報告書書きも終わり、実験も一段落させて、本格的に年末体制、また一年があっと言う間に過ぎ去っていこうとしています。パッとはしませんでしたが、とりあえず、大きな事件もなく無事で過ごせた一年だったことに感謝しています。
このブログは、そもそも、個人的に手紙を書いたり電話を代わりに、知り合いに向けて近況を伝える目的で書き始めたのですけど、約十年ぐらい前に、日本の社会の異常さ、政権、政府の不誠実さを思い知らされ、止むに止まれぬ気持ちで、政権批判、政治批判をすることが増えました。帰郷した時にいろんな人と喋ってみると、驚くほど、皆、政府、政権で行われているとんでもないことを知らない。外国のメディアが普通に報じ、批判している日本の政治が日本のメディアには全く流れない、と言う異常な状況を多少でもなんとかならぬものかと思い、そういう話を取り上げていますが、ブログでまとめて時折、書くというのでは取り上げる情報は限られるし、タイムリーでもない場合が多いです。最近、情報を広く集めるためにツイッターを使うようにしました(右横のリンク)。重要と思う情報はそこでretrweetすることにしましたので、ブログの方はもうちょっと個人的に興味のある話を中心にしたいと思っております。
さて、今年のクリスマスのプレゼントは、マグカップとちょっと断れないスジからの総説原稿の依頼。本業のオリジナル研究がパッとせず、グラントのネタにも苦しんでいる状況なので、総説を書いている場合ではないと自分でも思いますけど、依頼が来るのはありがたいことで、多少なりとも分野に貢献できる機会を与えてもらったのだと思うことにしました。
私、頼まれごとは二つ返事、を原則としていますけど、今月、査読した数本の論文のうち半数以上が中国からで、最近は、中国からの研究論文原稿の査読を引き受けるのは少し減らしても良いのではないかと思っているところです。
中国からの多くの科学論文に共通点があります。これは50年前の日本からの論文もそうだったのだろうと想像するわけですが、いわば「東洋的」に書かれています。東洋的というと語弊がありますけど、要は、全体が丸く収まっていれば、細かいことは気にしない主義、とでもいうような感じです。
例えて言うなら、漢方薬ですね。中国人は実利的であり、漢方薬、東洋医学というのは典型的な例です。中国では長年の経験に基づいて、ある症状に有効な治療法をいうものを見つけ出してきたわけですが、「なぜ、効くか」は基本的に問わない。意地の悪い言い方をすると、「効けば良い」という考え方でしょう。だから病気の原因を突き詰めて根治を目指すという西洋医学の基本的方針とは異なります。その現代西洋医学は「科学的アプローチ」を基本にしています。
西洋科学は(というか科学はそもそも西洋で生まれたものですけど)、むしろ「なぜ効く(効かない)のか」の理由を追求する学問です。そして、唯物論的、還元主義的手法で世界を解釈していき、その知識を応用することで「効く」ものを生み出してきました。実利的な中国人ですから、西洋科学が「効く(役にたつ)」ことは十分実感しているはずですが、しかし、彼らにその「科学」の精神は十分共有されていないというのが私の感想です。
意地の悪い見方をすれば、ここでも「効けば良い」という深いところにある中国的思考があるのでは(日本もそうです)と思います。つまり、中国人研究者にとって、研究が「効く」とはどういうことかということです。中国のアカデミアの競争は熾烈なようで、インパクトファクター主義、論文数主義です。ならば、中国の研究者にとって「効く」研究とは、論文になる研究です。「過程はどうあれ、効けば良い」という態度は「内容はどうあれ論文になれば良い」という思考につながり、結果、中国では南開大学の学長が研究不正の調査対象となり、こちらでは二流雑誌に山のように投稿されてくるクオリティーの低い原稿に査読者がうんざりさせられるということになっているのではないでしょうか。
中国からのそうした論文を読むと、結論が書いてあり、それを支持するデータが並べられていますが、具体的にどのような実験をどういう条件下で行った結果、そのデータが出たのかがわからない、という論文が(これまで私が査読したレベルの原稿では)「殆ど」です。英語も初歩の文法が間違っていたり、おかしい言葉遣いをしているのが多いのですが、これは単に「できない」のでないと思います。思うに、これは「英語など正確でなくても通じればいい」と思っていて、著者らが、「正しい英語を厳密に書くということが科学コミュニケーションの基本である」とは、考えていないからであろうと私は想像するわけです。つまり、やれないのではなくやる気がない(多分)。
要は、「実験の過程はどうあれ、こういうデータが出て結論が得られたのだから、細かいことはどうでもいいではないか」という態度で書かれているように見えるのです。正直言って、こういう論文は、方法がキッチリ書かれていないという理由だけでリジェクトされるべきだ、と私は考えていますが、実際問題、出版社は掲載料を集めたいわけですから、簡単にリジェクトしたくないというバイアスがかかっており、レビューを書く方も、よほどでない限り方法論の十分な記載がないからリジェクトとは書きにくい訳で、結局、具体的にそんな基礎の基礎の不備を一つ一つ指摘せざるを得ません。そんな不毛な作業に時間を費やして、肝心の研究内容の議論ができない、という非常に疲労感の高い結果になります。これが、過去十年ほど、中国からの論文の査読を引き受けるたびに延々と繰り返されており、全く改善していく傾向が見られません。
だから、きっとこれはそもそも中国の文化的な背景があって、中国人研究者は、多分この問題(私には、科学的アプローチに対する基本的理解の欠如、と見えます)を深刻なものであるとさえ、思っていないのではないか、と想像しています。「効けばいい」という実利主義の文化と、(効く、効かないはとりあえず置いておいて)現象のメカニズムをまず、明らかにして世界を論理と唯物論によって解釈し(そして、応用を考えて)いこうとする科学的アプローチは相性が悪いのかもしれません。(実利主義が悪いと言っているわけではありません。いくら好物でもクリームケーキに餃子をトッピングするのは勧められないという話で)
そもそも西洋でも比較的最近に生まれた科学という学問を、何千年という歴史の東洋的文化が染み付いている中国人や日本人が、せいぜいこの100年あまりで、学ぼうとしてきたわけですから、文化的な影響があるのは当然です。しかし、科学という西洋の学問には、すでに洋の東西を超えて確立された「科学的精神」があり、科学という活動に携わるものはその精神に則って活動を行うのがルールだと思います。