百醜千拙草

何とかやっています

愛は勝つ

2014-09-23 | Weblog
久しぶりに実験らしい実験をしました。以前なら自然と頭に一手先の手順が浮かんでムダなくサクサクと行くはずのところが、ぎこちなくつまずきながらでしたが、はやり手を動かして作業をするというのは楽しいです。小さな実験でもコツコツと手順を積み重ねて、結果を見るときは、それなりにドキドキします。うまく行くと嬉しいです。うまくいかないと余り嬉しくはないですが、それでも何度か悪い所を考えながら実験を繰り返して成功した時はやはり嬉しいです。そんなささやかなことを日々、繰り返しながら、発見の物語を紡いで行くのが研究の楽しみだと思います。

しかし、職業研究者となると、そのようなささやかなオタク的な喜びを楽しんでいるだけでは生きて行けません。世間の役に立たないといけません。世間の(そのスジの)人々の一定数が、その発見の意味や価値を理解できるような研究成果を出して、論文として発表しないといけません。論文にならなければ、仕事をしていないのと同じであり、仕事をしていないと見なされれば、研究費もポジションも給料も貰えないというのが、現在のシステムですから、論文をよいジャーナルに通すためには、手段を選ばぬという人がいても不思議ではありません。

しばらく前のT大一連の研究不正事件を思い出しました。調査結果では、「研究室の教員や学生に対し、技術レベルを超える実験結果を過度に要求し、強圧的な態度で不適切な指示や指導を日常的に行ったため、教員らが『研究室の主幹者が捏造や改ざんを容認、教唆している』と認識したことが問題の主因となった」とあります。
そういうウワサは以前からチラホラとは聞いていました。ウチの分野でも似たようなタイプの人がいます。一流雑誌に論文はどんどん載るのですが再現性がないというのがもっぱらの評判。今回の学会でも同じマウスなのにウチの別の研究室が出したデータと全く合わないデータを発表していました。かつて、そこには「魔法の手」を持つポスドクが一人いて、他のポスドクが一月かかっても出せないデータも二日で出せたというウワサでした。こういう研究室では、アメとムチによるポスドク操作が行われており、欲しいデータを出せないポスドクに対して、指導という名のある種の脅迫が行われているらしいです。研究室のリーダーもポスドクも良い論文が欲しいのは同じです。そのために苦しい努力をした上で本当のストーリーを発見して形にしてこそ、真の喜びもあるわけですが、論文が出ない恐怖、職や研究費を失う恐怖、そういった恐怖に捕われてしまう人々は少なくないのでしょう。

人の行動の原動力は、恐怖に支配された行動か、愛による自発的な行動かのいずれかなのだそうです。恐怖に打ち勝つには愛しかありません。
研究に対する愛、あるいは研究活動に感じる喜び、それを失ってしまうと、職業研究者は、容易に恐怖に捕われてしまいます。私、それが、最近の一連の研究不正の根源にあるメカニズムではないかと思います。
特に、机の上だけで妄想しているようなPIは、研究の喜びを忘れて、論文を通すことばかりに注意を奪われ、そして論文を出せない恐怖に捕われてしまうのではないでしょうか。それでは本末転倒です。研究の喜びを取り戻すことが、私は健全な研究室の運営に不可欠だと思います。

研究の喜びをどのようにして再び手に入れたらよいのでしょうか、私が思うに、それは自分で手を動かして、実験することが一番、手っ取り早いと思います。直に手で触れて、自分で出したデータなら、そんな簡単に捨てたり、否定したり、でっち上げたりできないのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

恐怖に勝てるのは愛しかありません。(恐怖に恐怖をもって対する「抑止力」というヘリクツが全く説得力をもたないのは当然でしょう)
研究者であるならば、日々のストレスの中で、失いがちな研究の喜びを取り戻すことによって、恐怖を克服していかねばなりません。

昔のRighteous Brothersの大ヒット曲を思い出しますね。

プレスリーのカバーで。


いやー、Cheesyですな。しかし、そのクサいところがいいのですね、たぶん。
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