二週間前のNature フロントページの記事が印象に残ったので。
著者はDavid Asaiさんという、多分、日系アメリカ人、で現在ハワードヒューズ財団の科学教育シニアディレクター。
アカデミアにおいて、アメリカなどではDiversityが重要だと長年言われてきました。この場合のDiversityは人種や性的マイノリティーを増やそうということをだいたい意味していると思います。そのことが、アカデミアの発展につながるという理屈が、私にはよく分かりませんけど、アカデミアが似たような人々が寄り集う閉鎖的空間になってはまずいだろうとは思います。アカデミアで偉くなっている人は大抵、秀才であり、一流大学にいって大学院やポスドクでは有名研究室で一流の研究に携わり、成果を出した人々です。アカデミックな優秀さに沿って選択が行われているわけですから、そもそもDiversityとは逆です。思うにアカデミアでは人種にかかわらずに優秀な人を増やしたいから、人種や性別で選択をしないというのが多分、Diversityの意味するとこなのでしょう。しかし、これは社会の問題であります。マイノリティーは所得の比較的低い家庭の出身であり、そういう家庭では教育をあまり重要視しないか、物理的な理由で十分な教育を受けられない可能性が高まり、結果として、自然と大学でアカデミアを追求する人々の割合が低くなるだろうと想像できます。アカデミアで、Diversityを増やす努力とか、そのためのAffirmative actionとかは、私はむしろ不公平ではないかとさえ思っているわけですが、これは、もっと単純にみんなが居心地のよい職場をつくるための努力であり、メンバーの快適さを増やすことで能力を上げるのを目的とした動きであると解釈すべきであり、逆にDiversityという言葉はその目的にふさわしくないのではと思います。
近年、よく聞かれるようになった"Inclusion"はDiversityよりもマシだと思います。その違いや概念についてこの記事はよい解説になると思います。 以下、ごく一部を意訳。
To learn inclusion skills, make it personal
大学などで招かれて科学的エクセレンスについて講演する時、私はdiversityとinclusionの重要さを強調します。一年ほどまえのこの手の講演で、私は簡単な実習を加えました。私は聴衆の人々に、彼らが部外者であると感じた時のことを思い出して、その話をしてほしいと頼んだのです。ある委員会唯一の女性であった人、他の大学職員と一人だけ見た目が違う人、ざわざわとした会話でいっぱいになりました。、、、
、、白人でない昔の学生がお互いに、大学時代のことを話しました。彼らは常に監視されているように感じ、身の安全のために、文化的な特徴を消すようにしていたと言いました。、、、、
このとき、私は"Inclusion"というのは感情に注意を払うことなのだと理解し始めました。毎日、自分がそこにいてよいことを正当化する必要があるならどう感じるだろうか、そしてその環境で生き延びるために常に警戒していないとしたら、どんな気持ちだろうか。
、、、、
InclusionのないDiversityは空虚なポーズに過ぎない。Inclusionは、構成員が)そこに帰属しているという思い(を持ってもらうこと)です。だから、力強く、包容力がある平等な環境の構築は「心」から始まるのです。
著者はDavid Asaiさんという、多分、日系アメリカ人、で現在ハワードヒューズ財団の科学教育シニアディレクター。
アカデミアにおいて、アメリカなどではDiversityが重要だと長年言われてきました。この場合のDiversityは人種や性的マイノリティーを増やそうということをだいたい意味していると思います。そのことが、アカデミアの発展につながるという理屈が、私にはよく分かりませんけど、アカデミアが似たような人々が寄り集う閉鎖的空間になってはまずいだろうとは思います。アカデミアで偉くなっている人は大抵、秀才であり、一流大学にいって大学院やポスドクでは有名研究室で一流の研究に携わり、成果を出した人々です。アカデミックな優秀さに沿って選択が行われているわけですから、そもそもDiversityとは逆です。思うにアカデミアでは人種にかかわらずに優秀な人を増やしたいから、人種や性別で選択をしないというのが多分、Diversityの意味するとこなのでしょう。しかし、これは社会の問題であります。マイノリティーは所得の比較的低い家庭の出身であり、そういう家庭では教育をあまり重要視しないか、物理的な理由で十分な教育を受けられない可能性が高まり、結果として、自然と大学でアカデミアを追求する人々の割合が低くなるだろうと想像できます。アカデミアで、Diversityを増やす努力とか、そのためのAffirmative actionとかは、私はむしろ不公平ではないかとさえ思っているわけですが、これは、もっと単純にみんなが居心地のよい職場をつくるための努力であり、メンバーの快適さを増やすことで能力を上げるのを目的とした動きであると解釈すべきであり、逆にDiversityという言葉はその目的にふさわしくないのではと思います。
近年、よく聞かれるようになった"Inclusion"はDiversityよりもマシだと思います。その違いや概念についてこの記事はよい解説になると思います。 以下、ごく一部を意訳。
To learn inclusion skills, make it personal
大学などで招かれて科学的エクセレンスについて講演する時、私はdiversityとinclusionの重要さを強調します。一年ほどまえのこの手の講演で、私は簡単な実習を加えました。私は聴衆の人々に、彼らが部外者であると感じた時のことを思い出して、その話をしてほしいと頼んだのです。ある委員会唯一の女性であった人、他の大学職員と一人だけ見た目が違う人、ざわざわとした会話でいっぱいになりました。、、、
、、白人でない昔の学生がお互いに、大学時代のことを話しました。彼らは常に監視されているように感じ、身の安全のために、文化的な特徴を消すようにしていたと言いました。、、、、
このとき、私は"Inclusion"というのは感情に注意を払うことなのだと理解し始めました。毎日、自分がそこにいてよいことを正当化する必要があるならどう感じるだろうか、そしてその環境で生き延びるために常に警戒していないとしたら、どんな気持ちだろうか。
、、、、
InclusionのないDiversityは空虚なポーズに過ぎない。Inclusionは、構成員が)そこに帰属しているという思い(を持ってもらうこと)です。だから、力強く、包容力がある平等な環境の構築は「心」から始まるのです。
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