百醜千拙草

何とかやっています

最先端研究開発支援プログラムのこと

2010-04-23 | Weblog
先週、論文を投稿してホッと一息、と思ったのもつかの間、早速、rejectionのメールでがっくり。私の論文と内容的にオーバーラップする競合者の論文を既にアクセプトしてしまった、雑誌のポリシー上、その出版を遅らせることはもはやできないので、私の論文をレビューに回している時間がないとのこと。申し訳なさそうな文面ではありましたが、これで、私の立場はちょっと苦しくなりました。彼らの論文が6月に出版されるまでに、別の雑誌に投稿してレビューに回してもらって、リバイスのチャンスをもらわねばなりません。早速、論文を書き直し、いつもの所に投稿。
 このネタでは、無事にグラントも貰えたので、論文については、高望みはせず、妥当なところが取ってくれれば、それで満足しなければと、自らを慰めています。最初にキメラマウスを作るところでうまく行かず、一年近く足踏みしていて出遅れたのが痛かったですが、それでも、なんとかまとめることができて、競合者に大きく水をあけられなかっただけでも有り難いと感謝すべきだと、思い直すことにしました。論文出版というゲームは、特許同様、ちょっとのタイミングの違いで入賞と落選が決まる場合も多いわけで、これもゲームのうちと割り切らねばなりません。
 それにしても、どうして雑誌はしょっちゅう、体裁を変えるのですかね。同じ雑誌のくせに、投稿する度に、ちょっとずつ、参考文献リストの様式や投稿方法が変わっていたりするので、「おっとっと」ということが、しょっちゅう起こります。参考文献リストの作成にはエンドノートの最新版を使っているのですけど、その雑誌別の様式がもう既に変わっていました。それで、気が急いているのに、エンドノートの使い方から学び直しです。そもそも、いろいろな雑誌が様々な体裁を使うのが大変不自由です。雑誌社どうし話し合って、体裁を統一するとかいう考えがあってもよいのではないかと思うのですけど。こういう内容に関係のない(つまらない)ことをちょこちょこ直したりする時間というのは、私にはとても無駄に思えます。しかし、初めて論文を投稿したころ、何部も紙に印刷して、高いお金を払って図を作ってもらって、郵便で投稿していたころのことを考えれば、最近はほとんどオンライン投稿ですから、随分と便利になったのは間違いありません。それでも、便利になればなったで、ちょっとした不便というものが我慢できなくなってくるのですね。人間とは勝手なものです。

