話す環境にもないのに、かなり高度な内容の議論の英文が読んで書けるだけでなく、会話でもできる人でした。その英語の基礎知識の豊富さが、英語で話された結構複雑な内容を的確に理解し、適切な言葉を選んで反応するということを可能にしていました。英語で高度のコミュニケーションをとれるようになるのに必要なのは、英語環境ではなく、アメリカ人の子供と同じように、地道な努力によって、英単語とイディオムを覚え、文法を覚え、文化背景を覚え、発音を覚え、読書や作文やディベートで、訓練していくことだと思います。

この話のキッカケとなったのは愛知県の小学校で、国語と道徳以外の全教科を英語で教えるというプログラムを始めることにしたというニュースです。そもそも、日本語でさえ十分理解できない子供がいる小学校で、ほとんどの教科を英語で授業をやって、おこるであろうことは、学習効率の優位な低下と落ちこぼれの増加であろうと予想されます。

かつて、日本は西洋文明を取り入れるに当たって、西洋の言葉に合わせて新しい日本語を作り、西洋の知識を日本語で教育することで、教育効果をあげました。例えば「神経」という言葉は有名な例で、西洋医学が輸入される前には無かった言葉です。西洋式の医療現場で、日本語の専門用語ができたおかげで、医師は学生や同僚、患者さんとの意思の疎通や教育が非常に容易になりました。そういうことをしなかった韓国では、西洋医学の専門用語の韓国語訳がないので、患者さんに病態を説明するのに苦労するのだという話を聞いたことがあります。

英語環境で授業をするということは、逆のことがおこると予想されます。英語と同時に日本語も知っている必要があります。理科の物理、化学、生物学の用語一つにしても、それを両方覚えないといけないのです。算数一つとってみても、整数、分数、つるかめ算、こうした言葉は英語で教えられるわけですから、それを日本語と対応させるという努力が必要になってきます。そうでなければ、日本語で書いてある文章題の数学の問題は解けないということになります。

現在、日本の多くのものは西洋から輸入されたもので、先人は、日本にはそもそもなかったそれらにあたる日本語を作り出し、日本語によって、西洋の概念を理解し、学ぶということをしてきたわけで、それが日本での教育にある種のアドバンテージを与えてきたと私は思います。英語環境で教育するということはそのアドバンテージ、教育効率、を失うことになると思います。小学校で英語環境で授業をするということは、そのマイナスの方が中途半端に英会話ができるという(あまり役に立たない)能力を得るというプラスをはるかに凌駕するであろうというのが私の予想です。

大事なのは言葉ではなく、中身であると思います。

ちょっと古いですけど、ダリダとアランドロンで「Paroles Paroles (言葉だけ)」

細川俊之と中村晃子のカバーバージョンで、「甘いささやき」

ま、もっとも、こうした教育政策を思いつく人の真の目的は別にあるのでしょうが、その話はまた後日。
コメント
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