百醜千拙草

何とかやっています

西洋と東洋

2021-05-18 | Weblog
週末は論文査読を二つ。どちらも中国からです。一つのジャーナルはImpact factorが10以上あるのに、ウチの業界ではまだ無名の雑誌。比較的後発の雑誌で、例によってNPGが出しているわけですが、無名の雑誌なのにIFが高いというのは、事情があります(と思います)。この雑誌のChief Academic Editorをやっているのはアメリカの某有名大学を拠点にしている中国人研究者と彼と近いアメリカ人研究者で、雑誌の編集室は中国です。ご存知の方もいるを思いますけど、中国の細胞生物学学会誌もNPGから出ており、その雑誌のIFも10以上ありますが、国際的には無名雑誌と言ってよいでしょう。雑誌の中身をみればその理由がわかります。8割以上の論文は中国人が著者であり、彼らが相互またはセルフサイテーションをすることで、インパクトファクターを吊り上げているのです。アベノミクスで量的緩和した金を株式市場にぶちこんで株価を買い支えたようなものですね。

競争が激しくなると、自然とメトリックス至上主義となります。結果として研究は出版のための活動となり、よりインパクトファクターの高い雑誌に数多く論文を載せようとする研究者が、厳密さにかけるデータを寄せ集めて話を作るというヤラセのドキュメンタリー番組のような論文が増えることになっています。(私自身の経験から)この傾向が露骨なのが最近激増した中国からの投稿で、端的に言うと「雑な」論文が多いのです。その論文をよく見てみると雑なだけでなく、話そのものも怪しいということがしょっちゅうあります。その中国人研究者が置かれている事情も理解できるし、競争が激しいところで怪しいデータや捏造などが多くなるのは世界中どこでもですけど、それを言い訳にするのは認められません。英語は適当、必要な情報がポロポロ抜けていて、理解困難な論文を週末の数時間を費やして読んでいると、正直、だんだん腹が立ってきます。

中国(や日本でも)で問題の多い論文が多い理由は、勝者報奨を基本原則とする弱肉強食競争社会の構造的なプレッシャーに加えて、歴史的、文化的な差異、つまり中国(広く東洋)の現実を重視する文化、が影響しているのではないかと私は考えております。科学は西洋で生まれた世界を理解するための方法であって、そもそも東洋の文化と馴染みが悪いのではないかと私は思っています。ちょうど西洋での革命を機に打ち立てられた民主主義が日本にはいつまで経っても根付かないのと同じではないでしょうか。

その東洋と西洋の差について、強い印象を受けたのが若い時に呼んだ石田種夫さんのエッセイです。亡くなられて随分たちますが、石田種夫さんはバレエダンサーだった方で、その昔読んだ本は、舞踊、舞踏を入り口とした優れた西洋と東洋の比較文化論でした。日本人でありながら西洋のバレエを踊る著者の実体験からの深い考察が記されていました。

例えば、西洋と東洋の踊りの違いについて述べたところで、一つ非常に印象に残っているものがあります。東洋の踊りは地面を踏みしめるように踊り、その動きは農作業などの日常生活と密接に繋がっているのに対し、バレエではあたかも地面から離れるような動きが強調される(トウで立ったり、ジャンプしたりする)という観察と考察の部分です。このことは、たびたび、異なったコンテクストで指摘される東洋の「現実主義」と西洋の「理想主義」の傾向を示す一例として、私には非常に腑に落ちました。

この違いを突き詰めていくと、農耕民族と狩猟民族との差に起源をなすのだろうと思います。土地から離れるとのできない農耕民族が和を大切にして個を殺すのに対して、狩猟民族は個人が優先され、敵と味方に区分します。農耕民族だと、自由度は低いが安定性は高い、狩猟民族だと自由度は高いが安定性は低い、ということになるのではないかと思います。それで、前者は現実主義的傾向で共生指向、後者は理想主義的傾向で競争的、弱肉強食指向をもつようになったのではないだろうかと想像します。

話がずれました。中国からの論文はなぜ雑なのかという話でした。それは中国人は科学的厳密さよりも論文出版効能を最優先しているからだろうと思います。厳密な態度で間違いのない結論に到達することよりも、人よりも早く、多く、有名雑誌に論文を出版することが重要なのです。なぜなら、厳密な研究を行うことは後者の達成を遅らせる上に金やポジションといった実利につながらないからです。加えて、絶対神への信仰のない中国人や日本人は、行動基準は「原則やルールの忠実かどうか」ではなく、むしろ「まわりの人間がどう振舞うか」であって、赤信号でも皆が渡っていればOKだと考えがちなところが、この実利主義傾向をさらに加速させているのだろうと想像します。

ま、そもそも論文出版ビジネスもメトリックス主義もほとんどシステムとして破綻していると私は思います。さらにはアカデミアというものがもう崩壊寸前なのではとさえ思います。論文査読をやる度に、自分は何をやっているのだろうという虚しい気持ちを感じることが増えました。
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