さて、本題ですが、4/15号のNatureのEditorialsとNewsのセクションでは、再び、日本の科学研究費のことについて触れられています。自民党政権時代に何十億という規模の金額を少数の研究者に集中投下するという政策が決まり、政権交代後に、規模を縮小して施行されることになった、例の悪名高いFIRSTというプログラムです。FIRSTというのはFunding Program for World-Leading Innovative R&D on Science and Technologyという恥ずかしげな名前のAcronymの様ですけど、私、この手の名前を聞く度にシャツの中にナメクジを落とされたような、気持ち悪さを感じます。そして語呂の良い略称にするために無理矢理こじつけたのが丸わかりのプログラム名に必ず、“World”という言葉が入っているのが、辺境民としての日本の劣等感の裏返しであるところが悲しいです。どうして、堂々と日本人が日本で独自の研究を行うというプライドというか矜持というかそういうものを持てないのか、そもそも、冷戦時代の米ソ対立ではあるまいし、日本の研究が世界をリードすることに何の意味があるのか、いつまでも上目遣いに世界、世界と周囲をキョロキョロして、勝ったの負けたのと下らない競争の結果に一喜一憂することが、そんなに大事なのか、とつい思ってしまいます。日本人のいう”World”とは、アフリカでもインドでもブラジルでもなく、欧米のことであり、そのネーミングには、日本人は体力や物質力で欧米人に劣っているし、事実、第二次大戦ではコテンパンに負けてアメリカの属国となってしまったが、大和魂を奮い起こせば、必ずや毛唐に勝って、敗戦でうけた屈辱を晴らせるはずだ、という欧米に対する愛憎入り交じった複雑かつ卑屈な感情が読み取れます。戦後の娯楽としてプロレスがあれだけ流行ったのも、日本の正義の見方の力道山やジャイアント馬場が悪いガイジンを懲らしめるという筋書きに、敗戦国の劣等感の昇華作用があったからでしょう。敗戦後、欧米に劣等感を持ち続ける日本が、世界(即ち、欧米)と肩を並べれるようになりたい、彼らに対等の友人と見なしてもらいたい、そういう気持ちが未だに尾を引いているのでしょう。もしも、日本人がその研究や民族性に自信を持っているならば、Worldなどという言葉を使わないと思うのです。世界(欧米)と肩を並べて、「並」の国であることを望んだりはしないでしょう。それどころか、唯一無二の誇り高い孤高の君子国でありたいと望むはずです。確かに近代科学はヨーロッパで生まれ、アメリカで開花しました。日本は彼らからいろいろ学んだ生徒でありました。しかし、古人も言うように、「弟子の見識が師匠と同程度では師の徳を減ずる」というものです。日本は後発であるがゆえに、師を越えねばならず、そして師を越えてなおかつ謙虚でなければなりません。そうあることが日本が世界をリードする条件であると私は思います。
 日本の科学政策プログラムを組む人々は、未だ、敗戦後の負け犬根性が尾を引いているのではないでしょうか。日本のプログラムに”World”という文字を見る度に私は、その卑屈さを感じてしまうのです。アメリカ、ヨーロッパの研究プログラムで”World”というような文字がプログラム名に入っているのを見たことがありません。大体が日本の研究者をサポートするためのプログラムに、わざわざ英名で恥ずかしい名前をつける必要がどこにあるのか、と思います。日本の研究者に頑張ってほしいのなら、「日の丸基金」とか「立ち上がれ日本基金」ぐらいでよいではないですか。英語論文のAcknowledgementsの欄には、”Hinomaru Fund”とでも記載すればよろしい。
 話がそれました。その”Winner takes all”と題されたNatureのEditorialの趣旨ですけど、私が批判してきたと同様、国の資金を既に資金が比較的潤沢にある研究室に上乗せするようなことをするよりも、もっと広く小額の競合的資金を増やす方がよいのではないか、という意見です。事実、この記事によると、研究助成金の平均額は2003年が334万円だったのが、2008年には289万円と減っていることを述べています。これは結局、多くの問題を作り出したポスドク制度の後遺症として、研究者人口が科学予算に比してアンバランスに増えすぎたためであるとあります。
 一方、ニュースのセクションでは、この研究資金を受け取ることになったヒタチ研究所のトノムラアキラ氏の話がカバーされていて、超高性能原子顕微鏡を作るというプロジェクトに長年取り組んで来たのに、資金不足で、プロジェクトをあきらめざるを得ない状況に近かったのが、今回の50億円の資金のおかげで夢が復活したという話が紹介されています。確かにこのような大規模プロジェクトに資金投入するのは、ある程度、必要なことだと思います。こういうプロジェクトは顕微鏡の建設費もろもろで、そもそも金がかかるものですから、資金難だからプロジェクト規模を半分にしろ、といわれてもできるものではありません。しかし、生物科学系であればどうでしょう。この記事では、生物系として、阪大のアキラシズオさんや山中さんの話にも触れられています。アキラ氏はこの金でもっとリスクの高い「ギャンブル」(的研究)ができるとコメントしています。(そもそも良い研究は結果が予測しがたいという点でギャンブルなのですけど)一方、山中さんはこの資金で当初はiPSを使った糖尿病に対する前臨床試験を計画していた、という話です。これらの研究は、顕微鏡開発の場合と異なって、研究資金の大きさに従ってフォーマットを比較的フレキシブルに変えることができます。ギャンブルに使う金が乏しいのなら、その金がたまるまで、ギャンブルを延期すればよいだけの話です。臨床応用の話なら、税金がベースの研究資金に頼らずとも、製薬会社をはじめとして多くのスポンサーが比較的簡単に見つかるでしょう。そういう意味で、殆どの生物学研究は本来小規模なオペレーションで個人的な活動を基礎にしており、資金の融通性という点で、ある種の物理学研究のような大規模プロジェクトとは性質を異にしていると私は思います。ですので、この研究資金にしても、大規模プロジェクトで絶対的に巨額の資金の必要なプロジェクトとそうでないものを分離して扱うべきであろうと私は思います。
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