百醜千拙草

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怒りについて

2019-12-17 | Weblog
「怒り」は、仏教でいう「貪・瞋・癡」の三毒のうちの一つ、「猛毒」であり、それに気づいたときにはすぐに消さないと大きなダメージを受けるのだと、私は学んできました。特に悪意のない過ちを犯した人に対して、うっかり怒ってしまうと、人間関係にも深刻なダメージが起きます。「怒り」の負の影響について、この十年ぐらいはとりわけ、注意をしてきました。これは感情ですから、何かに反応して反射的に出てくるもので、出てこないようにするのはなかなか大変ですけど、出てきた怒りを理性によってコントロールするのは訓練でできるようになります。感情を理性で制御できるのは人間ならではです。

一方、喜怒哀楽が豊かなのは、感受性が高いということでもあります。近年は感情の表出を抑制することが求められ、特にパブリックな場所で、会見で号泣したり、このハゲーと怒鳴ってみたり、「ウラジミール、ともに駆けて、駆けて、駆け抜こう!」などと言葉尻を振るわせてみたりすると、「ドン引き」されます。(ま、最後のギャグにはプーチンも吹き出しそうになっていましたが)

でも、そうした感情の表出に対して、昔の社会はもうちょっと許容性が高かったようだったと、下の小田嶋さんの記事を読んで思います。小津の映画でも、大人の男が感情に任せて女房を平手打ちするという場面などがあって、ちょっと顔をしかめてしまいますけど、だからと言って、すぐに離婚や訴訟問題にはならずに、打たれた方も打った方も一時の感情の高ぶりにすぎないと思っている、そんな鷹揚さが昔はありました。現在ではそういうわけにはいきません。愛の鞭も暴力ですから。私も、肉体的にも精神的にも人を傷つけることは人間としての罪であると思っておりますし、そういう点でも怒りという感情は、取り扱いに十分に注意をしないといけません。

しかしながら、一方で、悪意のあるものに対して、怒りを持って批判するのをためらってはいけない、とも私は思います。怒りに支配されてその炎で自ら火傷をするのではなく、怒りをコントロールしてそのエネルギーを利用するということです。

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 世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。
 なんだか古典的な左翼の言い草に聞こえるかもしれないが、私は、デカい主語でなにかを語る時には、古典的な左翼の分析手法はいまもって有効だと思っている。
 ともあれ、私は、しばらく前から、平成令和の日本について考える時、一部の恵まれた人たちが、大多数の恵まれていない人たちを黙らせるための細々とした取り決めを、隅々まで張り巡らしている社会であるというふうに感じはじめている。
 もう少し単純な言い方をすれば、彼らが、「怒り」を敵視し、「怒りを抱いている人間」を危険視し、市井の一般市民にアンガーマネジメントを求めることによって実現しようとしているのは、飼いならされた市民だけが生き残る牧場みたいな社会だということだ。
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 令和のこの時代に、ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか。
 私は、必ずしもそうは思わない。義務としてニコニコしている人間が少なからずいると思うからだ。
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 私個人は、いつも真顔でいることを心がけている。
 真顔ほど正直な表情はない。

私も正直さは最上の美徳であると信じております。だからこそアベ一味が許せない、彼らが、卑怯なウソと不誠実さで、大勢の国民を搾取し、欺き、傷つけてきたことに心底、怒っております。
 そして、何が問題かもわかっていないくせに、単に怒っているというだけで、真剣に怒っている人々を嘲笑するような人々にも怒りを禁じえません。(そんな人々も守りたい、と山本太郎なら言うでしょうけども)

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