中国で研究をされている人のブログを見つけました。
、、、アメリカ式のラボにしたくて、学生とは対等にディスカッションしようとしているのだが、多くの場合友達感覚で相手して良いと思われるらしく、さらにはコイツは外国人だから少し適当に相手しても問題ないと思われるらしく、感謝は当然なく、あるのは中国人教授相手には考えられない適当な態度である。、、、
、、、夢や希望をもった学生なんて滅多にいないのだ。それが現実である。夢があってもチャンスを得ることができない学生のために頑張ろう、と50歳を過ぎているにも関わらず青臭い愚かな考えを有していた自分がバカであった。学生は単位と学位が取れれば幸せなのである。「自分の頭で考えるんだよ」なんていう言葉は遠回しの嫌味にしか聞こえていない。あるいは指導をしたくない教授の言い訳か。どうすれば楽にデータを出して論文を出して学位を取得できるか。どうすれば勉強しなくても単位を取れるか。それが一番重要なのであり、それを示すことが出来る教授が評価されるのである。、、、
中国人は現実主義で実利主義だと思いますが、この傾向は中国に限ったことではないです。人間は自分がもっとも大切と思っており、世の中の大多数の人は、多かれ少なかかれ他人は利用するためにあると考えているわけですから。
しかし、近年、短絡的で物質的かつ近視的にしかものごとを見ない若い人が増えたように思います。それは、おそらく、世の中に余裕がなくなってきているからではないでしょうか。長期投資をしている余裕がない、学問を楽しむ余裕がない、人を蹴落として競争に勝たないとよい生活が送れないとなれば、人間性も淺ましくなるのは道理です。また、余裕がなく追い詰められた人は判断を誤ります。四年前にトランプを支持した下層ミドルクラス白人がそうでしょう。
それにしても「夢や希望をもった学生なんて滅多にいないのだ」という言葉は魯迅の「故郷」最後の文章を思い起こさせます。魯迅は「希望は、道のようなもので、歩く人が多くなればできるものだ」と言います。「夢や希望を持たない学生」に「希望」があるとすると、この魯迅の言葉にヒントがあるのではないでしょうか。